未題:1


 ふと熱を感じた。ほのかな熱だ。温かなそれに魅かれて瞼を開くと、光があった。鮮烈な光が。
 最初、カノンは何が起こっているのかわからなかった。身体が重く、手足は痺れていた。意識もあやふやだ。しだいに色彩を取り戻した目線の先には、重厚な石造りの天井があった。どうやら、どこかへ横たわっているらしい。カノンは上半身を起こすと、頭を振り、何があったのか思い出そうと努めた。ひどい頭痛がした。加えて、吐き気も。わけがわからなかった。
 カノンは混乱する頭を宥めすかして、辺りを見回した。こういうときこそ、努めて冷静に対処しなければいけない。恐怖に足をもつれさせれば、大きく顎を開けて待ち受けている死の口内へ真っ逆さまだ。経験上、カノンは生き残る術をよくわかっていた。
 混乱を抑え込んでしまえば、解決は早かった。
 ここは、双児宮だ。
 直感ではなく、洞察から、カノンはそう判断した。
 どこの宮も、壁や天井など大差ない造りだろう。しかし、外界を知るためにむさぼり読んだたくさんの書物や、子ども用の寝台が姿を消していていても、間違えるはずがない。いくども、図鑑を片手に、実際に目にすることのない空を思い描いては、ありもしない星へ手を伸べたからこそ覚えていた。幼少期を「存在しないもの」として過ごした、あの場所だった。
 カノンはもの憂げに顔を曇らせると、壁へ手を滑らせた。もう、怒りはない。あるのは、哀しみだけだ。
 やがて、記憶より先に、ゆっくりと実感が押し寄せてきた。
 帰って来たのだ、現世に。
 この、うつくしくもみにくい世界に。
 生と死の境に在ったカノンは、アテナが現世へ生還すると同時に、そのたおやかな手で引き上げられ、帰って来たのだった。アテナは、冥界の混乱に紛れ、先の謀反で落命したサガやカミュたちすらも地上へ連れ戻していた。自分のために惑わせ、苦しめた聖域の子らに、再び生を謳歌させてやりたいというアテナなりの報いに違いない。
 それらの事実を、カノンは本能で解っていた。否、正確を期すならば、アテナの慈悲深い小宇宙から、というべきか。
 カノンは面を上げた。
 いまだ頭は痛んでいた。再び血の巡り始めた頭が酸素に馴染むには、もう少し時間がかかるだろう。カノンは意に介さず、教皇宮を目指した。今ばかりは、アテナのことも、サガのことも、どうでも良かった。どうせ彼らは無事で、大勢の信奉者たちに囲まれているのだ。ならば、改心し、赦された身とはいえ、疎外感の燻ぶるカノンがわざわざ心を配らねばならぬ必然は感じられなかった。
 言い訳にすぎない台詞でごまかしながら、カノンは立ち上がった。
 「ミロ、」
 唇から自然とこぼれ落ちた言葉に、カノンは気付かなかった。
 カノンは一路、階上を目指した。
 はじめて目にしたときから、うつくしい女だとは思っていた。見目が、ではない。見目ではなく、凛としたさまがうつくしいと思った。清らかで裏表のない小宇宙は、アテナの好むところであろう。
 安堵して踏み出した足裏に地面がなかったときのように、がくんと、カノンは驚愕しながら墜ちていった。その先には、見たこともないワンダーワールドが広がっていた。
 今まで自分は生きていなかったのだと思い知らせる鮮烈な感情。あれほどみにくくつまらないと思い込んでいた世界は、裏を返せば、うつくしく驚くべきもので溢れかえっていた。
 鳥の音。
 潮風。
 陽の光。
 カノンは目を眇め、自然と耳に入り、目を愉しませるそれらに口端を綻ばせた。
 なぜ、気づかなかったのだろう。なぜ、気づこうとしなかったのだろう。
 他愛ないものが、これほどまでにいとおしい。
 命を賭して守った平和だからか?
 違う。ミロがいるからだ。
 誰かのスペアとしてしか存在を許されなかったカノンにとって、己の存在を許容してくれたミロは神にも等しい。その愛を勝ち取るためならば、カノンは喜んで膝を折るつもりだった。
 息を切らして辿り着いた天蠍宮には、宮の主の小宇宙しか感じられなかった。カノンは深呼吸をしてはやる気持ちを落ち着かせてから、想い人の眠る場所へ足を踏み入れた。
 そこは、宮の一角に設けられた広場だった。中央に陣取る樹には、ミロの名の由来であるまっかな林檎が鈴なりに生っていた。カノンがかつて過ごした場所で目覚めたように、それぞれの思い入れのある場所で目覚める趣向らしい。
 カノンは小さく唇に笑みを湛えながら、樹に背を預けて眠る蠍へ近付いた。
 アテナの勝利をアポロンが祝福しているのだろう。強い日差しのせいで、ミロはほとんど影に呑まれていた。それでも、うっすら浮かび上がるかんばせから、ミロが仮面をつけていないことは明らかだった。成熟した女とは言い難い、まろみを帯びた頬。癇の強さを窺わせる、はっきりした目鼻立ち。わずかに開かれた唇は、蘇生直後のためか、血色の悪さが目立った。
 カノンはどうすべきか逡巡した。ミロを起こすのは忍びないが、だからといって、寝心地の良いベッドへ移すため触れるのはためらわれた。カノンはミロの意思を尊重したかった。
 ふるりと、ミロの長い睫毛が震えた。カノンの小宇宙に触発されたらしい。ミロは焦点の定まらない視線で、カノンを見つめた。まだ、魂が深い眠りから覚めないのだろう。カノンとて、正気に返るまで時間がかかったのだ。
 「ミロ、大丈夫か?」
 カノンは真正面からミロの顔を覗き込んだ。ミロの目は、あれほど希った空の色をしていた。実際に目にすることはあるまいと絶望に暮れた、希望の色をしていた。ありもしないものと諦めつつ、手を伸べた夢の青さだった。
 いとおしい。
 胸をつまらせるカノンの眼前で、二度、ミロの睫毛がまたたいた。
 「カノン…?」
 カノンを呼ぶ声は、あどけない子どものごとく頼りない。
 「ミロ。」
 どうすれば伝わるのだろう、このミロに抱く恋慕と感謝の念は。
 「ミロ、…ありがとう。」
 カノンはミロの手をすくい取って、本人にとっては笑みのつもりのひしゃげた表情を浮かべた。











初掲載 2012年11月7日