メリー・クリスマス


 十二宮の階段は長く、目的の双魚宮まではつらく険しい道のりが続いている。それは、クリスマスイヴであっても変わりない。
 大きな紙袋を両手に提げたデスマスクは、悪態をつきながら、階段をのぼっていた。街に降りる用があったところ、ついでだから、と、アフロディーテから大量に買い物を頼まれてしまったのだ。そのときは、所用を詮索されたくないばっかりに了承したものの、出先でいざ渡された買い物リストを広げてみたとき、デスマスクはリストの長さに絶句することとなった。アフロディーテは、年末年始に入用なものを、クリスマス特有のものと併せて、すべてデスマスクに頼んできたのだ。
 これがシュラやミロであれば、デスマスクもいい加減な態度で適当に流すのだが、相手は長年つるんでいるアフロディーテである。デスマスクも買い物をないがしろにするわけにはいかず、こうして、大荷物を両手に長い階段をのぼる羽目になっているのだった。
 しかし、十二宮を4分の3ものぼると、いい加減疲れてきた。誰か適当な荷物持ちでもいないものかと周囲を見回したデスマスクは、思いがけない人物にわずかに目を見張った。双子座の黄金聖闘士、カノンだ。今は教皇代理の任についているサガに瓜二つの容貌だが、どこか荒んだ雰囲気をまとっているのが特徴だ。
 とはいえ、デスマスクに、サガとカノンの見分けがついたためしはない。なぜか一度も双子を間違えたことのないミロの説明を鵜呑みにした場合の話、である。デスマスクを含めた他の黄金聖闘士はもっぱら、彼らの着衣でどちらなのか判断していた。教皇服ならばサガで、私服か聖衣ならばカノン、といった次第だ。
 私服の方を見かけるのは、ずいぶん久しぶりだ。何か、あったのだろうか。デスマスクは足を休めて、柱の陰からばれないようカノンの様子を窺った。小宇宙でばれそうなものだが、これが意外とばれないのは聖域の通説である。長年にわたって聖域で暮らす聖闘士には、他者の小宇宙をシャットアウトする癖が自然と備わるのだ。
 これを、デスマスクは勝手に「ノイズキャンセラー機能」と呼んでいた。生真面目すぎるシュラに「家電製品と同列で語るな!」とこっぴどく怒られた曰くつきの習性だ。
 聖衣が穏やかな冬の日差しを弾き、光を放った。涼やかな眼差しは、何かを思うように遠くを見つめている。冬とはいえ暖かなギリシャの風が、海色の髪をたなびかせ、カノンは煩わしそうに髪を掻きあげた。
 同じ男として非常に悔しいが、カノンの思い悩むさまはとても様になっている。デスマスクは思わず、外見の格差をひがまずにいられなかった。
 デスマスクも、黄金聖闘士だ。均整のとれた肉体、イタリア人らしく彫りの深い顔、影を匂わせる陽気な性格が、多くの女をとりこにしている自負はある。しかし、一度寝た女とは寝たことがない、と公言し、実際、女遊びの派手な印象のあるカノンとは比べるべくもなかった。カノンには、サガでは持ちえない野生の魅力があった。
 そのカノンだが、ここ数カ月にわたって、長期任務に出払っていた。聖衣修復の地であるジャミールに居を構えているムウや、ある事情によりシベリアへ飛ばされているカミュを除けば、そのような長期任務が黄金聖闘士に割り振られるなど異例の事態だ。まだカノンのことを仲間として受け入れられないのか、と、問い質すアイオリアへ、サガは表情を曇らせた。
 「あいつが望んだことだ。私が口を出すことではない。それに、カノンの任務は、グラード財産の長として世界各国を飛び回るアテナの護衛役だ。決してカノンを軽んじているわけではない。」
 確かに、これまでもアテナの護衛は黄金聖闘士が持ち回りでしていたので、以前海闘士として聖域と敵対していたカノンが、これ以上口さがない噂を立てられることはならないだろう。納得したらしく、アイオリアが身を引いた。
 そのとき、ささいな違和感に気づいたのは、誰より敏いアフロディーテだった。アフロディーテは一切口を出さず、アイオリアとサガの応酬を見守っているミロに首を傾げた。
 「不思議なものだね。あの子が発言しないなんて。カノンを真っ先に認めたのはミロだ。本来であれば、一番うるさく突っかかりそうなものだが…。」
 確かに、ミロの沈黙は不自然だった。黄金聖闘士のうちにあって、蠍座のミロは誰よりも情が深く、血気盛んな男だった。だが、二日酔いの最中だったデスマスクはおざなりに応えた。頭が痛くて、考えるのが面倒だったのだ。大体、こんな騒がしい部屋にいること自体、嫌だった。大声が頭に響くからだ。
 「腹でも減ってるんだろう。」
 「…きみに訊いた私が馬鹿だった。」
 以来、カノンは女関係で修羅場になっているのではないか、と、黄金聖闘士内ではまことしやかに囁かれていた。むろん、基本的に、高潔な生き方をよしとする聖闘士はそのような下種な詮索をしないので、もっぱら囁いているのはデスマスクだ。適当なことをもっともらしく吹聴するデスマスクに、一番付き合いの長いアフロディーテは嗜めることすら億劫なのか、呆れたように嘆息をこぼすだけだった。
 あれから、数カ月。
 アテナの伴いで姿を見せることはあっても、カノンが単独で帰って来ることはまったくなかった。詮索好きのデスマスクは大いに想像を掻き立てられた。これでカノンの弱みの1つや2つ握ることが出来れば、わざわざ街に降りなくとも、平和ボケした聖域でしばらく楽しめるではないか。
 カノンが長期任務を願い出たのは、6月からだ。双子の誕生日が近かったこともあり、強く印象に残っているのである。
 デスマスクとカノンは知らない仲ではない。黄金聖闘士のうちではどちらかというと、両者ともすねに傷のある身同士、良好な関係を築いている方だ。デスマスクは逡巡した後、一人佇むカノンに声をかけることにした。むろん、荷物を持たせたい気持ちもあった。
 「よう、カノン。帰って来ていたのか。」
 「…ああ。」
 「なあに、しけた面してんだよ。どうだ、これから一杯?」
 さりげなく荷物を持たせつつ酒を呷る仕草をしてみせれば、カノンが苦笑した。
 「酒にはまだ早いだろう。」
 それでも、デスマスクが更に誘うとカノンは了承してみせた。デスマスクは、これからどうやって根掘り葉掘り聞き出してやろうかと心を浮き立たせた。


 その後は、デスマスクが期待したとおり、酒盛りになった。
 想定外だったのは、その場に、カノン以外の第三者もいたことだ。デスマスクの様子を見に磨羯宮まで降りて来ていたアフロディーテに、掴まったのである。察しの良いアフロディーテはデスマスクの企みに気付いたらしく、咎めるように目を眇めると、宮の主であるシュラも呼んで4人で飲むことに決めた。何を好き好んでクリスマスイヴに男と呑まなければならないのか、というデスマスクの非難は黙殺された。デスマスクにしても、「ならば、男であるカノンと飲む必要もないだろう。」と言われればそれまでのことは重々承知していたので、文句を飲むしかなかった。
 野望を阻止されて、内心いきり立っているデスマスクを意に介さず、アフロディーテがカノンへウォッカのグラスを差し出した。スピリタスというポーランド産のウォッカで、長い買い物リストに名を連ねていたものだ。アルコール度数が96度という、常人ならばまず原液で飲まない代物なのだが、アフロディーテは好んでそのまま飲んでいた。
 こう見えて、アフロディーテが黄金聖闘士一の酒豪である。涼やかな顔をしてぐいぐい呷るので、デスマスクもはじめて目にしたときはびっくりしたことを覚えている。スウェーデンで修業した折に鍛えられたらしいが、嫌いであれば強いて飲む必要もないので、スウェーデン人らしく酒が好きなのだろう。それほど酒が強いわけではなかったシュラも、アフロディーテに付き合わされてずいぶん飲めるようになっていた。
 「ずいぶん久しぶりだな。アテナはどうされた?」
 デスマスクが作らされた前菜をつまみながら問いかけるシュラに、カノンは侘しげに溜め息をこぼした。
 「城戸沙織としてではなく、一人の娘として、青銅たちとクリスマスを過ごされるそうだ。」
 「アテナとはいえ、まだ年頃の少女だ。アテナにはそのようなひとときを過ごされることも必要だろう。」
 「カノン、あなたも黄金聖闘士である前に一人の人間なのだから、たまには休暇をいただいて帰ってきたらどうだ。サガがずいぶん寂しがっているぞ。」
 アフロディーテの言葉が、カノンには意外だったらしい。カノンは信じられないように眉根を寄せ、しげしげとアフロディーテを見つめたが、頭を振って話題を変えた。
 「それにしてもずいぶん強い酒だな。身のうちから焼けるようだ。」
 「ふふ、そうだろう…。そのうち、あなたもその感覚に病みつきになる。」
 アフロディーテは、名前のとおり、美しい微笑を湛えていた。つねづね、デスマスクがシュラと「悪魔の笑み」と呼んでいる微笑だった。この笑顔に惑わされ、どれほどのものが酔い潰されたことだろう。アルコールが入ったアフロディーテはいつも以上に饒舌で笑みも多くなる。そのため、勧められるまま気持ち良く飲んでいると、ついつい酒を過ごし、急性アルコール中毒になるケースが間々あった。シャカなど、はじめてがそれだったのでトラウマとなり、アルコールを一切断っていた。
 しかし、まだ聖域の諸事情に精通していないカノンは、アフロディーテに勧められるまま杯を重ねていった。滅多に飲まないが、サガもアルコールにはだいぶ強い方だ。その双子の弟であり、自信家のカノンが、自分の酒の強さに自信を抱いているのは当然だった。
 だが、デスマスクに言わせれば、相手が悪かった。相手は、美の女神の皮を被った悪魔なのだ。
 ほどなくして、カノンの眼がどことなく危うくなってきた。しかし、さすが強いだけあって、呂律はしっかりしていた。カノンは寂しげな笑みを浮かべ、グラスに注がれたウォッカをかすかに波立たせた。
 「この身のうちから焼きつく感覚、…懐かしいものだ。あの日受けた贖罪を思い起こさせる。」
 「贖罪…スカーレットニードルか。」
 「そうだ。」
 敵であった過去から容易に受け入れられなかったカノンを、仲間として一番に認めたのは、ミロだった。
 その過程で、スカーレットニードルを14発撃ちこむという荒技を弄したというので、同じ苦しみを味わったシュラやカミュもカノンを認めざるを得なかった。シュラとカミュは頑なで、考えを改めるのが下手な性格だ。それにもかかわらず、カノンに対する負感情を改めざるを得なかったのだから、スカーレットニードルはよほど痛かったのだろう。デスマスクに言わせれば、身の毛のよだつ話だった。
 そんな災難を、寂寥を湛えつつどこか嬉しそうに語るカノンをいぶかり、キッチンでパスタを作っていたデスマスクは、カウンター席のシュラと目を合わせた。
 かつて感想を求めたデスマスクに、シュラもカミュも口を揃えて、二度とあのような目には遭いたくないと語った。黄金聖闘士として痛みに慣れているはずの二人が断固として拒み、敵であったカノンを認めるくらいだ。その激痛は、想像して余りある。
 だから、贖罪のエピソード、などという微笑ましいレベルではないはずなのだが、カノンは頬を緩めていた。あのときの激痛を思い返して顔を白くしているシュラとは対照的だった。
 それまで、カノンは存在を秘匿されてきたというから、聖域に存在する理由を認められて嬉しかったのだろう。恩義を感じるのもわかる。カノンは聖域に寄りつかなくなるまで、もっぱらミロと親交を深めていた。サガと同じく頭で考える癖のあるカノンと、感情に忠実なミロは、意外なことに馬があったらしい。お互い行きすぎた部分と足りなさすぎる部分があるから、うまいこと補いあえたのだろう。
 誕生日も、カノンは兄たるサガや美女とではなく、ミロと二人きりで祝っていたように思う。せっかくの誕生日を野郎二人で祝うとは、あれだけの美貌を持ちながらカノンは何という宝の持ち腐れなのだろう、と哀れんだ記憶があった。
 そこで、デスマスクはある事実に思い至り、カウンターからカノンの方へ身を乗り出した。
 「もしかして、聖域に寄りつかなくなったのは、ミロが原因か?」
 出会ったとき、カノンが立ち尽くしていたのも天蠍宮の前だ。デスマスクはてっきり、教皇宮にでも向かうところだと思っていたが、カノンはミロに用事があったのかもしれない。がぜん面白がって顔を輝かせるデスマスクを目で制し、アフロディーテがカノンに問いかけた。
 「そうなのか?」
 カノンは言い淀んだ。しかし、普段ならば固く閉ざされたであろう口も、今ばかりは酒の力もあって、滑りやすくなっていたらしい。嘆息交じりに、カノンはこぼした。
 「…実はそうなのだ。」
 「あなたも知っているだろうが、ミロが一度懐に入れた相手には甘いのは周知の事実だ。ひどく腹を立てたとしても、たいてい、翌日にはけろりと忘れている。よほどのことをしない限り、ミロが気にかけるとは思えない。だからもう、戻ってきたらどうだ。カノン、あなたが何をしたのかは知らないが、反省するには十分だろう。」
 「十分ではない。俺はミロの信頼を裏切ったのだ。あのような真似を…。」
 「あんた一体、何をしたっていうんだ?」
 デスマスクの詮索に、カノンがぽろりと漏らした。傍目以上に酔っぱらっていたのだろう。
 「何って、ナニだ。」
 「は?だから何だよ?」
 「だから、セックスだ。何度も言わせるな。」
 カノンの爆弾発言に、生真面目なシュラが思いっきり吹き出した。それはそうだ。さすがのデスマスクも内心動揺を隠しきれなかった。気性が荒く、天真爛漫で、誰からも黄金聖闘士の末っ子扱いされてきたミロが、いつの間にかセックスを経験していたのだ。しかも、カノンの言いようだと掘られたようである。これ以上面白いことなどあるだろうか。
 激しく咳き込むシュラの背を撫でてやるアフロディーテの牽制の眼差しを後目に、デスマスクは更に身を乗り出して、話を掘り下げることにした。
 「なあ、どうしてそうなったんだ?詳細を聞かせてくれ。」
 「何故お前に教えなければならない。」
 「あんたより、俺たちの方がミロとの付き合いは長いんだ。何か助言が出来るかもしれないだろ。」
 藁にもすがりたい心地なのだろう。カノンは反論を呑み込み、デスマスクへ続きを促した。デスマスクはしばらく思案してから、こう切り出した。
 「カノン、あんたゲイなのか?」
 もしそうならば、今後の付き合いを改める必要がある。けつを掘られちゃたまらないからな、と震えあがるデスマスクに、カノンは顔を両手で覆い隠した。
 「俺にもわからない。それまでは、いたって健全だと思っていた。それに、あの日は誕生日でだいぶ飲んでいたからな。気の迷いということも考えられた。」
 「だったら、気の迷いだったんじゃねえの?」
 「俺もそう思ったのだ。気の迷いならば、またその気になることもないだろう。それに、俺は女相手でも、一度抱くと飽きてしまう性癖がある。獲得までが困難であればあるほど燃えるが、手中に収めると、途端に興味が尽きてしまうのだ。だから、俺は、気の迷いだったことを証明しようとして…。」
 「墓穴を掘ったのか。うわ、最悪のパターンだな。」
 「うるさい。そんなことは、重々承知だ。」
 「ミロよりアフロディーテの方が勃ちそうなもんだが。どうだ?」
 「…ふざけるな、男相手に勃つわけないだろう。」
 一瞬、言い淀んだということは、それなりに検討してみたのかもしれない。デスマスクは可笑しく思いながら、カノンを問い質した。
 「だけど、ミロ相手には勃ったんだろう?だったらアフロディーテだって、」
 デスマスクの謀言に、シュラが激しく咽ている。
 「私をだしにするな。死にたいならば、止めやしないが。」
 「だけどよ、」
 なおも言い募ろうとするデスマスクを、アフロディーテが凶器の薔薇を片手にきっと睨みつけた。酔いの回った目に自制心は見られない。さしものデスマスクも、アフロディーテの本気を感じとり、口を噤んだ。
 再び、カノンの手の中で、グラスが波打った。溶けた氷がからんと軽い音を立てた。
 「海龍としてアテナのお命を狙った俺のことを、黄金聖闘士として誰よりも早く認め、受け入れてくれたのはミロだ。それどころか、俺の罪悪感を察し、贖罪の機会まで与えてくれた。」
 しんみりと語り出したカノンに口を差し挟むものは誰もいなかった。内心、デスマスクは、贖罪の機会を与えたのは結果論であって、別にミロにその意図があったかどうかは定かではない、何せあいつはあほだからな、と思わないでもなかったが、さすがに水を差すのは野暮というものだ。デスマスクはだんまりを決め込んだ。
 「俺はこんなにも恩義があるというのに、ミロの信頼に応えられなかった。ミロを邪な目で見てしまう今、きっと今後も応えられないだろう。俺は一体、どうすれば良い?」
 意見を求められてもなお、黙りこんでいるのは、薄情だろう。デスマスクは嫌々口を開いた。
 「あんたの言い分はわかった。でもミロだって立派な成人男子だ。あんた一人が責任を背負い込む必要はないだろ。」
 なぜ、大の男が同僚に惚れた始末に巻き込まれなければならないのか。デスマスクは、自分こそがカノンを飲みに誘った張本人だということなどすっかり忘れて、カウンターの奥に引っ込んだ。敵前逃亡である。
 あっさりカノンの相手を放棄したデスマスクに、アフロディーテが溜め息をこぼした。
 「双子座は頭で考えすぎるきらいがあるとはいうが…もう少し、あなたは理性よりも心に重きを置いても良いと思う。そうすれば、そんな悩みは杞憂だったとわかるだろう。」
 「だが、俺の本性は悪だ。理性で律しなければ、俺は再び闇に囚われてしまう。そんな俺を救いあげてくれたのはミロだ。だからこそ、俺は、ミロにだけは汚い面を見せないようにしようと心がけてきたというのに…。」
 そのとき、それまで会話に一切入ってこなかったシュラが割りこんできた。
 「双子座のカノン、現時点で、あなたの行為はヤるだけヤって逃げるという最低の行為だ。」
 手厳しいシュラの言葉に、カノンがわずかに瞼を伏せた。シュラが言い諭す。
 「しかし、あなたは意図してではなく、初めての感覚への戸惑いからそのように振る舞っているようにしか思えない。そうだとするならば、あなたは感覚を受け入れて、ミロに向き合うべきだ。」
 「私も同感だ。こう言ってはなんだが、あなたは、ミロに恋をしているように見受けられる。」
 「俺が、恋、だと…?」
 まったく自覚がなかったに違いない。傍から聞く分には明瞭たる事実なのだが、渦中の当事者にはわからないという良い例だろう。大きく目を見張るカノンに、アフロディーテがおざなりにひらひら手を振った。
 「行くと良い。カミュのせいで待つことに慣れているとはいえ、もともとミロは辛抱強い方ではない。行動を起こすならば、今だ。」
 そうでなければ、年内に行動を起こすのは難しくなる。だが、アフロディーテはあえてカノンにその見込みを伝えなかった。現在のカノンに必要なものは、後押しだ。決して、決心を鈍らせるような言葉ではない。
 カノンは投げかけられた台詞を噛み締めるように沈黙していた。だが、やがて意を決したように面を上げると、晴れやかな笑顔で頷いてみせた。
 「…恩に着る。」
 立ち上がったカノンが謝意を込めて頭を下げてくる。もはや、当初の寂寥は見受けられない。アフロディーテは安心してグラスに向き直った。年末年始を聖域で過ごす計画も、折角の買い物も、これでおじゃんだ。しかし、悔いはなかった。アフロディーテは荷物をまとめて街に降りる算段を立てながら、くすりと笑みをこぼした。
 「気にしないでくれ、メリークリスマス。」
 「ああ、お前たちも良いクリスマスを。」
 光の速度で駆けていくカノンを見送ったデスマスクがぼやいた。
 「まったく、呆れた野郎だな。誰だよ、あいつをここに呼んだの?」
 デスマスクの言いように、アフロディーテが眦を吊り上げて薔薇を構えた。その背後では、不本意にも同僚の艶話を聞かされる羽目になったシュラが、鬼の形相で立っている。デスマスクは引きつった笑みを浮かべ、白旗を示すべく両手を頭上に上げた。
 「許すと思うか、痴れ者が!」
 磨羯宮に悲鳴が響き渡った。


 カノンが天蠍宮へ向かうと、宮の主であるミロが身支度を整えている最中だった。自分の想いを受け入れたこともあってか、久しぶりに会うミロは、カノンの眼に眩しく映った。金髪碧眼のミロを指して、太陽のようだ、と表現したのは、誰だっただろうか。確かに、カノンにとって、ミロは太陽だった。生きていく指標だった。カノンは心中改めてミロのために尽くすことを誓いながら、唇を開いた。
 「ミロ、話がある。」
 「悪いが、後にしてくれないか。カミュと会う約束がある。」
 にべもないミロの言葉に、カノンは胸が痛んだ。それだけのことを仕出かしてしまった自覚はあった。だが、ここで臆するわけにはいかない。アルコールの力がものを言った。カノンは口元にマフラーを向いているミロの肩を掴み、強引に引き寄せた。
 「ミロ、俺は…!」
 悔恨に襲われているカノンに、からりとミロが笑いかけた。カノンが恐れていたような自嘲ではなく、いつもの温かな笑みだった。
 「そんな顔をするな。お前に他意があるわけではない。すぐに戻るから、ここで待つと良い。冬籠りをする備えは万全だ。」
 聞き慣れない言葉にカノンは眉根を寄せたが、悩んでも仕方がないことだと割り切り、ミロに笑い返した。カノンの本心を顕し、不安の見え隠れする寂しげな笑みだった。
 「わかった。お前の言葉に甘えて、待たせてもらう。」
 カノンを安堵させるように、ミロが耳打ちする。
 「一時間もすれば戻れるだろう。悪いが、湯を沸かしておいてくれないか。」
 先を思い起こさせる台詞に、カノンの鼓動が高鳴った。カノンは胸の高鳴りを嗅ぎ取られないよう苦心しながら、ミロに重々しく頷いてみせた。
 ミロが天蠍宮を出ると、それまでの勢いが嘘のように、カノンの胸中には後悔が兆した。カノンは誕生日の蛮行で舞台となって以来、ご無沙汰していたソファに腰を下ろすと、眉間に深いしわを刻み、考え込み始めた。
 ミロは気が良いやつだ。黄金聖闘士では、誰よりも情愛深く、懐が広い男でもある。加えて、人の悪意に無頓着で、世間知らずなところがある。そこが、人の悪意に晒されてすれたカノンは目新しく眩しく映るのだが、この場合は、どう転ぶのかわからない。カノンに無体な真似を強いられても気にした様子がないのは、もしかすると、行為の意味を知らないせいかもしれなかった。カノンにしても、まさかミロがそこまで無知だとは思いたくはないが、黄金聖闘士である道だけを己に敷いてきたミロだ。ありえない話ではなかった。
 カノンが悶々と思い悩む間にも、刻々と、ミロと再会する時間は迫りつつあった。
 ふと風呂の支度を頼まれていたことを思い出し、カノンが腰をあげると、窓の外には白銀世界が広がっていた。カノンは驚きに言葉を失くし、窓辺へ歩み寄った。ギリシャの気候は温暖だ。それに、雪が降る予兆などまったくなかった。一時間でこれほど降り積もるとは、いつの間に降雪に見舞われたのだろうといぶかりながら、カノンは猛然と降り積もる雪を戸惑いがちに眺めた。
 ミロが帰って来たのは、カノンが風呂の支度を終えて間もなくのことだった。
 「思ったより降られたな。これでは、アフロディーテに叱られそうだ。」
 頭に降り積もった雪を払い除けるミロは、どこか楽しそうだ。その頬が寒気以外で赤く腫れているのを目敏く見て取ったカノンは、ぎょっとしてミロに詰め寄った。
 「お前、その怪我はどうした。」
 「ああ、カミュに殴られた。」
 あっけらかんというミロは気にした風もない。からりと笑いながら、腫れた頬を誇らしげに撫でさすった。カノンは呆気に取られて、目を丸くした。
 「カミュだと?信じられん。あいつはお前と親しいではないか。どうしてあいつがお前のことを殴らねばならんのだ。」
 それに、カミュはどちらかと言えば、暴力に訴えるよりも口で言い包める印象が強い。そのカミュが親友のミロに手を上げるのだから、よっぽどのことだろう。不可解な出来事に顔をしかめるカノンを、マフラーを取る手を休めぬまま、ミロがちらりと目だけで見つめた。
 「カミュにお前とのことを話したのだ。中途半端に秘密を抱えたまま、年を越すのが嫌だったから。」
 何気ない口調だった。実際、ミロにとっては何でもない事実なのだろう。緊張に身を固くしたカノンと異なり、構えた様子もなく、コートを脱ぎながらミロが続けた。
 「あいつはお前のことを買っていないようだ。止めておくようにきつく止められた。だが、これは俺の人生だ。たまには、俺のしたいようにして良いはずだろう?そう言い返したら、殴られた。」
 「ミロ、」
 「カミュに手をあげられたのは久しぶりだ。そうだな。子どものとき以来だろうか。しばらく、あいつの機嫌は低迷したままだろう。アフロディーテの薔薇が全滅しなければ良いのだが。」
 ミロがおかしがって笑った。カノンはいてもたってもいられず、ミロの身体を引き寄せた。
 「ミロ!」
 「む、何だ?」
 急に抱き締められてむずがるミロの額にキスしたカノンは、ミロの肩口に顔を埋めた。目頭の熱さに、ミロの冷え切った体の冷たさも気にならなかった。カノンは思いのたけを込めて、ミロに囁いた。
 「お前を愛している。誰よりも、何よりも。その事実を、こんなにも長く受け入れられずすまなかった。」
 聞き分けのない子どもを宥めすかすように、ミロがカノンの背を撫ぜた。
 「何だ。お前はまだそんなところで二の足を踏んでいたのか。」
 ミロの声は笑い交じりだ。さすがに高いプライドを刺激され咎める視線を向けるカノンを押し退け、ミロは無頓着に上着を脱ぎ捨てた。
 「それより、風呂に入りたい。寒くて死にそうだ。」
 薄情なミロの台詞に、カノンは慄然とした。まさか、思ってもみなかった台詞である。これまで散々女たちを捨ててきておきながら、想い人であるミロとはもっとロマンチックな展開が待ち受けているに違いないと夢見ていたカノンの幻想は打ち砕かされた。ミロに「風呂の支度をしておいてくれ。」と言われ、もっと艶めいた展開を思い描いたカノンを誰も咎められないはずだ。なぜ、この温暖なギリシャに、風呂を心待ちにしなければならないような寒気が押し寄せると思う。
 だが、ミロは黄金聖闘士という立場に対しては重度の理想主義者だったが、それ以外ではかなり実際的な男だった。それを、カノンも重々承知していたはずだ。それでも、落胆は否めず、カノンは言い縋った。
 「ようやく自分の想いを受け入れた恋人を前にして、それは薄情な態度ではないか。ミロ。」
 ミロが呆れの眼差しを投げかける。
 「遅すぎるお前が悪い。あれから何ヵ月経ったと思う。まさか、まだそこで悩んでいたとは思わなかったのだ。」
 思いがけない恋人の冷淡な言葉に、カノンは絶句した。空いた口がふさがらないとは、このことを指すに違いない。
 ミロは怪訝そうにそんなカノンを眺めていたが、ふと、悪戯を思い立った様子で艶っぽい笑みを浮かべた。地上を照らす太陽というよりは、暗い夜に一等映えるアンタレスの笑みだった。
 「それか、お前が温めてくれるというなら話は別だが。」
 ミロの冷え切った指先が、カノンの肌を滑る。カノンは身震いした。けっして、ミロの指が冷たかったからではない。カノンは我を忘れてミロの身体を掻き抱いた。女のように柔らかでも、華奢でもない体にこれほど欲情するのは、相手がミロだからだという確信がカノンの胸に飛来した。自分が心からミロに恋をしているのだという現実にひどく眩暈がした。
 「カノン、せいぜい楽しませてくれ。」
 ミロの身体をソファに押し倒し、性急に服を脱がせていくカノンに、ミロがくすくす笑った。頬が熱くなってくるのを覚えたカノンは、年長者の尊厳を守るため、重々しく言い返すのが精いっぱいだった。
 「言ったな。後悔するなよ、ミロ。」
 「…馬鹿を言うな。後悔などするはずがないだろう。お前は俺を何だと思っているのだ。」
 ミロの腕がカノンの首へ回され、唇が重ねられた。
 熱を忘れたミロの身体が熱くなるまで、そう時間はかからなかった。


 それから、聖域は降り積もった雪で固く閉ざされた。しかし、それは、カミュがシベリアへ追いやられた理由を知っている黄金聖闘士にとっては予想の範疇であったため、猛吹雪に見舞われた十二宮には原因のカミュとカノン、それに、ミロしか残らなかった。
 人気の絶えた十二宮で、カノンは気兼ねなくミロといちゃついた。これまでの空虚を埋めるべく、連日、ミロに愛を囁いては、邪険にされて傷つき、慰められる日々を過ごした。薔薇を全滅の憂き目から救うため、教皇に苦情を申し立てたアフロディーテによって、カミュがシベリアへ強制送還されるまで、聖域が平穏な日常を取り戻すことはなかった。
 ちなみに、カノンは二度と長期任務を願い出なかったという。











初掲載 2012年12月30日