午後の執務の時間、ミロの左隣で報告書にペンを走らせていたアフロディーテは、ふとした拍子に視界に入ったそれに目を奪われ、手を休めた。
「ミロにしてはずいぶん可愛らしいものをつけているね。」
ハートを模ったルビーをはめたゴールドリングは、ミロが真面目一辺倒であることを考慮すれば、異色の代物だ。
どちらかといえば、リングなど戦闘の邪魔になるといって外しそうなものだが、と不思議に思って小声で問いかければ、書類を睨みつけていたミロが眉間にしわを寄せて左手を宙にかざした。
「はめられたのだ。呪いでもかけられているのか、取ろうとしても取れん。」
「はめられた?誰に、どういう経緯で?」
もしや、とうとう愚弟がプロポーズに挑んだのだろうか。しかし、それにしては、ミロの面倒くさそうな表情がいささか腑に落ちない。
興味に駆られて身を乗り出すアフロディーテを、ミロは不審そうに一瞥したが、ここで黙ってもいずればれると判断したのか、しぶしぶ語り出した。
「カノンの禁煙を手伝うことになり、それで、はめられた。」
「…話が見えないんだけど、最初から説明してくれないかな。」
「昨日、カノンがいつものようにやって来て飯を作ってくれたのだが、食後の一服などと言って喫煙しようとしたのだ。それで、止めた。」
ミロに言わせれば、聖闘士が煙草を吸うなどあってはならないことらしい。出逢ってから十余年、ヘビースモーカーのデスマスクはいまだに禁煙するよう迫られ続けている。
聖戦後、ミロの追及が緩くなったと伝え聞いていたが、どうもデスマスクの代わりにカノンが犠牲になっていたようだ。ミロにしても、長年言い聞かせてもまったく効果のないデスマスクより、新参者で禁煙の可能性のあるカノンの方が御しやすいと判断したのだろう。
確かに、ミロの言い分は一理あった。戦闘に身を投じる聖闘士が喫煙で体力を損なうなど、あってはならない話だ。
「一生涯の禁煙か、天蠍宮からの退去か、決断を迫ると、やつは俺が手伝うならば禁煙しても良いと譲歩してきた。」
退去を迫られ、カノンはさぞ慌てたことだろう。双子座の愚弟が蠍座に惚れ抜いていることは、聖域では知らぬもののない事実だ。
「それで、優しいミロはカノンの禁煙を手伝ってあげることにしたわけだ?」
「新参者に正しい黄金聖闘士の道を照らしてやるのは、同僚として当然のことだ。しかし、気にくわん。」
「一体、何が?」
「カノンのやつ、絶対に裏切ることのないよう、俺に宣誓書を書かせたのだ。公的書類のようだったが…このミロが一度誓いを立てたことを、覆すような人間だと思っているのか。」
鼻息も荒くミロが言う。どおりで、先ほどからミロが心底不満げにリングを睨みつけていたわけだ。もともと装飾品に興味などないだろうし、外そうとしても外せないとなれば、呪い以外の何ものでもないだろう。
「結局、それがどうして指輪をもらうことになったんだい?」
「わからん。」
あのとき、カノンは嬉しそうに笑っていた。それをいつか絵本で見たチェシャ猫の笑みのようだと思っているうちに、左手を取られていた。
『代わりにこれをやる。』
「よくわからんが、蠍の心臓だと笑っていた。これは一生俺を繋ぎ止める契約の鎖だとも。きざな奴だ。やつは一体どこでああいう台詞を覚えてくるのだろうな?」
公的書類にサインもしているようだし、左手の薬指の意味と言えば一つしかないのだが。
何もわかっていない様子で首を傾げるミロに、内心困り果てたアフロディーテは椅子の背に体を預け直した。
「ミロ、それは。」
口にすべきか否か悩んでいるうちに、向かいで書類を睨みつけていたカノンがペンを机上に放り出した。慌てて、アフロディーテは口を噤んだ。
「駄目だ、苛々する。吸いたい。口寂しくてかなわん。」
カノンの不満げな台詞に、はす向かいで書類整備にあたっていたムウが煩わしげに返した。
「一服してくれば良いではないですか。外で吸う分には止めませんよ。」
順序立てて物事を効率よく片付けることに満足を覚える傾向にあるムウは、よほど仕事の邪魔をされたのが不満なのだろう。カノンの方を見向きもせずに言ったが、カノンが頭を振ると、ここではじめて興味を抱いたのかようやく顔を上げた。
「…おや、禁煙ですか?良い心がけですね。それならば飴でもいかがです?ただののど飴ですが。」
「いや、気持ちだけで結構だ。」
「そうですか。」
これが同期であればもう少し粘りそうなものだが、ムウはやけにあっさり身を引いた。年長者に気兼ねする性格とは到底言い難いので、ムウ的には、社交辞令のつもりだったのかもしれない。
カノンはしばらく神経質に机を指先で叩いていたが、やがてどうにもならないと判断したのか、溜め息をこぼしてミロに呼びかけた。
「おい、ミロ。」
「何だ?」
「良いから来い。禁煙の手伝いをしてくれるんだろう。」
「…わかった。」
わかったと言うミロがまったくわかっているように見えないのは、アフロディーテの目の錯覚なのだろうか。
ミロは猫のように音もなく同僚たちの合間を擦り抜けると、カノンの傍へ近付いた。アフロディーテの他は誰ひとりとして、二人に注意を払っているものはいないようだった。
不意にカノンがミロの腕を引いた。
アフロディーテが美しい目を丸くするのと、口付けられたミロが憤りもあらわにカノンを殴りつけて逃げ出すのと、どちらか早かっただろう。
カノンがミロを追って走り去ると、さすがに騒動を聞きつけた周囲が呆気に取られた様子でアフロディーテを見やった。
「おい。一体何事だよ?」
肘で脇腹を突いて来るデスマスクを押し退けて、アフロディーテは苦笑を浮かべてみせた。
「何事も何も……、くだらない痴話喧嘩、」
そこで、嘆息交じりに言い直す。
「夫婦喧嘩、かな?」
初掲載 2013年2月25日