彼女は、名前の由来である林檎の樹に背を預けて眠っていた。身にまとう聖衣は半壊し、冥界での激戦を物語っていた。
こうして見ると、常は仮面で隠されている華やかな美貌もあいまって、良く出来た人形のようだ。
ふと、カノンの頭に疑問がもたげた。
カノンは蘇えった。小宇宙から察するに、アテナは冥界の混乱に乗じて、先の氾濫で亡くなったサガたちも連れ帰ったようだ。しかし、ミロは?眼前でわずかに顔を俯かせて瞼を閉じる彼女は、生きているのだろうか。どこにも、ミロが蘇えった確証などない。
カノンはミロの血の気の失せた頬に手の甲を滑らせ、その体温に、知らず殺していた息を吐いた。
生きている。じわじわ沸き起こる実感にカノンは手を離すと、頬を綻ばせた。生きて戻って来たのだ、冥界から。
カノンは破顔し、地面に座り込んだ。これほど喜ばしいことはなかった。
聖戦が終わってから、3か月が経った。
事後処理に追われていた聖域も、いまでは落ち着きを取り戻しつつあった。聖域の中心人物であったサガや、かつて同じような混迷期を乗りきったことのあるムウたちが戻ったお陰だろう。
その混乱の最中にあって、名を上げた男がいた。カノンである。
当初こそ、かのポセイドンを誑かし、アテナに戦いを挑んだ男として腹蔵を疑われていたカノンだったが、聖戦での大役、そして、実兄に劣らぬ手腕を発揮したことで、誰からも認められる存在になっていた。アテナが冥界の混乱に乗じて、少なくはなかった犠牲者を蘇えらせたことも、カノンに対する態度を軟化させた一因だろう。
その日、遠地での任務から帰って来たカノンは、アテナのいる教皇宮へ報告に向かうところだった。カノンはわずかな憂いを帯びた眼差しで、神殿へと連なる宮を見上げた。教皇宮へ行くには、必然的に、黄金十二宮を通ることになる。当然、天蠍宮を通過しなければならない。
任務以外に聖域から出ることのない宮の主は、聖域の常駐警護か、仮に任務を与えられていたとしても近場である可能性が非常に高かった。おそらく今日も、カノンの帰還を手ぐすね引いて待っているに違いない。
カノンは溜め息をこぼした。
今となっては、ミロがカノンに結婚を迫っていることは周知の事実だった。人目をはばからず、カノンに決断を求めて来るミロのせいである。最初は呆気に取られていた周囲の面々も、3か月もした今ではすっかり慣れ、日常のワンシーンと見做している。
確かに、現世に戻ったあの日、カノンは天蠍宮で眠るミロの素顔を目にしてしまった。だが、長いこと海底にいたせいで、女聖闘士の掟など知るわけがない。
女聖闘士は異性に顔を見られた場合、愛するか殺すかの二択。
しかし、同じ黄金聖闘士と認めたカノンをミロが手にかけられるはずもなかった。
ミロは己が仮面をつけていないと悟るや否や、カノンの襟元をぐいと乱暴に引き寄せ、不恰好に歯のぶつかる稚拙なキスをした。
「カノン…無論、責任はとってくれるのだろう。」
もしかしたら、ミロはろくに知りもしない男に娶らされる腹立ちからわざとカノンの唇に噛みついたのかもしれない。唇についた血を舌で舐めとるミロの獰猛でいながら艶めいた仕草に目を奪われていたカノンにはわからなかったが、その可能性は多分にあった。なにせ、ミロほど気位が高く、黄金聖闘士として理想を貫こうとするものも珍しい。
その矜持と姿勢からもたらされた結論が、カノンは嬉しい半面、苦痛でならなかった。
気難しく眉根をひそめるカノンへ、サガの乱以降白羊宮へ常駐しているムウが苦笑をこぼした。案外律儀のあところのあるムウのことだ。カノンの小宇宙を感じて、出迎えに来たのだろう。ムウは白羊宮の中へ招き入れながら、面白がってからかった。
「あなたも自業自得だとは思いますが、大変ですね。満更でもないところが、また。」
カノンはムウを睨みつけた。海闘士相手であれば、一瞥で凍りつかせる氷の眼差しだ。しかし、ムウ相手では満足な効果を得られず、かえって、むきになったことで笑い声を上げさせただけだった。
「ロマンチックすぎるんですよ。あなたはもっと現実主義者だと思っていましたが。」
「そういうお前が、夢がなさすぎるんだ。」
カノンはぼやいた。
今回の騒動を、ムウのように面白がっている輩も少なくはない。デスマスクやアフロディーテがその筆頭だろう。サガに至っては、愚弟が深く寵愛するミロと身を固めることを心から喜んでいる節があるので油断ならなかった。自分の兄のことだ。嬉々として、どんな策略を張り巡らせるともわからない。
ムウもカノンと同じことを考えたのだろう。憐憫混じりの眼差しを向けて来た。
「本当に、あなたも大変ですね。」
「…煩い。」
幸いなことに、カノンが天蠍宮を通りかかったとき、宮の主は不在だった。ムウから聞いた話では、今日はシベリアに拠点を置いているカミュが半月ぶりに帰って来たそうなので、宝瓶宮にいるのだろう。
この身にスカーレットニードルを打ちこまれて以来、ミロに恋焦がれる男としては嫉妬に駆られないでもないが、相手の男はともかく、想い人の方にはまったくその気がないとわかっている。
カノンは何も心配することはないのだと自らに言い聞かせながら、小宇宙を殺し、気配を断って、教皇宮を目指した。
教皇宮には、アテナとサガに加え、護衛役のアイオリアとアフロディーテもいた。
「カノンですか、よく戻りました。」
朗らかなアテナの労いに、カノンは頭を下げた。
アテナは聖域にいるときはいつもそうしているように、この日もゆったりしたドレープのドレスをまとっていた。手首には珍しくブレスレットをつけている。今生のアテナは、ファッションや流行を気にかけるなど、年頃の娘らしい一面もあり、カノンはそんなところを好ましく思っていた。
「あなたのことですから、聖闘士としての務めは果たしたことでしょう。あちらはどうでした?」
義務からではなく、好奇心からアテナが問いかけた。世俗社会では財閥の長として世界中を飛び回るアテナだが、あくまで舞台は上流階級だ。市井には疎かった。カノンは今回の任務地について情感たっぷりに話して聞かせ、箱入りのアテナを楽しませた後、これまでとは打って変わった固い表情で頭を垂れた。
「実はこのカノン、アテナに折り入ってお話したいことがあるのです。」
アテナの傍らに侍っていたアフロディーテは、険しい表情のカノンから、話の内容を察したらしい。アフロディーテには、ムウ同様、察しの良すぎるきらいがあった。
「私は席を外しましょう。アイオリア、お前もだ。」
対して、実直すぎるアイオリアは、いささか察しの悪い部分があった。
「だがしかし、俺には護衛が…。」
言葉を濁すアイオリアに、アフロディーテはわずかに口端を持ち上げると、小さく耳打ちした。
「それでは、何かありましたらお呼びください。」
アフロディーテは優美にお辞儀をして、教皇の間を辞退した。
だが、アイオリアはいくぶん不満そうな様子だ。まだ納得がいかないのだろう。眉間にしわを寄せ、しきりに首を捻っている。しかし、当のアテナが気にした様子もないので、カノンに一瞥向けた後、アイオリアも同僚に続いて退室した。
「それで、話とは何でしょう?」
「ミロのことなのです。」
「ミロの…?」
アテナは困惑した様子で、同じく戸惑った様子のサガに目配せした。
ミロと結婚したいというのであれば、アテナはカノンの決断に口を出すつもりなどない。むしろ、あの感動的な赦免の場面に立ち会った身としては、熱烈に祝福したいくらいだった。挙式にアテナ神殿を用いたいというサガの打診も、喜んで許可していたくらいなのだ。
しかし、カノンの口調は違う未来を示唆していた。
「確かに、あなたがミロの求愛から逃げ回っているという話は聞き及んでいます。でも、あなたもミロを愛しているのであれば、なにも問題はないのでは?」
「いえ、そこにこそ問題はあるのです。このカノン、掟によってミロを縛りつけるつもりはないのです。」
「ですが、結婚とはそういうものですよ。切欠がなんであれ、愛する人と結ばれるのであれば、関係はないのでは?それとも、そうするにはあなたのプライドが邪魔をしますか、カノン?」
アテナの問いかけを前に、カノンは言葉を躊躇った。しかし、ここまで来たのだ。おめおめ言わずに帰るなど出来るはずがなかった。
「アテナ、…どうか女聖闘士の仮面の掟を廃止していただけないでしょうか?」
カノンの懇願に、はっとアテナが息を飲んだ。カノンは瞑目した。
確かに、アテナが言うように、カノンはミロを深く愛していた。しかし、その愛はあまりに深すぎて、掟を盾に、ミロのためにならない婚姻を強要することがはばかれるほどだった。カノンは、ミロには愛するものと添い遂げて欲しかった。できうれば、それは己であって欲しいが、己でなくとも良かった。ミロが心から愛せ、幸せを共有できる相手であれば、自分でなくとも構わなかったのだ。
今回、中東に派遣され、そこに住む女性たちを見たことで、カノンの心は決まった。女聖闘士の戒律を撤廃してくれるよう、アテナに直訴するのだ。その場には、当事者であるミロがいない方が良い。
矜持の高いミロは、アテナの面前だからといってはばからず、侮辱されたと烈火のごとく怒るだろう。それこそ、殺されるかもしれない。
ミロに殺されることを厭うわけではない。むしろ、どうせ死ぬならば、あのとき与えられなかったアンタレスを欲しいと切実に願っている。
しかし、女々しいと笑われようと、愛すればこそ、ミロに嫌われるのだけは避けたかった。
「カノン、アテナに言葉が過ぎるぞ!戒律に口を出すなど、身の程を弁えよ!」
サガが眦を吊り上げて、弟の出過ぎた真似を叱責した。弟とミロを添わせたいので、必死である。それをアテナが厳めしい表情で制した。
「いえ、良いのです。サガ。」
「しかし…、」
アテナは有無を言わせぬ視線で黙らせると、カノンに微笑みかけた。
「それにカノン。あなたも顔を上げてください。」
『ミロ、いらっしゃい。この話はあなたも聞くべきです。』
アフロディーテがカノンの帰還を耳に入れたのだろう。廊下でカノンを待ち受けるミロへ念話で話しかけたアテナが、カノンへ手を差し伸べ、立ち上がらせた。
「アテナ、お呼びでしょうか。」
突然呼び出されたミロは、一体何事が進行中なのか判じかねているようだ。サガとカノンを交互に見やった後、儀礼を重んじて、アテナに頭を垂れた。珍しく休暇だったのか、黄金聖衣をまとわぬ姿で教皇の間を訪れる不敬に、いささか委縮しているようだ。もしかすると、カミュの帰還に合わせて、休暇を申請したのかもしれなかった。ちくりとカノンの胸を嫉妬が刺した。
アテナはそんなカノンとミロを柔らかな眼差しで見つめた。
「カノンからは、女聖闘士の仮面の掟を廃止するよう上申がありました。」
驚きに、ミロが眼を見張った。アテナは何事か言おうとするミロに優しく微笑みかけ、先ほどのサガ同様、黙りこませた。アテナは続けた。
「この戒律も、数千年のときを経て、本来の意図からずいぶん遠ざかってしまったようです。本来であれば、この戒律は、男性ばかりの場所で生きる女聖闘士を守るためのものでした。聖闘士は清廉なものこそ望ましいですが、ときには、無頼の輩もいることでしょう。そのようなものたちに力づくで凌辱されたときには命で購わせても構わないというアテナの気遣い、いわば、免罪符だったのです。そう、仮面こそは彼女たちが男の目から逃れ、己の身を守るための手段、貞操の象徴だったのです。」
アテナの声に苦渋が滲む。
「それが、いつの間にか逆手に取られ、愛を強要されるなど、本末転倒ではありませんか。その上、女性が目覚ましい進出を果たしている現代では、時代遅れの戒律と言わざるをえません。」
そこで、アテナはカノンへ愛らしく笑いかけた。年相応の、ロマンチックな恋愛に憧れる娘の、悪戯っぽい共犯者の笑みだった。
「カノン、あなたには苦労をかけましたね。」
カノンは感謝の意を示して、深く頭を垂れた。アテナにはどれだけ言葉を尽くそうとも、感謝しきれなかった。
それから、アテナはミロのもとへ歩み寄った。ミロはまだよく自体が呑み込めていないようだ。
呆気に取られ立ち尽くすミロの仮面を、アテナは無頓着に取り払った。柔らかな金色の巻き毛がこぼれ落ちて、ミロの華やかなかんばせを彩った。ミロが赤面した。
「ア、アテナ、何を…!」
動揺を露わにするミロへ、アテナが言う。
「ミロ、あなたは自由です。あなたが守るべき掟はもはやありません。あなたがカノンを選ぼうと、選ぶまいと、それはあなた自身の選択によるものであるべきです。」
アテナは慈愛に満ちた仕草でミロを抱き締めると、背後で絶句しているサガを振り仰いだ。アテナには、サガが立てていた幸せ家族計画がガラガラと崩れていく音が聞こえるようだった。アテナは小さく謝罪を呟いた。
「サガ、お触れを出して下さい。もはや、仮面をつける必要はありません。良い機会です。このような悪習は廃止してしまいましょう。」
アテナの命は絶対だ。サガは絶望に打ち震えながらも、膝を折って拝命した。アテナはそれを満足そうに見やってから、腕の中のミロへ密やかに耳打ちした。
「ミロ、あなたは本当に良いひとに巡り会いましたね。」
ミロはアテナへ戸惑い混じりに笑い返した。何と答えるべきなのか、わからなかった。
双児宮で本を読んでいたカノンは、ふと聞こえてきた物音に耳を澄ませた。私室への扉が開かれ、後ろ手に回された。カノンは寝転がっていたソファから上半身を起こし、訪問者を見つめた。
「何だ、ミロ。来ていたのか。何の用だ?」
カノンの問いかけに、ミロはいささか鼻白んだようだ。気勢を削がれた様子で言葉につまってから、カノンを睨みつけた。
カノンは心中嘆息した。まさか、あの件が、これほどミロを怒らせることになるとは。
実を言うと、先ほどからミロの小宇宙は感じていた。しかし、双児宮を通りすぎるのだと思っていたのである。カノンの英断から、2か月が経とうとしていた。その間、カノンがミロを目にした機会は両手の指で足りるほどだ。今回、ミロがカノンの許を訪れるなど、わかるはずもない。
「久しぶりだな。元気にしていたか?」
今度は、ミロも答える気になったようだ。珍しく着用している真紅のワンピースの襟元を直しながら、ちらりとカノンへ一瞥投げかけた。
「…まあまあだ。」
「そうか。ならば良かった。」
本心からの一言である。愛するミロが息災ならば、カノンは幸せだった。だが、ミロは機嫌を害したらしい。眉間にしわを寄せて、腕を組むとカノンを詰問した。
「言うことは、それだけか?」
せっかくの愛らしい恰好が台なしだ。カノンは困惑した。ミロはどうしたいのだろう。
最初は戸惑っていた女聖闘士たちも、今ではすっかり仮面のない生活に慣れたようだ。市井の女性たちのようにファッションを楽しめると喜んでいる。中には、魔鈴のように仮面に固執する女聖闘士もいたが、それはごく一握りの例外だった。
アテナの手前、そして、他の聖闘士の手本となるべき黄金聖闘士として、ミロも仮面の着用を止めた。そのせいで、これまでは熟練した聖闘士としてしか見られていなかったミロも、必然的に、女として見られるようになった。そのような意味で憧れている白銀聖闘士や青銅聖闘士も少なくないと聞く。カノンは気が気ではなかった。
ミロ自身も、仮面を取ったことで、一般女性と女聖闘士を隔てるものは少ないのだという事実に気づいたように思う。何とかしてミロとの仲を取り持とうと苦心するサガの情報によれば、衣服にも気を配るようになってきたらしい。
こうして関知できる限りでも、女性的というほどではないが、前より小宇宙が柔らかくなっていた。
「先に断っておくが、女聖闘士の仮面の件だったら、俺は謝るつもりはないぞ。」
ミロのためを思ってした行為だ。結果、ミロは求婚を拒まれたことを侮辱と受け止め、謝罪を要求しているのかもしれないが、カノンには謝る気など更々なかった。
むっとしたようにミロが言葉を返す。
「謝れとは言っていない。」
「ならば、他に言うべき言葉は見つからないな。」
ミロの目が怒気を孕んだ。いつもより光を集め、青く透き通る目の色に、カノンの胸は騒いだ。ミロにスカーレットニードルを打たれた日も、こんな色をしていた。天空の色だ。
苛立たしげにミロが頭を振った。
「もう良い。お前に言う気がないのであれば、俺から言う。」
ミロの右手が勢い良くソファの背もたれに置かれた。
カノンは目を瞬かせた。視界に入るミロの爪先には、マニキュアまで施してあった。どちらかというと、記憶の中のミロは、そういう面ではずぼらな印象だったのだが、この2か月でずいぶん様変わりしたようだ。
カノンを見下ろす形で、ミロが呻いた。
「この身は、アテナのものだ。お前の身体も魂も、アテナのものだとわかっている。」
怒気を孕んでいたはずの目は、羞恥と何かの強い感情に揺らぎ、濡れていた。カノンは呆気に取られて、本を取り落とした。カノンは馬鹿ではない。人心の機微にも敏い方だと自負している。カノンには、ミロが自分を欲しがっているように思えた。
一人の女として。
唇を噛み締めてから、ミロがカノンの耳元で囁いた。
「それでも、お前の心が欲しい。カノン、俺のものになれ。」
実に、悔しそうな声だった。あっさり身を引いたミロの腕を引き、カノンはいまだ夢見心地ではあったが、咄嗟に人の悪い笑みを浮かべた。条件反射である。それから、ゆっくり実感が胸中に広がって、どうしようもない幸福感に満たされた。やがて、カノンは破顔した。
「…なんだ、知らなかったのか?」
茶化すような口調が面白くないのだろう。噛みつこうとするミロを、カノンは触れるだけのキスで黙らせた。カノンは囁いた。
「お前が俺を免罪したあの日から、俺の心は、誰でもないお前のものだ。ミロ。」
もう疾うに知っているものだと思っていた。
「とっくにお前のものなんだよ。」
サガの勝ち誇るような顔が目に浮かぶようだ。カノンは笑いながら、赤らんだ頬をふてくされたように膨らませているミロの唇にキスを落とした。
初掲載 2012年11月10日