dietary indiscretion


 シベリアに住まうカミュへ、教皇シオンからお呼びがかかったのは、1月半ばのことだった。
 ハーデスとの間で一種の協定を結んでからは、聖域外に住む黄金聖闘士がわざわざ招集されることは滅多になくなっていたので、カミュは内心首を傾げたが、先日の騒動に何か関係があるのかもしれないと思いなおし、急いで荷物をまとめると、聖域へ急いだ。
 翌日、聖域に到着したカミュは、闘技場で、カノンと一緒になって青銅聖闘士候補の少女たちに稽古をつけている親友の様子にほっと胸を撫で下ろした。
 外見はずいぶん変わってしまったが、それでも、あっけらかんと笑えるのはミロがミロだからだろう。けっしてデスマスクが言うように、あほだから、というわけではない、と思う。いや、さすがに、あの騒動のときは、ミロは本当にあほなのではないかとカミュも思わざるをえなかったが、おそらく、違うと思う。
 カミュは屈託なく手を振って来るミロへ手を振り返しながら、教皇宮を目指した。
 カミュが辿り着いたとき、シオンはひどく不機嫌だった。ずいぶん間が悪いときに顔を出してしまったものだとカミュはひやひやしたが、どうやら、シオンはカミュを呼びだした関係で機嫌が悪いようだった。シオンは椅子を指し示してカミュに座るよう促すと、大きく溜め息をこぼして、頬杖をついた。
 「…実は、呼び出したのは言うまでもない。ミロのことだ。」
 口火を切ったシオンの言葉に、カミュは、やはり、という思いが強かった。
 先月、ミロは食あたりになった。生死の境を彷徨い、ずいぶん、危険な状態だったという。天下の黄金聖闘士が食中毒で命を落とすなど前代未聞の珍事なので、シオンなどもだいぶ肝を冷やしたそうだ。
 ちなみに、ミロが何を食べたのかいまだ定かではなかった。食い意地の張ったミロのことだから、変なものでも食べたのだろう、というのが大方の予想だ。子どもの頃、降りしきる雪に大はしゃぎして食べ、腹を壊した過去もある。黄金聖闘士として非常に有能で一途なミロだったが、食に関してはまったく信用されていなかった。
 「ミロがいかがしたのでしょう?」
 自分で言いながら、カミュはあまりに場違いな質問だという気持ちが拭えなかった。ミロがどうかしてしまったのは、一目瞭然である。
 どういうわけか、あの一件を境にミロは女になっていた。誰も何も口にしないのは、何故ミロの性別が変わったのか理由がさっぱり見当もつかず、下手に突いて大変な目にあいたくないという防衛本能からだった。
 この聖域では、藪蛇を突いたばっかりに命の危険にさらされるようなことが少なくないのだ。
 「実は、あれには…大変言いにくいことなのだが、アテナが関与されているのだ。」
 薄々察していた新事実に、カミュは重々しく頷いた。
 「あれ以来、ミロは弟子を取ったようですね。…噂では、マルスの子女だとか。」
 マルスと言えば、アテナやハーデスと覇権を争ったこともある神々の一人だ。その子女が急にミロの弟子になれば、アテナとマルスとの間で何らかの取引があったのではないか、と勘繰りたくもなる。
 「シベリアに居るお主にまで噂が届いておるとは…。やはり、隠しきれるものではないか。」
 シオンはむっつりこぼすと、人目を忍ぶように周囲を見回してから、カミュとの距離を詰めた。
 「良いか、これから話すことは、くれぐれも口外しないように。」


 きっかけは、アテナのきまぐれだった。聖戦後、聖域における騒動の大半はアテナのきまぐれに端を発しているので、きっかけ事態は珍しい話ではなかったが、展開がまずかった。
 その日、アテナは良かれと思って、ミロの食事に一服盛った。アテナ印の秘薬、一般にいう、惚れ薬、だった。しかし、調合に不備があったらしく、あろうことか、ミロは死んでしまったのである。
 これには、さすがのアテナも気が動転した。
 アテナは自ら蒔いた種ということもあって、ハーデスの元に赴いて、ミロの魂を地上に返すよう懇願した。だが、一種の協定を結んでいるとはいえ、世の理に反する死者の蘇生を、そう易々とハーデスが引き受けるわけがない。
 そんな困り果てたアテナへ助力を申し出たのが、マルスだった。小宇宙マニアのマルスは、密かに、自分の娘ソニアが蠍座に属することもあり、蠍座の黄金聖闘士のもとで修業を受けさせたいと願っていたのである。
 マルスがアテナに課した条件は、たった一つ。蠍座の黄金聖闘士が愛娘に変なことをできないよう、女にしろと迫ったのだ。
 どういうわけか、アテナはそれを良案だと思ったらしかった。そんな真似をすれば、シオンは矜持の高いミロが自害するのではないかとはらはらしたが、こういうときの常で、アテナは聞く耳もたなかった。
 その後、ミロは女聖闘士として蘇生を果たし、約定を違えないため、アテナの命令でソニアを弟子に取った、のだが。


 「問題は…、」
 「まだ問題があるのですか、シオンよ!」
 言い渋るシオンに、カミュは頭を抱えたくなった。すでに聞かされた内容だけでも、頭を痛めつけるには十分すぎるほどだというのに、まさかの続きがあるというのである。
 シオンはふいに面をあげると、カミュを見つめた。
 「お主は、前回の聖戦の蠍座の黄金聖闘士、カルディアの話を聞いたことはあるか。」
 「…はい、ミロから何度か。」
 それに、水瓶座とも浅からぬ縁がある黄金聖闘士だ。カミュはシオンの言葉に頷いてみせた。
 生来心臓を患っていたカルディアは、黄金聖闘士候補として見出された後、アテナの秘術によって命を存えたが、その延命は完全ではなかった。小宇宙を燃やすたび、その心臓は莫大な熱を放った。そんなカルディアの熱を冷ましたのは、当時の水瓶座の黄金聖闘士デジェルだったという。
 「…同じことがミロの身にも起ころうとしている。お主には、どうか、ミロの熱を冷ます力になって欲しい。」
 カミュは目を見張り、シオンに詰め寄った。
 「まさか、まさか、ミロの心臓は…!」
 「そうであれば、どれだけ良かったか。ミロは…、ミロは…っ。」
 そこで、シオンは残念そうに瞼を伏せ、深々と溜め息をこぼした。
 「小宇宙を燃やすと、情欲の炎が燃え盛るようになってしまったのだ。」
 恰好良く言っているが、要は、発情してしまうのである。
 カミュの脳裏に、それまでのミロとの思い出が走馬灯のように駆け巡った。基本的には面白おかしく、ときに、切ない思い出だった。
 心臓が熱を放つのは、生命にかかわる問題だ。カミュも喜んで手を貸そう。だが――。
 カミュは重い唇を開いた。
 「…………シオンよ。」
 「…何だ?」
 「残念ですが、それは、断固として断らせていただきたい。」
 いくら女のなりでも、嫌なものは嫌だ。気味が悪い。
 「駄目だ、これは教皇命令だ。」
 間髪いれず否定するシオンに、カミュは勢い良く椅子を蹴って立ち上がった。カミュにしては珍しく、ひどく動転していた。当然だ。先月まで男だった親友を任務だから抱けと命じられても、納得できるわけがない。もともと、クールが信条の割に、カミュは血の気が多いところがあった。
 「何故、私が後始末をしなければならないのです!他のものでも良いでしょう!」
 声を張るカミュに、負けじとシオンが大声をあげる。
 「ええい、蠍座の尻拭いは水瓶座とカルディアの時代から相場が決まっておる!」
 無茶苦茶な理論だった。カミュの中で、ぷつんと理性の糸が切れた。すっと目を眇めたカミュは音もなくオーロラエクスキューションの構えを取ると、小宇宙を燃やした。
 「ならば、力づくで拒むまで…!」
 急激に教皇宮の気温が下がり始め、そこかしこに降りた霜がきらきら光を弾いた。
 そんなカミュに対し、シオンはおかしそうに笑声をあげていたが、突然、かっと目を見開いた。もともと、気の長い方ではない。シオンはスターダストレボリューションの構えを取りながら、呵々と叫んだ。
 「わしに挑むというか!受けて立ってやる、小童ッ!」
 次の瞬間、教皇宮で銀河が砕けた。




 教皇宮で不毛な争いが繰り広げられている中、ミロはソニアがパラドクスと親交を深められるよう、子ども好きのアルデバランが守護する金牛宮に預けると、全速力で天蠍宮へ急いだ。心臓がばくばく言っている。良くない兆候だった。
 天蠍宮に辿り着いたミロは、その勢いのまま駆け足でバスルームへ駆けこむと、シャワーのノズルを捻り、頭から冷水をかぶった。服を脱ぐ時間も惜しかった。しかし、期待したほど効果のほどはなく、急激に冷やされた身体がふるりと震え、鳥肌が立ちはしたものの、肝心の動悸は治まらなかった。ミロは唇をかみしめた。
 最近、ミロは不調に悩まされていた。どういうわけか、小宇宙を燃やすたびに身体が疼くのだ。それも、良くない意味で。
 性別が変わってしまったように、これもアテナに命を救っていただいた副作用なのかもしれない。だが、小宇宙を燃やすたびにこんな衝動に駆られていたのでは、任務も何もあったものではない。それに、今はまだ良いが、こんな調子では、いつ衝動に負けて肉欲にふけってしまうともわからない。同僚の前であられもない姿を披露しようものなら、死んでもやりきれない悔恨となるだろう。
 「何故、このようなことに…。」
 女になったことは、まだ良い。受け入れられるし、あえて意識しなければ忘れていられる。しかし――。こんなことを誰に相談して良いのかもわからず、発作に見舞われるたびに死にたくなるミロなのだった。
 そのとき、隣で扉の開く音がして、ミロは俯かせていた顔を上げた。
 「カノン…!」
 いつになく落ち着きに欠けるミロの行動を不審に思ったのだろう。確かに、最後はほうほうの呈で逃げ出すように駈け出したから、不審極まりない自覚はあった。そんなミロをわざわざ追いかけてきたらしいカノンは、着衣したままシャワーを浴びているミロを呆れ交じりに見やった。
 「何をしている。風邪をひくぞ。」
 「…放っておいてくれ。」
 「また発作か?」
 ミロは流水の合間からじろりとカノンを睨みつけた。
 カノンは、アテナとシオン以外に、ミロの発作を知る数少ない人物でもあった。同時期に弟子を取り、闘技場で一緒に過ごす時間が増えたために、ばれてしまったのだ。もともと妙に勘の鋭い男だから、カノン相手にミロも隠し通せるとは思ってもみなかったが、弱みを握られたようで面白くなかった。
 実際、これは弱みに分類されるに違いない。
 「俺で良ければ鎮めてやるぞ?――この前みたいに。」
 手を伸ばしてシャワーを止めたカノンが、濡れて額に張りつくミロの髪を掻き分け、耳にかけた。弓なりに眇められた目が、誘いかけている。
 ミロは激しく狼狽した。何気ないしぐさだというのに、カノンの指が触れた瞬間、前回発作が起きたとき強引に唇を奪われた瞬間が脳裏にフラッシュバックして、ぞくりと肌が粟だった。
 ミロはとっさにカノンの手を振り払っていた。
 「さ、触るな!」
 そうして振り払ってから、高いプライドを傷つけられて、ミロの顔が羞恥に赤くなった。これではまるで、恐怖に駆られた子どもだ。黄金聖闘士に相応しい態度ではない。カノンがくつりと唇を歪ませて笑った。
 「何だ、敏感だな。感じたのか。」
 「う、うるさい…!」
 憤りと恥辱で、ミロの胸はいっぱいになった。カノンにしてみればほんの気晴らしのつもりなのだろうが、当事者にとっては死活問題だ。からかわれる方はたまったものではない。
 しかし、カノンは、動揺もあらわに真っ赤な顔でわめくミロのことがおかしくてたまらないらしく、バスルーム入口の壁に背をもたれかけ、一転して仏頂面のミロに笑い交じりに問いかけた。
 「だが、実際、どうするつもりだ?そんな調子では聖闘士としてやっていけないだろう。」
 「そ、それはそうだが、しかし。」
 黄金聖闘士としての生き方しか知らないミロから、聖闘士としての生を奪えば、死も同然の空虚な絶望しか残らない。諭すようにカノンの唇が動いた。
 「俺とのキス一つで鎮まるものなら、安いんじゃないか?それ以上だって、お前が望むのならば喜んで相手をさせてもらうが。」
 ミロは絶句した。カノンの口元に目が釘付けで、頭が回らなかった。
 カノンはのんびりミロの返事を待っている。何気ない風を装いながら、きっちり入口を塞いで退路を断つ辺りは、流石海龍といったところか。
 よりによって何という男に弱みを握られてしまったのだろう。カノンが本気なのか冗談なのか見定めることができず、ミロは内心歯噛みした。
 これがカミュやアイオリアであればまだ、と思いはするものの、もうそれどころでもない。ミロはカノンの形の良い唇から目が離せなかった。今、カノンにキスしてもらえるなら、ミロは何だって差し出しただろう。むろん、そんなことを口外するつもりはまったくないが。
 ミロの視線に気づいたカノンが、わずかに首を傾げておかしそうに口端を吊り上げた。癪な動作だった。
 「お、俺は、」
 心臓ははちきれそうなくらい暴れているし、頭はキスのことでいっぱいだ。最悪なことに、カノンのキスがどれだけ気持ちいいか、ミロは知っていた。それが、どれだけ心を蕩けさせるものかも。
 しかし、毎回こんな調子で、なし崩しにキスをしていて良いはずがない。ミロもカノンも、聖域を代表する黄金聖闘士なのだ。そのようなふしだらな真似、たとえ教皇が許可したとしても、潔癖でプライドの高いミロにはとうてい赦しがたかった。
 ミロはわいた生唾を飲み下すと、ぎゅっと目を瞑って視界からカノンの唇を閉め出し、混乱した頭できっぱりはっきり宣言した。
 「こ、婚前交渉はしない主義だ!」
 正直、このときのミロは、自分でも何を言っているのかよくわかっていなかった。理解していれば、すぐさま、前言を翻したはずだ。
 一瞬の沈黙の後、カノンが弾かれたように笑い出した。呆気に取られているミロを後目に、カノンは腹を抱えて笑い続けてから、眦に浮かんだ涙を拭った。
 「すまん。俺の考えが至らなかった。そうだな。まずは、結婚が先だな。」
 服が濡れるのもお構いなしに、カノンはすっかり混乱してしまったミロを抱きかかえると、ミロの先制なんて何のその、未来の嫁に無頓着で熱烈なキスをした。ずるいキスだった。
 「では、我らが女神に許可をもらいに行くとするか。」
 頭がくらくらして、身体はふらふらした。背筋は今まで以上にぞくぞくしていた。
 「…その前に、もう一度。」
 「ふふ、ずいぶん甘えただな。俺の蠍は。」
 ミロがカノンの首に腕を絡めて催促すれば、二度目のキスが降って来る。キスですっかり心奪われたミロは、カノンの言葉をろくに考慮せず受け入れた。ミロは熱心にカノンを抱き寄せて、三度目のキスを強請った。
 ようやく頭が冷め、それが抵抗と反論を捩じ伏せる策略のキスだったと気付いたのは、崩壊する教皇宮を背に、双魚宮でご満悦なアテナに呪いもとい祝福を授けられた後だった。
 後の祭りである。


 「貴様には今度こそアンタレスで止めをさす必要があるらしいな、カノン…。潔く死ぬが良い!」
 潔くずぶぬれの胴着を脱ぎ捨てたミロの身体に、蠍座の黄金聖衣が装着される。それを余裕の表情で見届けたカノンはふっと微笑をたたえると、自らも黄金聖衣をまとった。
 「残念だが、ろくに堪能もしないうちから、新妻を未亡人にするわけにはいかないな。」
 「……蠍の審判、その身に受けるが良いッ!」
 小宇宙が弾け、爆音が響いた。教皇宮に引き続き、双魚宮の崩壊である。哀れなことに、宮の主であるアフロディーテは出張のため不在だった。
 「先生、がんばって!」
 「我が師の方が強いわ。」
 急遽ベールガールとして立ち会わされたソニアとパラドクスは、手に汗握りながら、師匠たちの対決を見守っているところを、二人仲良くアルデバランの肩に抱きかかえられた。ソニアは少しためらってから、それでもミロのことが気になったので抵抗してみたが、あっさり棄却された。
 「当事者は楽しいのかもしれんが、子どもには良くない。」
 「でも、我が師は…。」
 「大丈夫です。この後、ミロはカノンととても仲良くなるので、あなたたちが心配することはありません。」
 アテナの断言に、教皇宮の残骸からガラガラ音を立てて姿を現した全身埃まみれのカミュが顔色を失って身震いしたが、幸か不幸か、同じく埃だらけのシオンの目にしか留まらず、鼻で嗤われることとなる。
 「惚れ薬などいらなかったのですね。両想いになって丸く収まって、本当に良かったこと。安心しました。」
 そう言って、すべての元凶はほがらかな笑い声を立てた。











初掲載 2013年1月17日