その日、久しぶりにシベリアから帰ったカミュは、挨拶をしに立ち寄った天蠍宮で、黄金聖衣に身を包んでいるミロの様子に眉根を寄せた。
カミュが知る限り、かつてミロは十二宮では常に黄金聖衣を着用していたが、平穏な時代になり、アテナに止められてからは、私服姿でいるようになったはずだ。外で戦闘の任に就くとしても、確実に人目を引く聖衣をまとうのではなく、任地までパンドラボックスを持っていくのが主流である。
一体、どうしたことだろう。カミュは首を傾げた。しかも、外見に無頓着で寝癖なのか癖毛なのかよくわからないレベルのミロが、鏡を睨みつけている。
これはよほどのことに違いない。
長年の付き合いからそう悟ったカミュは、肩越しにミロへ声をかけた。
「ミロ、何をしている?」
「む…カミュか。おかえり。しばらくぶりだな。」
「ああ、秋以来だからな…それで、どうした?書類仕事でも命じられたのか。」
それならば、頭を使うことがどちらかといえば苦手なミロがしかめ面でいるのも頷けるのだが、そうすると、黄金聖衣をまとっている事実が腑に落ちない。第一、シオンがそのような任務をくだすはずもない。そういう仕事は、通常、ムウやカミュに割り振られていた。
最近のミロの任務は、大半がアテナの警護だというから、アテナ関係で頭を悩ませているのかもしれないが、判断材料がないため、推測の域を出ない。
ますます眉をひそめるカミュに、ミロは困惑した顔で腕を組み、小首を傾げた。
「実は、俺の手に余る任がくだったのだ。」
「お前の手に余るとは、よほど難しい任務に違いない。私で良ければ手を貸すが。」
カミュにしてみれば、親友が困っているときに手を差し伸べるのは、親友として、当然の行為だった。カミュの申し出に、ミロはしばらく悩んでみせてから、からりと笑った。
「そうだな。俺ではどうすれば良いのかわからないことも、お前ならばわかるかもしれない。」
発端となった一昨日、ポセイドンとの会見を控えたアテナは、常にない憂えた表情を見せていた。
護衛役として海底まで付いていったミロは、もちろん、アテナの様子が気にかかったが、それ以上に心配してみせたのは、当然のことながら、聖戦後教皇に返り咲いたシオンだった。聖闘士たちはみな、アテナに篤く信頼を寄せていたが、中でも、シオンの忠誠心ときたら、筆舌に尽くしがたいものがあった。
アテナはしきりにアテナの身を案ずるシオンに労いの言葉をかけると、ふと、思い立ったように、自分を挟んでシオンの反対側に立っているミロへ視線を投げかけ、長い睫毛を瞬かせた。
「ところで、ミロ。あなたに折り入って話があります。」
そっとミロの手を握りながらのアテナの発言に、ミロはどきりとした。アテナがふと思い立ったように行動に出るとき、それは、たいてい思い立っての行動ではなく、以前から熟慮した末の行動だと瞬から知らされていたからだ。アテナを盲信しすぎて盲目なミロも、最近、あまり信用していなかった瞬たち青銅聖闘士の助言がたいてい的を射ている事実にうすうす気付き始めていた。
「話というのは他でもありません。カノンのことなのです。」
「カノン、ですか?」
カノンと言えば、実力は言うに及ばず、篤い忠誠心や類まれな美貌もあって、アテナからたいへん贔屓され、シオンの嫉妬と不興を買っている双子座の黄金聖闘士である。はじめて会ったとき、ミロはなんと鼻もちならない男だろうと憎らしく思い、真意を試す意味もあって血祭りにあげてしまったのだが、最初に仲間として認めた経緯から浅からぬ縁があるので、今ではかなり懇意にしていた。
「それで、ミロ、あなたにしか出来ないことです。引き受けてくれますね?」
有無を言わせない目力でアテナが問いかけてくる。ミロはどぎまぎした。こういうときに限って、瞬が何と助言したか思い出そうとしても思い浮かばないのは、アテナの射抜くような眼差しが真っ直ぐミロへ向けられているからだろう。
そうなると、アテナに固く忠誠を誓うミロに取れる行動は一つしかない。
「私で出来ることであれば、喜んで引き受けさせていただきます。」
きりりと勇ましい顔つきで胸を張るミロに、アテナが満足そうに微笑んだ。
「それを聞いて安心しました。ありがとうございます、ミロ。それではさっそく、私の方でも手配しましょう。」
「手配、と申しますと。」
「実は……、今日の会見で、カノンを海龍に戻すよう海底側から打診がありました。」
寝耳に水の話だ。驚きのあまり声を失うミロの眼前で、アテナが表情を曇らせた。
「聖域にいる限り、カノンは双子座の黄金聖闘士の座をサガと共有するしかありません。もしかすると、カノンにとっても、海龍に戻ることが一番よいのかもしれません。ですが、今の聖域には、カノンが必要なのです。」
アテナの言葉に、ミロも熱心に頷いた。聖戦で傾いた聖域がたった1年でここまで復興し、かつての威光を取り戻せたのは、ひとえに、カノンのおかげである。もちろん、シオンやサガ、他の黄金聖闘士も、聖域の復興には大いに貢献したのだが、カノンがいなければ、こうしてポセイドンと協定を結ぶにはいたらなかっただろう。こうと決めたときのカノンの猛進ときたら、体力自慢のミロでさえついていくのがやっとというありさまだった。
この一年を振り返り神妙な面持ちになるミロの手を、アテナが強く握り締めて注意を引いた。
「良いですか、ミロ。」
「はっ!」
「あなたにはカノンとデートをしていただきます。聖域のためです。全力でカノンを籠絡してください。これは、黄金聖闘士の中で唯一の女性であるあなたにしか出来ないことなのです。命がけでカノンを誑かすのですよ。推奨はショットガン婚です。」
二の句を告げず、目を丸くしてびっくりしているミロに、アテナは有無を言わせぬあの声調で命じた。
「良いですか。私は、ショットガン婚を推奨します。」
「ということで、これからデートに行く次第なのだ。しかし、デートと言われても、俺にはどうすれば良いのか見当もつかん。とりあえず、アテナからばっちり決めて行くよう命じられたので、黄金聖衣をまとってみたのだが。」
「ミロ、お前は馬鹿か。そんなわけないだろう。というか、どこから突っ込めば良いのかわからん。」
つい本音が出た。口にしてしまってからはっとしたカミュは、甘んじて、ミロの侮蔑の眼差しを受け止めた。ミロのおつむが少し弱いのも、聖域純粋培養で世間知らずなのも、もはや周知の事実である。今更のように指摘して、関係を悪化させる必要性はまったくなかった。それに、思いつめるきらいのあるカミュは、だからこそ、ミロに救われた場面が多々あった。
深く反省するカミュに、憤りもあらわにミロが言い張った。
「何を言う。黄金聖闘士の一張羅といえば、黄金聖衣だろう。成人式も、年末年始のパーティーも、デスレースも、これまで全部黄金聖衣での参加だったではないか。」
「お前はすべて聖域基準で考えすぎだ。どこに、聖衣でデートしているものがいる。それでは、聖闘士だと吹聴しているようなものではないか。」
「それならば、何を着ていけば良い?他に着ていけるような服など、俺の手持ちにはないぞ。」
「先日、アテナからカクテルドレスを頂戴したと喜んでいたではないか。あれはどうした。」
カミュの趣味から言えばかなり華美だったが、アテナの見立ては確かで、金色のカクテルドレスはミロによく似合っていた記憶があった。もとより、カミュも、女らしさの欠片もないミロに女らしい衣服など期待していない。よくて、古代ギリシアでまとわれた一枚布のキトンが限度だろう。
まず前提条件に突っ込みを入れたい気もするが、カノンとデートするのであれば、カクテルドレスが最善なのではないかと支持するカミュに、ミロが顔をしかめた。
「あのような露出の激しいひらひらした服、アテナのご同伴のパーティーならばともかく、街へ着ていけるわけがないだろう。」
全否定である。だが、確かに、陽光の眩しい中、金髪でほどよく日に焼けたミロがあのような金色のドレスに身を包んでいたら、金ぴかで目に痛いかもしれない。
うっかり納得しかけたカミュの前に、そのとき、音もなくアテナが現れた。
やけにタイミングの良い突然の女神のお出ましに、カミュはぎょっとしたが、ミロが驚いた様子はなかった。これが、現在の聖域の通常運転なのだろう。カミュは妙に納得させられた。
執事の辰巳を従えたアテナは、黄金聖衣姿のミロとシベリア帰りのカミュを交互に見やってから、呆れ交じりの微笑を浮かべた。
「来てみて正解でした。ミロ、あなたはやはりその衣装を選んだのですね。」
アテナがいたましさと微笑ましさがないまぜになった視線を自分より年嵩のミロに向けたまま両手を叩くと、背後に控えていた辰巳が進み出て、ミロに紙袋を差し出した。聖闘士としての悲しい性で、ミロは考える前に受け取っていた。
「今日はこれを着ておいきなさい。私のワンピースです。」
目で促されたミロが紙袋を開けてみると、中には、アテナ好みの白地に銀糸で刺繍の入った、いかにも高級そうなワンピースが入っていた。世俗に疎いミロはよくわからないが、世間一般にはよく知られたブランドの服だったような気がする。
「少しサイズが小さいかもしれませんが、もともとはロング丈ですし、肩ひもで調整すれば、何とかなるでしょう。靴はサイズがないので、カノンと会うまでに街で買うのですよ。」
アテナはそう言うと、呆気に取られているミロとカミュを後に残して立ち去った。
そのあまりにあっさりした引き際に、カミュは内心、これはどこかで覗き見しているな、と戦慄せざるをえなかったという。
カミュの勧めで無難にローヒールのパンプスを購入したミロは、カノンとの待ち合わせ場所である公園へと向かった。アテナの勧めで、きっちり5分遅刻しての到着だ。
居住地を同じくしているというのに、なぜ外で待ち合わせしなければならないのか、なぜ遅刻しなければならないのか、内心、ミロはひどく困惑していたが、アテナにそういうものだと押し切られれば、それまでだった。アテナが白と言えば黒も白くなるのが聖域流である。
当然のことながら、カノンはミロより先に到着していた。長い足を組んで、手持無沙汰そうに立っている。聖域でよく見かける麻のシャツに編み上げサンダルではなく、一般人と同じシャツにスラックスという姿なので、その日のカノンはとても真新しく映った。にもかかわらず、群衆に埋没せず、一目で存在を気付かせるのは、カノンが持つ独特のオーラのためだろう。
ミロは、アテナのお膳立てがあったとはいえ、自分で誘っておきながら遅刻するという無礼千万な行為に深く恥入り、カノンの元へ足早に向かった。
「悪い、待たせたな。」
「気にするな。それより…お前にしては何というか…珍しい恰好をしているな。」
珍しく言葉に詰まるカノンの様子に、ミロは決まり悪くなって視線を落とした。
「みなまで言うな、わかっている。似合わないだろう。」
アテナの命令で身にまとってみたものの、純白のワンピースは女らしすぎた。それに繊細なシルクで作られているので、そそっかしく粗雑なところのあるミロはいつ破くものかとはらはらしていた。
恥入るミロに、カノンが苦笑を浮かべた。
「そんなことはない。よく似合っている。ただ、少し、目新しかっただけだ。」
「気休めはよせ。お前が言葉に詰まったのが何よりの証拠だろう。」
「…こう言ってはなんだが、お前の直感は、こういう肝心なときにはさっぱり働かないな。」
「?」
「まあ、そういうところも含めて、俺は好きだが。」
カノンはそう言って、ミロの寝癖なのか癖毛なのかわからないほどあちこちに遊んでいる髪の中でもとりわけ自己主張している一房を撫でつけると、ミロに笑いかけた。
「行くぞ。今日は一日付き合ってくれるんだろう?」
むろんである。ミロは重々しく頷いてみせた。
しかし、聖域純粋培養で、最近はアテナの護衛役として世界各国を巡っているとはいえ、基本的には聖域とミロス島の往復しかしてこなかったミロにとって、市街地の人ごみはとてつもない脅威だった。しかも、目に映るほとんどすべてが未知に属すため、ミロはあちこち気になって仕方なかった。
考えてみれば、ミロの知っている世界は、聖域と上流階級で、中間というものがない。聖域と上流階級にしても、上辺だけの認識だ。黄金聖闘士であるミロにとっては黄金聖闘士として生き抜くことがすべてで、戦闘と貫くべき信念以外に目を向けるべきものなどなかった。もし、そんなものがあれば、カミュたちのように迷いが生じていただろう。サガも意図してそのように仕向けた感があった。
だから、ミロには守るべきものという認識はあっても、一般人の生活など目にしたこともなければ、考えたこともなかった。
「カノン、あれは何だ。なんだかやたら光っているぞ!」
「…ミロ、指を突き付けるな。」
「だが、すごく光っているのだ!」
やんわり、カノンはミロの指を下ろすと指を絡めた。こうすれば、ミロが人に指を突きつけるのも阻止できるし、迷子防止にもなるので、良いことづくめだった。口も塞げれば、言うことないのだが。
傍から見たら、世間知らずなブロンディに振り回されている年上の彼、でしかないのだが、当事者たちにそんな自覚あるはずもない。
「ふふふ、なかなか楽しそうにしているではありませんか。」
カフェのラウンジで、双眼鏡を下ろしながらのたまうアテナに、護衛役として無理矢理同伴させられたカミュは気まずげに身じろぎした。
「アテナ、覗きはいかがなものかと…。」
「まあ、何ということを言うのです、カミュ!私は聖域のためを思って行動しているのですよ。今や、聖域の未来はミロにかかっているといっても過言ではないのですから。」
「そう、ですか。」
「もちろん、そうですとも。」
いつになく歯切れ悪く返答するカミュに、アテナは不満そうに頬を膨らませてから、再び双眼鏡を覗き込んだ。視線の先は、もちろん、カノンとミロだ。
アテナがウォッチングに夢中になると、カミュは見咎められないように小さく溜め息をついた。アテナは思い違いをしていた。口封じのつもりで巻き込んだのだろうが、こうして巻き込まれることがなければ、カミュもアテナの決断を悪趣味だと思いこそすれ、水を差したりはしなかったはずだ。
知ってしまった今、見なかったことにすることも出来ず、なんともつらい立場に立たされたカミュだった。
「ミロ、そろそろ小腹が減らないか?」
カノンがそう切り出したのは、ミロがひとしきりはしゃぎ終え、そろそろ3時になろうかという時間だった。
確かに、ランチからだいぶ時間も経っている。それに、アテナの指定した店が高級感あふれるコース料理で食べた気がしなかったこともあり、ミロが腹を擦りながら頷いてみせると、カノンは最初からずっと持っていた手提げを掲げてみせた。
「トゥルバ、好きだろう。揚げてきた。」
ミロは首を傾げた。確かにトゥルバは大好きだが、なんだか子供っぽい気がして、誰にも好きだと言ったことはなかった。親友のカミュにすら、言っていない。
当然、カノンに言った記憶などミロにはなかった。一度だけ、カノンの前で食べた記憶がおぼろげにあるのだが、それほど記憶に残るような食べ方をしたつもりはない。しかも、カノンの口ぶりだと、お手製のようだ。
これは、新手のジョークなのか、何なのか。
本当であれば、ここは、自分の方が料理の腕前を披露すべきシーンだという自覚がミロにはあった。カノンの胃袋を掴むよう、アテナに指示されたのである。しかし、人には天分というものがある。これまでまったく家事に携わったことのないミロに、突如、料理をしろといっても、無理な話だった。
「ミロさま、もう勘弁してください!」
後始末で消火器を振りまわしていた従者がわっと顔を覆って泣き出した時点で、アテナに盲目な忠誠を捧げるミロもさすがに引き際を悟り、仕方なしにアテナへ釈明しに向かった先で、カノンの胃袋を物理的に掴む自信を伝えたが、当然のことながら却下されて今に至る。
カノンに促されるまま、半信半疑でベンチに腰をかけたミロは、ランチボックスを開けて破顔した。中には、本当に、ミロの大好きなトゥルバが詰っていた。しかも、シロップたっぷりだ。
「食べてもいいのか?」
「何のために作って来たと思っている。ほら、遠慮せずに食え。」
わくわくして問いかけるミロへ、カノンが笑って返す。
そう言うのであれば、遠慮する必要はないだろう。ミロはトゥルバを口いっぱい頬張った。幸せの味が広がった。カノンは眉目秀麗で文武両道のみならず、料理の腕も一流らしい。ミロは精一杯口を動かしてトゥルバを呑みこむと、カノンに満面の笑みを見せた。
「カノンは良い嫁になるな。うむ。」
「それだけは、いくら頼まれても御免だな。嫁はもらうと決めている。」
胃袋を掴めと命じられたにもかかわらず、逆に、がっつり胃袋を掴まれる始末。もしかすると、これは頭を痛めるべき展開なのかもしれないが、胃袋が満たされてご満悦なミロはその問題点にすら気付くことなく、カノンの台詞に目を丸くした。
「なんだ。カノン、お前にはすでに心に決めた相手がいるのか?」
カノンに恋人がいるのであれば、いくらアテナに指示されてのこととはいえ、ミロの行為は邪道の極みだ。謀略により幸せなカップルの破局を目論むなど、言語道断である。
激しく驚愕するミロの様子に、カノンはいぶかしむように眉根を寄せてから、口端を綻ばせた。
「これは、脈があると見ても良いのか?」
「む?」
「いや、何でもない。大方、アテナの差し金だろう。…口元にかけらがついているぞ。」
急に言われても、頭が追いつかない。手持ちに鏡などあるはずもなく、手に持っていたトゥルバを口に押し込め、あちこち適当な場所を触って食べ残しを探すミロに、カノンは一瞬伸ばしかけた手を引っ込めた。
「ここだ。」
口端に唇が降って来た。
どこからか、きゃあああ、と聞き覚えのある声が聞こえたが、おそらく、気のせいだろう。今日は一日公務だと嘆いていたアテナがこんな場所にいるはずがないし、まるで一般人の娘のように黄色い悲鳴を上げるはずもない。
呆気に取られて言葉を失うミロの前で、カノンはぺろりと唇を舐めると、困ったようにぼやいた。
「俺には甘すぎる。よくこんなものが食えるな。」
「好きなのだから仕方ないだろう。」
我に返ったミロは落ち着きなく胸元をまさぐった。心臓がばくばく言っていた。こんな経験ははじめてだ。
ミロはどういうわけか無性に熱くなってきた頬に手の甲を押し当てて冷ます努力をしながら、こんなところを知り合いに見られていなくて良かったと心から思った。おそらく、同僚に見られていたら、ミロは問答無用でその同僚と千年戦争に突入していたことだろう。
人を疑うことを知らないミロは、アテナやカミュに観察されているなど、思ってもみなかった。
しかし、カノンは違った。カノンは黄色い悲鳴の上がった方向を一瞥し、カフェのラウンジに見覚えのあるラベンダー色の髪と赤髪を目にすると、すべてを察し、ベンチを立ちあがった。
最初から、おかしいとは思っていたのだ。女っ気のまったくないミロがこのようなワンピースを着ていることも、明らかに肌に合わない高級レスランを予約していたことも、それに、カノンをデートに誘ったことも。
だが、脈がないわけではないのだ。
顔を赤らめたミロを前にして、カノンは俄然ミロを口説き落とす気になっていた。今朝方まではさっぱり自信がなかったが、今ならば、絶対の自信を持ってミロを口説き落とせると答えられた。
「この後、俺の宮に来ないか。まだ沢山トゥルバが余っているのだ。食べるだろう?」
朗らかに笑いかけるカノンへ、ミロはまだ迷うそぶりであちこちに視線を彷徨わせていたが、食欲には勝てなかったらしい。
「…食べる。」
食い意地の張ったミロが答えると、カノンはその手を引いて立たせた。後ろを振り返った瞬間、アテナが勢いよく新聞紙で顔を隠したのが、カノンにはおかしかった。
「その前に、せっかく、街に降りたのだ。腹ごなしにショッピングでもしていこう。新しい服を買ってやる。」
「?せっかくの好意はありがたいが、無駄になるだけだと思うぞ。着る予定がない。」
ミロが断り文句を口にした。黄金聖闘士として貢がれることに慣れているミロは、別に、カノンに遠慮しているわけではない。単純に着用する機会がないから、断ったのだ。
しかし、断られても、カノンにはカノンの考えがある。ミロとショッピング街に向かうことにしたカノンは、ミロのワンピースへ視線を注いだ。
カフェまで、もう50メートルもない。
「気にするな。礼を告げる必要もない。それはアテナの服だろう?前に見た記憶がある。」
通り過ぎさま、カノンはちらりと、一心に耳をそばだてているアテナとその隣でひどく気まずそうにコーヒーを飲んでいるカミュを一瞥してみせてから、ミロにやたら爽やかな笑みで言い放った。
「その服装のお前に何かする気になれんだけだ。」
ミロが首を傾げた。どうも意味がわからなかったらしい。それで良いとカノンは思った。下手に警戒心を抱かれても、のちのち厄介だ。
だが、それを耳にしたカミュはむせ返ったようだ。
「今日は一日付き合ってくれるんだろう。まだまだ先は長い。楽しみだな。」
激しく咳きと黄色い悲鳴を背後に、神をもたぶらかした実績のある男はにんまりとほくそ笑むのだった。
初掲載 2013年1月11日