重い。
低血圧で目覚めの良くないカノンはわずかに顔をしかめ、身じろぎしようとしたが、それを制して、何かが唇に触れた。ふっと鼻先をかすめた甘い香りに、カノンはしぶしぶ重い瞼を開けると、小さく笑い声を立てながら腹の上に居座るものを睨みつけた。
カーテンから差し込む光に、ミロは全身黄金に輝いていた。
比喩ではない。黄金の髪をなびかせたミロは、黄金聖衣を身につけていた。いくらカノンが鍛えているとはいえ、ミロが黄金聖衣をまとっていては、重いと感じるのも当然だ。
あのときを思わせる状況に、一瞬、カノンの肝は冷えたが、カノンはそれを努めて顔に出さないよう心がけ、ミロの身体をやんわり押し退けた。
緊張に身体が強張っている。気づかれなければ良いと思ったが、直観力に長けているミロから隠し通すのは難しいだろう。しかし、ミロは指摘する代わりに、屈託なく笑ってみせた。
「カノン、ようやく起きたか。今日はバレンタインというそうだぞ。」
眼を輝かせ、自慢げに語るミロから本心を推し量ることは出来ない。カノンは額面どおりに受け取ることにした。どうせ気に病んだところで、状況は変わらないのだ。
聖戦後、アテナが取り仕切るようになってから、聖域は変わった。サガの支配下においては厳格で閉鎖的だった空気は、ずいぶん解放的になった。アメリカナイズされたと言えば良いのだろうか。必要最低限以外のほとんど全てのことが自由になり、今では女聖闘士の仮面のしきたりも悪習として廃止され、昔堅気の数人が固執しているだけになっていた。
おそらく、ミロは今日も崇拝するアテナに妙なことを吹き込まれ、カノンのもとを訪れたのだろう。聖域という閉ざされた世界で育った生粋の黄金聖闘士のミロが、バレンタインの存在を知っているとは到底思えなかった。口調からして、伝聞系だ。想像に難くない。
しかし、それと、ミロがカノンの寝室にいる状況と、どのような関連性があるのか、起きぬけの頭では理解しがたい。もとより、ミロは突飛なところがあることを十分知悉しているカノンは、視線で先を促した。ミロは胸を張り、手に持っていた袋を掲げた。有名なウィスキーボンボンの袋で、どういうわけか、開封済みだった。
「アテナの国では、好いた男にチョコレートを贈る風習らしいので倣ってみた。」
想像どおりの台詞に、文句を言う気すら失せてくる。
カノンはアテナを心から敬愛していたが、ミロに妙な入れ知恵をつけるのだけは止めて欲しかった。もしかすると、自他共に認める親友のカミュならばミロの歯止めになってくれるのかもしれないが、生憎、シベリアだ。
ミロに文句を言ったところで無駄だということは判明しているし、寝室の扉に鍵をかけたところで粉砕されるのは目に見えている。扉の修理が済んで半月と経っていないのだから、忘れる方が困難だった。
まだ血の巡らない頭で、カノンはぼんやり頭をふった。
あの事件の後、サガが双児宮の鍵をミロに渡していたのを失念していた。もはやミロは扉を粉砕せずとも、いつでも、双児宮を自由に出入りできるのだ。
もっとも、本気を出したミロの手にかかれば、どんな分厚い扉も、音もなく開かれることはわかっていた。騒々しいほど華やかな外見とは裏腹に、蠍のように、気配もなく忍び寄り毒針を指すことが出来るのが、ミロという人間だった。
今日の出仕は、午後からだ。まだ時間がある。
ベッドサイドの時計を一瞥し、疲れた様子で布団に戻ろうとするカノンの肩をミロが掴んだ。
「…イベントにかこつけてでもお前に愛されたいと思う俺を浅ましいと思うか?」
吐息の届く距離に、カノンの息がつまった。脳裏にあのときの光景が蘇えり、それに呼応するかのように、一瞬、ミロの青い目に真摯な願いが灯った。あの夜、初めて、ミロがカノンだけに許した脆さだった。
だが、弱みを見せることを良しとしないミロは何事もなかったように肩を竦めると、カノンが不安に駆られるほどあっさり身を引いた。
「自分でもこんなに誰かに好かれたいと思ったのは初めてだ。必死すぎて情けない。だが、それがこの上もなく楽しい。」
快活な口調は、さきほど目に浮かんだ切情を知らなければ、自嘲まじりのものだと気付かないでいただろう。
言葉を失くすカノンに笑いかけ、ミロは踵を返した。あの日、無二の赦しを与えられたときのようにひらりとマントが翻った。
「それでは、任務なので行ってくる。またな。」
ミロの姿が消えた後も、カノンは瞬き一つすらせず寝室の扉を見つめていた。
不意を突かれた思いだった。
「必死すぎて情けないのは俺の方だ。」
無意識のうちにぽつりとこぼれ落ちた言葉が、何よりの本心だった。
どう足掻いたところで、生粋の黄金聖闘士であるミロと、神へ無謀な謀反を企んでいたカノンでは、釣り合いが取れるはずがない。誰に指摘されるまでもなく、カノンにはわかっていた。
おそらく、愛を信奉するアテナはカノンの想いを赦すだろう。情に篤いミロも、カノンの気持ちを受け入れてくれるに違いない。だが、カノンは自分のことがどうしても許せなかった。だからカノンはつたない恋情に蓋をして、ミロを遠ざけた。黄金聖闘士として誰より輝くミロの名誉を穢したくなかった。
しかし、ミロを傷つけまいとしての行動が、ミロの気持ちを傷つけていた。蜘蛛の糸より頼りない希望に縋るミロの眼差しが、カノンの深く心に突き刺さった。
カノンはミロがベッドサイドに放り出していったチョコレートに視線を向けた。ベッド脇のゴミ箱には、包み紙が1枚捨てられていた。
「…あいつ、耐えきれなくて食べたのか。」
ときおり見せる無邪気な子供っぽさにますます惹かれる自分を自覚したカノンは、うめき声を上げ、くしゃくしゃに髪を掻き混ぜた。寝起きの頭では考えがまとまらなかった。しかし、もうどう抗っても、本心に蓋をするのが厳しいことだけはわかりきっていた。
カノンはチョコレートの香りの残る唇に指を当て、背中からベッドに倒れ込んだ。白い天井を見上げながら考える。
パンドラの箱は開いてしまった。
中に希望があれば良いのだが。
聖戦後、カノンが聖域を出て行こうと決心するのに、さほど時間はかからなかった。
聖戦で多くの聖闘士が失われたため人手不足は否めなかったが、城戸財閥の資金もあって復興は著しく、カノンが無理に留まる必要はもう見受けられなかった。
本心を言えば、後ろ髪を引かれる思いではあった。恩赦を与えてくれたアテナに尽くし、かつては恨んだ聖域のため身を粉にして働きたいという気持ちもあった。何より、聖域にはミロがいた。
だが、長く留まればその分、自分が辛いことはわかっていた。
前触れもなく辞去を願い出たカノンを、アテナもサガも、強く引き止めようとはしなかった。カノンに対する後ろめたさもあってのことかもしれない。
ともあれ、カノンはこれ幸いと双児宮に戻り、翌日の出立に備えて荷造りを開始した。他のものには何も告げず、姿を消すつもりだった。
そんなとき、ミロがやって来た。カノンがもっとも会いたくない相手だった。タイミングが悪かったとしか言いようがない。手には、しばらく聖域を離れていたシュラからもらったというスペイン産のワインボトルを握り締めていた。
一瞬、ミロは部屋の状態に目を丸くしてから、状況が腑に落ちたのか、憤怒に顔を赤くして眦を吊り上げ、カノンを罵倒した。聖戦時は激情的なところが目についたが、どちらかといえば情に篤く寛容的なミロが声を荒げることは少ない。ましてや、知人からもらったワインボトルを投げつけるほどの癇癪を起こすなど、滅多にあることではない。
カノンは投げつけられたワインボトルを手に、憤慨して飛び出していったミロの背を見つめていた。恋焦がれるものを失望させた事実に胸が痛んだが、それで良いのだと思い込んでいた。
その晩のことだった。
蠍の本気を突きつけられたのは。
午後の執務は1時から始まる。
正式に教皇の任に就いたサガを補佐するため教皇宮を目指していたカノンは、通りがかりの双魚宮の薔薇園で宮の主を見かけ、足を止めた。
サガを信奉するアフロディーテとカノンには、サガの他に、ほとんど接点がない。それどころか、サガと同じ外見でありながら内面に大きく隔たりのあるカノンのことを、アフロディーテは内心では厭うているようですらあった。そのため、声をかけるのは躊躇われたが、カノンは義務感から口を開いた。
「アフロディーテ、薔薇を分けてくれないか?」
「街で買ってくれば良い。どのような理由にしろ、双魚宮の薔薇を分けてやるわけにはいかない。」
にべもない。
双魚宮の薔薇は毒素の高いものが多く、毒性は見目麗しさに比例すると言われているが、最たるはアフロディーテというのは聖域では知らぬもののない話だった。
不意にカノンは嗤い出したい衝動に駆られた。少しでも同僚に打ち解けられるようにとその話を面白おかしく語って聞かせたのは、ミロだったからだ。
これまで、どれだけミロの思いやりを無碍にして来たのだろう。カノンは自嘲の笑みを湛えて、アフロディーテに懇願した。
「頼む。あいつに一番美しい薔薇を贈ってやりたいのだ。」
重苦しい沈黙が流れた。軽蔑に等しい冷徹な空気に、カノンの項は粟立った。
だが、それまでミロを遠ざけようと苦心していたカノンが前言を翻したのを、アフロディーテは興と捉えたらしい。ふっと口端を緩めると、呆れ交じりの眼差しでカノンを見つめた。
「そういえば、今日はバレンタインだったか。」
サガの手足として外界で過ごすことの多かったアフロディーテは、ミロと異なり、バレンタインの知識を具えているらしい。おかしそうに目を眇め、仔細にカノンの様子を観察しながら、近くにある木から薔薇を手折り、唇に寄せた。
「お前もとうとう腹を括る気になったようだな。もっとも、同僚の欲目抜きにしても、あの子が本気を出して陥落しない男など見当もつかないが。」
探るような眼差しは気に入らないが、文句を言える立場ではない。押し黙るカノンに、アフロディーテは花もかくやという美しい笑みを浮かべた。
「一番美しい薔薇の花束を用意しよう。帰りにまた寄ると良い。特別に今回だけだぞ。」
「すまない。必ずこの礼はする。」
素っ気なくアフロディーテが言う。
「ハッピーエンドにしてくれれば、それで良い。」
カノンは力なく笑い返した。これが最善の選択なのか、カノンには確信が持てなかった。
黄金聖衣をまとった本気のミロに、さすがのカノンも太刀打ちできなかった。不意を突かれリストリクションをかけるまでカノンは近付かれたこといすら気づけないでいた。
もしかすると、ミロはカノンが傲慢からアテナの下を去ると捉えたのかもしれない。動かせない唇でカノンは嗤いたくなった。本当は絶望に駆られ、聖域を逃げ出すのだと訴えれば、ミロは信じるだろうか。わからなかった。
ミロは殺気を撒き散らしながら、伸びた真紅の爪先でカノンの咽喉を掻いた。つうと血が一滴流れ落ちた。思いがけない状況は、オリオンを殺めた蠍の逸話を彷彿とさせ、あの日、求めながらも与えられなかったアンタレスを与えられるのならば、カノンは死んでも良いと思った。
ここで死ぬことが出来れば、未練がましくミロを想い続けなくても済む。
だが、そんなカノンの空想を振り払ったのは、ミロの言葉だった。
「お前が聖域を去るのは、しがらみがないからだ」
いつになく堅苦しく、思いつめた声だった。ミロは唇を噛み、頭をふった。闇の中、紅く光る眼が爛々と輝いていた。吐き捨てるようにして、ミロは言った。
「俺は認めない。お前が聖域を捨てるなど、認められるはずがない。カノン、お前は黄金聖闘士なのだ。みすみす行かせてたまるか。恨まれても良い。碇が必要ならば、俺がしがらみになる。」
ミロが上半身を屈め、わずかに首を傾げた。ままごとのような、経験のなさを露呈するには十分すぎるほどのぎこちないキスだった。あれほど焦がれたミロの唇は、想像どおり柔らかかったものの、緊張に冷たくなっていた。
ミロの手が、カノンの服にかけられた。
「…だから行くな、カノン。」
切願というよりは命令のような口調だった。
あのとき、あれが切願であったのだと気づいていたら、どうなっていたのだろう。自分はミロをこれほどまでに傷つけずに済んでいたのか。
カノンはアフロディーテから分けてもらった薔薇の花束が萎れないよう適当な瓶に挿し、双児宮の居間でミロがやって来るのを待っていた。
一分一秒がやけに長く感じられ、耐えがたいほどの緊張に、カノンは珍しく酒を傾けていた。強い酒は舌を痺れさせるばかりで味を感じなかったが、今のカノンには気にならなかった。
この日、ミロは宣言どおり任務に出ていた。予想外だったのは、常ならばミロが引き受けようとしない外部の任務だったことだ。
グラスを揺らしながら、カノンはぼんやり頬杖をついた。
朝から目を逸らしていた後悔が飛来した。
それは、あまりに一方的な行為だった。
ろくに慣らしもせず、男を初めて迎え入れたミロの身体は痛ましいくらい軋んでいた。
カノンの吐情を確認すると、ミロは安堵に似たあえかな息を吐きながら、身体を離した。痛みと行為のせいか、顔は全体的に白いものの、頬には不自然な赤みが差していた。
こんなつもりではなかった。
何度、カノンは詫びかけたことだろう。だが、リストリクションで自由を奪われた身体では、ミロを抱き締めることはおろか、謝罪を口にすることすら叶わなかった。もとより、矜持の高いミロは謝罪の言葉など受け入れなかっただろうが。
ミロはカノンを見下ろし、悔しそうに唇を噛み締めた。紅く腫れた眦からぽろりと涙がこぼれ落ちた。
「…行ったら、赦さない。ずっと恨み続けるからな」
手の甲で乱暴に拭うも、堰き切ったようにこぼれ出した涙は留まる気配がない。ミロは鼻を鳴らし、カノンの胸に縋りついて来た。ミロの支配が弱まったのは、そのときだった。
「馬鹿もの…。」
カノンは震えるミロの背へ腕を回した。今は何を言っても言い訳のように思えて、何を口にすべきなのか見当もつかなかった。だから、ただ、抱き締めた。
ミロを傷つける感情は全て、箱に封じ込めたつもりだった。あとは自分が消えれば、ミロは幸福のうちに暮らせるはずだった。
それにもかかわらずなぜミロが泣くのか、カノンにはわからなかった。
「どうした、お前にしては珍しい。こんなところで寝ているのか?寝込みを襲われても文句は言えんぞ。」
不意にくぐもった笑い声が耳に届き、カノンは顔を上げた。眼前では、テーブルに行儀悪く腰をかけたミロが指先で薔薇の花弁を弄んでいた。ミロはおかしそうに目を煌めかせながら、薔薇については一言も触れずに、カノンに笑いかけた。
「それとも、襲われて欲しいのか?喜んで相手をしてやるぞ。」
いつもの屈託ない笑みだった。
カノンは無言のままミロへ腕を伸ばした。カノンの緊張で強張ったてのひらを頬に添えられても、ミロはわずかに目を眇めただけで、成り行きを見守っていた。思えば、ミロはいつでもカノンを見守り、聖域に溶け込めるよう苦心していた気がする。
カノンはミロの肢体を引き寄せ、肩口に額を押しつけた。ミロからは蕩けそうなほどの甘ったるいチョコレートの香りがした。もしかすると、任務とは名ばかりの楽しいひと時をアテナと過ごして来たのかもしれない。
「ミロ、お前を愛している。」
カノンは絶望を噛み殺し、ゆっくり横たえたミロに唇を寄せた。テーブルの上に広がった金髪は、電灯の光を弾き、焦がれて止まない夏日を思わせた。笑声があがった。
「ようやく認めたな。」
すんなりした細い腕が背へと回された。ミロはカノンをきつく抱き締めると、耳元で笑い交じりに囁いた。
「…お前もそのうちわかるだろう。恋は、罪ではない。この上もなく楽しいものだと。」
一度開かれたパンドラの箱の蓋を閉ざすのは、不可能だ。
宥めすかすようなミロの台詞に、そうであれば良い、と心から願った。
初掲載 2012年2月24日