>前設定(劇場版ベース)
アルカトラズ刑務所へシェリルを救いに向かった一行。
シェリルを脱獄させることに成功させるが、シェリルはV型感染症に蝕まれ、自分で歩くこともままならないほど弱っていた。
シェリルの衰弱を心配しながら、拠点へ向かうアルトとランカ。
その途中、指名手配犯のブレラが一行の前に姿を現す。
ブレラは実妹であるランカを救いだしに来たといい、手を差し伸べる。だが、ブレラの背後の思惑を知るシェリルは、ブレラには人間的な感情がもう残っておらず、ランカを連れ去りに来た目的は、V型感染症に蝕まれた自分に抗体を持つランカの臓器を移植して生きながらえさせるためだ、と、ブレラを告発する。
ランカを無理矢理連れ出そうとするブレラとの間に、戦闘勃発。
戦闘によりドームに穴が空き、外へ吸い出されそうになるランカとシェリル。
アルトは二人を救いだそうとするが、失敗する。V型感染症のためもう自らの寿命が長くないことを承知しているシェリルは、自らの命と引き換えに、ランカをアルトの方へ押しやり助ける。
(ここまで劇場版)
その直後、追手を振り切って表れたブレラによって、ランカは連れ攫われる。自らの無力を嘆くアルト。
ミハエルはそんなアルトを殴りつけ、人々をバジュラの脅威から守るため、精いっぱいの努力をしろと叱りつける。
アルトは、フロンティア船団を、そして、ランカを救いだすため、飛ぶことを決意する。
SMSは最後の戦いに出ることとなる。
連れ攫われたランカは、洗脳され、バジュラを操るためだけに歌わされることになる。
銀河に大きく映し出されたランカの姿。
ランカの姿を中継する技術者に、グレイスはなにがどうなっているのか質問を投げかけながら、リモートコントロールした機械によって殺害。ギャラクシーに命じられるまま、脱出を決意する。
アイくんによって、ランカの兄オズマともども命を救われたシェリル。シェリルはランカの姿に驚愕を覚えるが、自分が死ねばランカが次の歌姫として利用されることは明白だったと気付く。もともとは、シェリルも、ランカが見つかるまでの繋ぎの存在。
ランカを利用するギャラクシーに激昂するオズマを宥めながら、シェリルは立ち上がる。
銃撃。
そこには、グレイスの姿がある。銃撃によって最期に自由を取り戻したグレイスは、シェリルにマイクを与える。
「歌って、シェリル。」
シェリルの耳には、感情を伝えるフォールドクォーツがある。シェリルはグレイスの最期の言葉に頷くと、マイクを手に立ちあがる。
絶望に暮れる世界で、シェリルの歌声が響き渡る。衰弱した体のせいで最初は小さかった声は、やがて、大きくなる。命を削って歌うシェリルをオズマは気遣うが、シェリルは強がって言う。
「私を誰だと思ってるの?天下のシェリル・ノームなのよ!」
シェリルの歌声を聞きつけたアルトが飛んでくる。シェリルはステージを指さし、あそこへ連れていくよう頼む。
シェリルがV型感染に冒されており、歌えばますます死期が近づくことを知っているために、まようそぶりを見せるアルト。そんなアルトにシェリルは嘆願する。
死ぬならば、舞台の上で。
シェリルの言葉に胸を打たれたアルトは、シェリルをステージへ連れていく。
圧倒的な力を持つランカを前に、シェリルは気圧されそうになりながらも歌い続ける。ランカの潜在能力が高いことは承知していたが、リミッターが外れた今、まさかここまでだとは。
だが、これは、強制的にリミッターが外されているせいだ。このままでは、ランカの身体ももたない。
必死に声を振り絞るシェリル。やがて、ランカの心にシェリルの歌は届き、ランカは自由を取り戻し、アルトに救出される。
ランカの歌声にノイズの走るブレラの回線。ブレラの脳裏に、忘れていたランカと過ごした日々が横切る。ブレラは自らギャラクシーに埋め込まれたインプラント回線を引き抜くと、ギャラクシーの黒幕を倒す。
バジュラは壊滅させられようとしている。アルトは決死の覚悟でバジュラクイーンの元へ、自分たちは敵ではないのだと訴えに行く。
クイーンはアルトの言葉を受け入れ、バジュラ本星を後に、最後の瞬間、ランカではなくシェリルを選び取ったアルトともども姿を消す。
シェリルは悲鳴を上げて倒れ、そのまま、意識不明の昏睡状態へ陥る。ランカは月に1回、シェリルのために、抗体を持つ自分の血を輸血する。それ以上は、ランカの身体の負担になる。
シェリルはコールドスリープされた状態で、V型感染症への抗体が出来るか、治療法が見つかるまで、眠ることになる。
>本編
マクロス・フロンティアの天気はランダムにセットされている。あくまでも自然に近付けるためだ。
この日、天気は快晴だった。その発見から、ランカとシェリルが歴史に名を残すことになったバジュラ本星は、資源保護のため、あえて開発されないまま、留め置かれていた。フロンティア船団移民の居住のメインは、いまだ艦船だ。
病院の前で車を降りたランカは、マネージャーに1時間後に迎えに来るよう告げると、ゆっくり歩いて行った。受付係が軽くお辞儀をして挨拶してくるのに、ランカは手を振って返す。やがてランカは402号室の前で足を止めた。見知った人物に出会ったからだ。立ち止った拍子に、ランカの持つカスミソウの花束がふわりと優しく揺れた。
「ブレラさん、こんにちわ。今日もお見舞いですか?」
「…。」
口を噤むブレラに、ランカは寂しそうに微笑んだ。
ギャラクシー船団との決戦の日、ブレラは奇跡的に命を取り留めていた。しかし、身体の大半を損傷したためか、それまでの記憶をすっかり失っていた。最初から本当にあったのか判然としないランカとの記憶だけでなく、シェリルと過ごした日々も、全てだ。担当医の話では、インプラント化したサイボーグが記憶喪失に陥る可能性は低いので、自責の念に駆られて自ら記憶を削除した可能性が高く、その場合、デバックが残っているとは考えられないので、ブレラの記憶が復旧する見込みは限りなく絶望的だった。
現在、身寄りのないブレラはSMSに所属している。記憶がないとはいえ、機密情報に接触したブレラを政府が手放したがらなかったのが理由の一つであり、もう一つには、面倒見の良いランカの兄、オズマがランカの傍にいさせてやりたいと願ったためだった。
ブレラが時折、こうしてシェリルの様子を見に来ていることを、ランカは知っていた。ランカと別れた後、ブレラはシェリルと共にグレイスに育てられたそうなので、シェリルに対して何か思うところがあるのかもしれなかった。
ランカはブレラが立ち去るまでの間に、二三、他愛ない言葉を交わしてから、病室に入った。前回持ってきた花は枯れたのだろう。ランカは空っぽの花瓶にカスミソウの花を飾ってから、眠るシェリルに眼差しを注いだ。
「シェリルさん、もうあれから半年が経つんです。」
V型感染症に対する治療が確立しない今、シェリルが快癒する見込みはほとんどなかった。月に1度、抗体を持つランカがシェリルに血を投与しているが、初めての試みなので、成果が伴うのか判然としなかった。ランカの自己満足で終わる可能性も高い。バジュラクイーンと共に姿を消したアルトの行方は今もなおもわからず、ブレラの記憶が戻る気配もない。
自費でS.M.Sを雇い、フロンティア船団の窮地を救ったシェリルの活躍は、今や、書籍化のみならず映画化されていた。命を賭けて歌った姿がみなの心を打ったのだ。しかし、街が復興し、戦禍が消えつつある現在、人々の記憶は風化していた。今も街にはシェリルの歌声が溢れているが、人々がシェリル自身を思い返すことはない。
ランカは眠るシェリルのカプセルに取りすがり、ぎゅっと拳を握り締めた。
「シェリルさん、はやく、戻ってきてください。」
ランカの声は震えていた。しかし、やがて、ランカは屹然と顔を上げると、
「こんなことじゃ、アルトくんにも笑われちゃいますよね。」
眦を拭い、立ち上がった。ランカの声には強がりが見えていたが、指摘するものは誰もいなかった。
「それじゃあ、シェリルさん。来月、また来ます。今日はコンサートなんです。今日も、シェリルさんには一番良い席を取っておきますね。」
物言わないシェリルの代わりに、ふわりと、病室の白いカーテンが風で広がった。ランカはしばらくしてから、瞼を落とし、病室を出た。その視線は前だけを見つめていた。
その日、コンサートを終え、控室で休憩中のランカの元にオズマから一報が入った。ランカは騒々しく鳴り響く携帯を止めると、慌てて画面を開いた。メールだった。
「お兄ちゃん?何だろう。」
椅子に腰かけたランカは汗を拭いながら、文面に目を通し、驚きに目を見張った。そこには、アルトが見つかったと記載されていた。だから、コンサートが終わり次第、早く見舞いに来い、とも。妹思いのオズマは、ランカのアルトに対する恋心を許してはいないが、認めてはいるのだ。メールには末尾に病院の場所が記されていた。シェリルが長期入院している病院とは別の、軍関係者が利用する指定病院だった。
ランカは取るものも取らず立ち上がり、駈け出した。控室入口で行き違い、驚いたナナセが声をかけたが、興奮したランカの耳に入ることはなかった。ランカはそのままの勢いで走り続けた。
「アルトくんが帰って来た…。」
携帯を握り締めたランカは、タクシーを呼ぶことなど頭にないまま、暗い路地をステージ衣装で駆け抜けた。驚いたファンたちが振り向いても、ランカは気にしなかった。
「アルトくんが、帰って来たんだ!」
全力疾走するランカの声は、弾んでいた。同時に、涙ぐんでいた。
病院に辿り着いたランカは、受付で待ち受けていたミハエルと会い、アルトの病室へと向かった。ステージ衣装のランカは、夜道でもさぞ目立ったことだろう。ミハエルはよほど急いだんだな、と内心苦笑したが、アルトが戻って来て嬉しい気持ちは同じだ。そのため、あえて軽口を叩かず、急かすランカに苦笑を浮かべて、病室の扉を開けた。
病室に駆け込んだランカは、衝動のまま、ベッドに横たわったアルトを抱き締めて泣きじゃくった。
「おかえりなさい、アルトくん。」
ランカの髪を梳きながら、アルトが苦笑した。
「ただいま、ランカ。待たせて悪かったな。」
「ううん、ぜんぜん悪くなんてない!帰って来てくれて、本当に、良かった…!」
シェリルのことを聞き及んでいるのか、アルトの眼には寂寥が浮かんでいた。ランカはそれに気づくが、言及せず、涙をこぼしたまま、アルトに満面の笑みを見せた。大事な人が、一人、戻って来てくれただけでも、嬉しかったから。ランカの笑顔につられて、アルトの顔にも笑みがこぼれた。
その頃、ブレラはシェリルの病室にいた。
ブレラは、見知らぬ隊員の帰還を喜ぶ気にはなれなかったし、ましてや見舞いの必要性がまったく感じられなかった。アルトの帰還により、さして緊急ではない任務が延期になると、ブレラの足は自然とシェリルの元に向かっていた。
夜の病室には、シェリルの生命を維持する呼吸器と無機質な機械の音だけが響いていた。点滅する赤色の光が、眠るシェリルの顔を照らした。
サイボーグ特有の冷たさを孕んだ無感情な眼差しからは、ブレラが何を考えているのか、伺い知ることはできなかったが、その奥には密やかな熱があった。身内から焼きつくす、蠍(アンタレス)の毒だ。ブレラ自身、シェリルの何がこんなにも心さざめかせるか、わからなかった。そもそも、肉体のほとんどが機械で構成され、脳も原形を留めていない機装強化兵に、心があるのかどうかすら、ブレラには判然としなかった。確かに、ミハエルが嘆息するように、シェリルは美しい女だ。だが、外見の美醜など、ブレラにとっては何の意味も持たなかった。
消去された記憶が、こんな行動に駆らせるのか。
わからない。
思い出せない。
ただ、街中にあふれたシェリルの歌声が、ブレラの中の何かを刺激した。
ブレラは微かに胸を上下させて生を繋いでいるシェリルのカプセル表面を、思いの外優しい手つきで撫でた。
「…早く目覚めろ、シェリル・ノーム。そして、お前の歌を聞かせろ。」
ブレラには、自分の声が優しさに満ちている自覚などなかった。
季節は巡り、シェリルが眠りに就いてから幾度目かの夏が来た。
街にはシェリルの曲、ギラギラサマーが流れていたが、いわゆる、懐メロ扱いだった。今では、シェリルの名はテレビではなく、マクロス・フロンティア船団に居住可能なバジュラ本星をもたらした偉人として、歴史の教科書で見るのが一般的となってしまっている。
この日、ランカはヒマワリの花を手に、シェリルの病室を訪れた。
今日も変わらず、シェリルが目覚める気配はない。ランカはヒマワリの花を花瓶に添えようとして、ふと、先客が飾っていったらしい大輪のバラに微笑んだ。ブレラの仕業だろう。この前は、忘れて行ったのか、何気なく子猫の写真集が置かれていたので、ランカは声を出して笑ってしまった。
今もって、ランカにはブレラが何を考えているのかわからないところがあった。実の兄妹だというのに、寂しいことだと思う。しかし、アルトやオズマが諭すように、それも仕方のないことなのかもしれなかった。ランカとブレラは、あまりにも長い時間を離れて暮らしすぎた。それは、互いの生活の基盤を違え、価値観がすれ違うには十分すぎるほどの時間だった。
看護師に新しい花瓶を届けてもらおうか悩むランカの眼前で、ふるりとシェリルのまつ毛が震えた。気のせい、だろうか。戸惑い、シェリルを凝視するランカの目前で、シェリルの瞼がゆっくり開かれた。
「ここは…?それに、わたし…。」
シェリルの目が彷徨い、大きく見開いた目に涙を浮かべ、無言で立ち尽くしているランカを捉えた。カプセルの内側から、手を伸べて、シェリルが笑った。
「おはよう、ランカ…ちゃん、なのかしら?」
困惑した様子で、シェリルが小さく首を傾げた。ランカはシェリルのカプセルに取りすがって、わっと泣き出した。
「異常はないようですね。」
担当医の説明に、シェリルは採血された左腕を右腕で抱え込みながら、頷いた。
コールドスリープから目覚めたシェリルは、芸能人用の一等治療室に移された。白を基調に統一された無機質な部屋だった。ランカに依頼されたオズマが全て手配したらしい。そのオズマも、S.M.Sの仕事で籍を外している。
今、シェリルの傍らには、シェリルのために無理矢理スケジュールを開けたランカの姿があった。アルトやブレラは任務のため、フロンティアを出払っているらしい。シェリルはランカがブレラのことを言及した事実に、内心、少しだけ驚いた。
医者が立ち去ると、ランカは満面の笑みを浮かべて、シェリルに向き直った。
「良かったですね、シェリルさん。」
「ええ、ありがとう。ランカちゃん。それもこれも全部、あなたのおかげよ。」
「いいえ、そんなことないんです!だって、私…、」
にっこり微笑みかけるシェリルに照れたように両手を振ってみせたあと、ランカが消え入りがちな声で言った。
「だって、私、シェリルさんのために何も出来なかった。」
ランカはぎゅっとスカートの裾を握り締めた。シェリルの目は目敏く、その指にリングが輝いている事実を見て取った。嫌な予感がした。ランカの仕草は、シェリルが知っていた少女時代と同じだが、外見は大きく変わっていた。今のランカに、少女時代の面影はない。立派な大人だった。
あれからどれくらいの月日が流れたのだろう。軽く見積もっても、2・3年。もしかすると、5年ではきかないのかもしれない。シェリルは不安に駆られながらも、安堵させるため、ランカに笑いかけた。
「そんなことないわ。あなたは精一杯のことをしてくれたじゃない。」
「でも私、シェリルさんがいるのに、アルトくんを…。」
どうして、という想いよりも、やっぱり、という諦めの方が強かった。あの日、アルトはランカではなく、シェリルを選び取った。しかし、それは数年前の話だ。アルトに、回復する見込みのないシェリルを待つ義務はない。待ってくれというのも酷な話だ。それがわかればこそ、シェリルは精一杯笑顔を浮かべた。弱みを見せない、シェリル・ノームとしての強がりの笑みだった。
「良いのよ。」
「でも、」
「アルトが選んだ子があなたで、良かったわ。…ありがとう、ランカちゃん。アルトを愛してくれて。」
「シェリルさん…!」
シェリルは泣き出したランカの頭を抱き、背中を撫でてやりながら、寂しげな微笑を浮かべた。内心ではやはり、アルトに待っていてもらいたかった。それは、儚い望みとわかってはいたけれど。
翌週、シェリルは退院することとなった。
一週間、シェリルの元に見舞いが絶えたことはなかった。ミハエルやクラン、アルトも顔を見せた。気後れしたアルトを無理矢理ミハエルが連れて来たのだ。口に出さなかったが、ランカと他愛ない会話をするアルトの姿に、シェリルの胸は痛んだ。S.M.Sのみんなも、かわるがわる、シェリルの病室にやって来た。そこにブレラの姿は見えなかったが、シェリルは全く不思議に思わなかった。
病院を抜け出たシェリルは、身一つで、オズマの待つ車へ乗り込んだ。入院に際して持ち込んだ私物がないので、憂鬱な心とは裏腹に、気楽な退院だった。
入院中、オズマから聞いた話では、シェリルはS.M.Sとランカに対して、莫大な借金を背負いこんでいるらしい。前者は主にバジュラとの戦闘での経費だが、後者は治療費だった。ランカは、せめてもの贖罪に、と、いつ目覚めるともわからないシェリルのコールドスリープ費用を負担していたのだ。
「あんたにはきっちり働いて返してもらわないとな。」
運転しながら、茶化してオズマが言った。後部座席で変化した街並みを眺めていたシェリルは、曖昧にオズマへ微笑み返した。S.M.Sを雇うとき、シェリルはブラックカードでも雇用費用が足りなければ、次のアルバムの印税も全部注ぎこんでやっても良い、と確約していた。それは後に、グレイスによって正式に書面化されたはずだ。
だが、4年もの月日が流れ、過去の人となった今、シェリルにそれだけ稼ぐ力があるのかは不明だ。
「ずいぶん、楽観的なのね?」
「ああ。俺は、シェリル・ノームの底力を信じてるからな。」
「何よ、言ってくれるじゃない。」
「俺だけじゃない。ランカも、アルトも…お前のことを知っているやつらはみんなお前の帰りを待っていた。」
「…。」
前方を見据えたまま、言い諭すオズマに、シェリルは唇を噛み締めた。シェリルは自分の実力を蔑みはしないが、過信しすぎたりもしない。あのときは、グレイスの助力があった。ギャラクシーの圧力があった。創造された歌姫は、成功するべくして成功したのだ。頼るべきものが何もない、現在とは違う。
しかし、怖気づくのはシェリルの柄ではない。シェリルは己を奮い立たせる意味も込めて、かつての口癖を声に出してみた。
「わたしを誰だと思ってるの。」
「銀河の妖精、シェリル・ノームだろう。今じゃ、子どもでも知ってる。歴史の偉人だ。」
即答だった。シェリルはそれには答えず、黙りこむと、再び車窓を見つめた。
これからどうなっていくのかはわからない。それでも、どうにかなるだろう。立ち止まるなんて、許されるはずがない。
そう、自分は、銀河の妖精、シェリル・ノームなのだから。
不安に駆られてすっかり忘れていた。諭されるまでもない、明白な事実だった。
翌月、シェリルのプライベートライブが開かれた。世間が現実の「シェリル・ノーム」を忘れていることもあり、ごく小さな規模だった。衣装も、銀河を席巻していた頃に比べれば、控えめだ。コストダウンしたのだから、仕方がない話ではある。
来週からは、どさ回りの営業活動が入っていた。依頼主の要望は、ファラオを模した扇情的なコスチュームらしい。銀河の妖精がカジノで歌わなければならないのかと思うと、シェリルの顔は羞恥に赤らんだ。しかし、それも、再びスターダムに上り詰めるためだとシェリルは自分に言い聞かせた。借金もある。シェリルは二の足を踏むわけにはいかなかった。
曲と曲の間の休憩時間に、舞台裏で、シェリルはミネラルウォーターで咽喉を潤しながら、ちらりとブレラを見やった。
数日前から護衛役として、シェリルの元には、S.M.Sからブレラが派遣されていた。オズマは、借金を残してシェリルが逃げ出したら困るからだと言っていたが、本当のところは、長年伏せっていたシェリルの身を案じているのだ。ランカから強くせがまれたのかもしれない。
シェリルはミネラルウォーターのキャップを閉めると、テーブルの上に置き、ブレラを真正面から見つめた。
「…記憶がないっていうのは本当なの?」
「本当だ。」
シェリルは信じがたく、眉根を寄せた。
すべてが変わった世界で、ブレラだけは、シェリルが知っていた頃と変わったところがなかった。無感情な表情も、硬質な声も、癖も、外見年齢まで、すべてが同じだった。機装強化兵のブレラが、肉体を意図的に操作できることは、シェリルも理解している。しかし、なぜ、ブレラが肉体の成長を止めているのか、見当もつかないからこそ、シェリルには、ブレラの記憶がないという話が信じられなかった。実際、直立不動で護衛にあたる姿は、シェリルが知る頃とまったく変わりない。
「ねえ、少しくらい覚えてたりしないわけ?」
自然、縋るような声になったことに、シェリルはプライドを傷つけられた。
「なぜ、そのようなことを訊く。」
さすがに訝ったブレラが問いかけてくるので、いたたまれなくなったシェリルは言葉を濁した。
「別に…。」
本当に、ブレラは覚えていないのだ。それがシェリルには寂しく感じられ、椅子の上で膝を抱え込んだ。
当時は、シェリルもブレラも、ギャラクシーの操り人形だった。一般には幼馴染と呼ぶべき立ち位置なのだろうが、フェアリー9、アンタレス1、と、コードネームで呼び合う無機的な間柄だった。この関係にひとたび感情を持ち込めば、自分たちが辛くなるだけだと、シェリルにはわかっていた。互いに、操り人形のまま死ぬのだと思っていた。それで、良いとも。
それが今、こうして互いに生を存えているのは、僥倖としか言いようがなかった。それはわかる。しかし、互いに生きながらえたからこそ、欲が出た。これまでは存在することすら認識していなかった浅ましい、本能的な欲だった。
もの憂げに床を見つめたシェリルは、やがて、唇を開いた。
「ブレラ、来て。」
「用件ならばここからでも聞こえ」
「良いから、早く!」
シェリルにどやしつけられたブレラは、小さな間を挟んでから、シェリルの元へ向かった。シェリルはじっとブレラの顔を睨みつけていたが、急に、ブレラの制服の首元を引っ張った。シェリルの唇がブレラのそれに押しつけられた。表面が合わされるだけの、ままごとのようなキスだった。
シェリルははじまり同様突然唇を離すと、ブレラのグロスで光沢を帯びた唇を見てから、忌々しそうにブレラを睨んだ。
「…あんた、こういうときも仏頂面なのね。少しは笑ったらどうなの?」
咎めるように、シェリルが言う。急にキスされた挙げ句文句を言われたブレラは、釈然とせず、不満そうにそっぽを向いているシェリルに問いかけた。
「それは命令か?」
シェリルは脱力し、大きく溜め息をこぼした。もっとも、ブレラ相手にロマンチックな空気を期待した自分が馬鹿なのだという自覚はあった。
「…そんなところも変わらないのね。退屈な男。」
シェリルは返事を待っているブレラを意に介した様子もなく、椅子から立ち上がった。
「さ、遊びはお終い!ステージに戻らなくちゃ!」
すっかり意識が切り替わったのか、シェリルの目はひたとステージを見つめている。しかし、説明を受けないことには、ブレラも納得がいかない。ブレラは今にもステージに向かおうとするシェリルの手を引き、真意を問い質した。
「まだ回答をもらっていない。」
「…自分で考えなさい。」
シェリルはブレラの手を振りほどくと、ステージへ駈け出した。訊かれても困る。シェリル自身、どうしてあんなことをしたのかわからないのだ。
可能性のある理由なら、沢山挙げられた。4年という月日を忘れたかったからかもしれない。アルトのことを忘れたかったかもしれない。あるいは、銀河の妖精らしい気紛れかもしれなかった。だが、全て、可能性の話だ。真相はわからない。
ブレラは考え込むようにシェリルの手を掴んでいた手を見つめてから、やがて下ろすと、ステージの上で輝くシェリルを見つめた。駆け去るシェリルの眦は赤く染まっていた。心拍数も上がっているようだ。アドレナリンの分泌も確認。それは、自分も同じだった。
ブレラはその事実をどう判断して良いものか、わからなかった。
借金を返すため、シェリルは奮闘した。最初は小さなステージしか借りることが出来なかったが、次第に規模は大きくなり、2か月目にしてドームを借りることに成功した。銀河の妖精の復活コンサートだ。
コンサートに備えて、シェリルは数曲、新曲を書きおろしていた。だが、アルカトラズ刑務所で覚えたような、魂の叫びから来る歌ではない。本心では、シェリルは納得できていなかった。しかし、新曲がなくては、話題性に乏しい。ようやく波に乗り始めた今、新曲に納得がいかないからといって、コンサートを延期するのもそれは馬鹿げていると、シェリルも理解していた。折角のチャンスをふいになんて、まぬけのすることだ。
本来であれば、銀河の妖精が復活するのに、これほど時間もかからなかっただろう。腕のあるプロデューサーかマネージャーを雇い入れれば、歴史の偉人として名を残すシェリル・ノームの復活は瞬く間に知れ渡り、シェリルは再びスターダムを駆け抜けたに違いない。
だが、シェリルは断固としてマネージャーを雇い入れることを拒んだ。シェリルのマネージャーは、シェリルのすべてを理解してくれたグレイスだけで十分だ。他のマネージャーなんて、邪魔なだけだった。デビュー当時、大勢の「有名」プロデューサーに口出しされた過去から、シェリルはあくまで自分でプロデュースすることに拘った。
秋に差し掛かり、日差しが柔らかくなっていた。フロンティアは、基本的に地球の四季を模して気候がプログラミングされていることもあり、街路樹のイチョウは黄色く紅葉していた。
この日、シェリルは、正体を隠すため、薄桃色のワンピースに、目深にかぶった帽子、サングラス姿で久しぶりのオフを堪能していた。その後ろには、付き人のようにブレラを従えている。任務があれば、ブレラはSMSとして駆り出されることもあったが、今では、ほとんどシェリルの専用ボディーガードとなっていた。
内心、シェリルは命令を下す立場にあるオズマの作戦かと勘繰ったが、ランカに探りを入れてみたところでは、そういうわけでもないらしい。どちらかというと、オズマは、過去のしがらみを思い起こさせるものをシェリルに近づけないようにしている節があった。それは、オズマなりの優しさだろう。
しかし、そうすると、どういう理由でブレラがシェリルの専属と化しているのか。シェリルにはわからなかった。
コンサート会場付近の広場には、居住区のアイランド2へ向かう路線バスがある。シェリルは路線バスの存在に気づくと、ふとサングラスを下げ、にんまり微笑んだ。
「ブレラ、行くわよ。」
シェリルの声には、一時期のような気後れはない。さも当然のように呼びかけるシェリルに、ブレラは顔をしかめた。
「どこに行くつもりだ。」
「環境船よ。たまにはそういうのも良いでしょ?」
シェリルの我が儘に、ブレラが沈黙した。不満から、ではない。ブレラが護衛任務に支障がないか判断し、ルートを検索しているときの沈黙だ。それがわかっているからこそ気にすることはないと判断したシェリルは、ブレラの腕を取ると胸に押しつけ、きっぱり言い放った。
「良いから、ほら!」
路線バスに乗り込み、車窓の風景を楽しむ。早々に座席に座り込んだシェリルと異なり、何事があっても言いように、ブレラは立っていた。シェリルはそんなブレラにちらりと視線を向けてから、物思う様子で頬杖をついた。
環境船へ向かう路線は、次第に人気がなくなっていく。
目的の自然保護区に着いたとき、路線バスに乗っていたのは、シェリルとブレラだけだった。シェリルはブレラに運賃の支払いを任せると、野原に向かって颯爽と駈け出した。
野原の草をさざめかせる秋風は、いずれ来る冬の冷たさを感じさせた。久しぶりに、シェリルは自分が自由だと思えた。借金も、名声も、過去も、関係ない。このときのシェリルは、すべてのしがらみから解き放たれていた。シェリルは無邪気に笑い声をあげながら、両手を広げて、くるりくるり回った。
「転ぶぞ。」
ようやく追いついたブレラの忠告も、シェリルはお構いなしだ。
「馬鹿ね、そんなへましないわよ。」
シェリルはけらけら笑いながら回り続けていたが、なだらかな丘陵の段差に躓いた。シェリルは悲鳴を上げると、地面との激突に身構えた。その身体を、ブレラが抱きとめた。
「だから言っただろう。」
平然と言い放つブレラに、シェリルはわずかに遅れてから、頬を赤らめてブレラの手を振り払い立ち上がった。
「別に、あんたの手を借りなくたって、大丈夫だったわよ。」
シェリルの言いように、ブレラは黙りこんだ。だが、その沈黙こそが、それみたことかと言っているようでシェリルは面白くない。シェリルはブレラを睨みつけてから、猛然と歩き出した。向かったのは、かつてアルトと過ごした湖の畔だ。
4年の月日がたってなお、ここは変わったようには見えなかった。湖には、ゼントラーディに飼育されている牛がいた。シェリルはつば広の帽子が飛ばないよう抑えつけながら、小さく嘆息した。
シェリルには、アルトとここを訪れた日が、まるで昨日の出来事のように思い返せた。きっと、あのとき、シェリルはアルトへの恋に落ちたのだ。
しかし、現実には、あれから4年もの月日が流れていた。
口を噤み、座り込んだシェリルの隣に、ブレラが立った。「銀河の妖精シェリル・ノーム」でいることに不慣れだった頃も、ブレラは、グレイスのように労いの言葉をかけるでもなく、ただ黙って傍にいてくれた。それだけで、シェリルは安堵を覚えることができた。その安らぎを感じられなくなったのは、ブレラの機装化が進み、ギャラクシーによって人格を剥奪されたからだ。
それから、シェリルは孤独になった。周囲に頼らず、独りで戦わなければならなかった。人々は躍進するシェリルを孤高と呼んだが、実態は、そんな耳触りのよいものではなかった。
感傷に駆られたシェリルは、そっと囁いた。
「どうして、ブレラは私の傍にいてくれるの?」
オズマは、シェリルに過去を忘れさせようとしてくれている。にもかかわらず、ブレラがシェリルの護衛役を任されているのは、ブレラの意思だと思われた。
今のシェリルは、ブレラの過去の記憶がないことも、罪の意識に駆られて記憶(データ)をデリートしたのだとするならば、記憶の復元が難しいであろうことも知っている。
それでも、一縷の望みに縋りたかったのは、共に過去を歩んだ仲間が欲しかったからかもしれない。
「…それは命令か?」
耳にタコが出来るほど聞き飽きた台詞だった。シェリルは抱え込んだ膝を引き寄せ、ぎゅっと抱きしめた。
「答えたくないんだったら、別に良いわ。」
沈黙が下りた。シェリルは指先で草を弄んだ。やがて、ブレラが口を開いた。
「わからない。」
「え…?」
「わからないと言った。」
憮然と答えるブレラに、シェリルは目を丸くした。まさか、こんな曖昧な答えが返って来るとは思ってもみなかったのだ。ブレラは言った。
「なぜ、お前といるのか、いたいと思うのか、俺にはわからない。だが、お前の傍にいれば、その答えが見つかる気がした。」
シェリルは答えあぐねた末、手持無沙汰に、膝の上で両腕を組み、顔を埋めた。
「そう…。」
シェリルには、ブレラの真意がわからなかった。前言したように、ブレラ自身にもわかっていないに違いない。
どういうわけか、シェリルの胸中に温かな感情が広がった。頬が熱かった。
おもむろにシェリルは立ち上がると、両手を広げた。唇から歌が溢れた。フロンティア船団に降り立つ前、操り人形でがんじがらめの自分たちを思って書いた歌詞だったが、メロディーが思いつかず、お蔵入りしていたのだ。だが、今なら、シェリルはメロディーを掴める気がした。
「夢見たりしない、何もこわくない」
朗々と歌い上げるシェリルの歌に、ブレラの目がかすかに開かれた。記憶部にノイズが走り、警告音が鳴った。加速する一方の演算処理にブレラの網膜が激しく動いた。
しかし、シェリルはブレラの異変に気づくことなく、ようやく掴んだメロディーを逃がすまいとするように即興で歌いあげた。
「忘れはしない」
ひときわ大きく警告音が鳴った後、ブレラの記憶部には静けさが戻った。ブレラは、歌い終えて嘆息し、髪を掻きあげるシェリルの腕を掴んだ。
「フェアリー9。」
「え、な、何よ?」
ブレラの言動に、戸惑ったシェリルがびくりと肩を跳ねさせた。まだ記憶部に混乱が見られるようだ。ブレラは頭を振って言いなおした。
「シェリル、お前にマネージメントの才能はない。」
何の前触れもなくブレラによって図星を指されたシェリルは、羞恥に顔を赤らめた。シェリル自身、グレイスの真似事しかできないことは重々承知だ。そのうえ、致命的なことに、シェリルにはスケジュール管理の才能が決定的に欠けていたので、ブッキングしないように仕事を減らすしかなかった。借金の返済が思っていたよりも遅れているのも、理由はそこにあった。
しかし、迷惑をかけているわけでもあるまいし、わざわざ他人に指摘されなければならないことでもない。プライドをいたく傷つけられたシェリルは、眦を吊り上げ、ブレラに食ってかかった。
「う、うるさいわね!あんたに言われなくたって…!」
ブレラが続ける。
「お前にはマネージャーが必要だ。グレイスのやり方は覚えている。最短のルートは、俺が用意しよう。」
そこでようやくブレラの言動に違和感をおぼえたシェリルが、文句を呑み込んだ。シェリルは大きく眼を見開き、睫毛を瞬かせた。
「ブレラ、あなた、記憶が…?」
「お前はただ歌うことだけに集中すれば良い。」
きっぱり宣言するブレラに、シェリルは数度瞬きを繰り返してから、不敵に笑った。胸中に、もう久しく覚えていなかった安堵感が広がった。
「当然じゃない。あたしを誰だと思ってるの?」
シェリルはブレラに背を向け、満足そうに微笑んだ。自然に唇に浮かんだ、温かな笑みだった。シェリルは吹きつける風に髪をなびかせながら、囁いた。
「銀河の妖精、シェリル・ノームなのよ。」
シェリルの復活コンサートは大成功を納めた。急遽差し込んだ新曲「リーベ」も、これまでのシェリルの歌にない哀切を募らせる曲だということで好評を博した。
招待状をもらったランカは、特等席でシェリルの歌を聴きながら、シェリルの変心にとまどいを覚えていた。シェリルは変わった。数日前までのシェリルは、借金を返すためだけに歌っているように見えたが、今のシェリルは、良い意味で吹っ切れたように思えた。声には昔のような、歌いたいからこそ歌うという気概が感じられた。
それが、シェリルの歌唱に如実に表れていた。
V型感染症を克服したシェリルは、以前よりも、感情を伝える力に長けている。迷いを捨てたシェリルは、きっと、超一流のアイドルに挙げられるランカと同等か、それ以上の存在になるだろう。もともと、シェリルは才気溢れる女性なのだ。そのシェリルが数カ月も二の足を踏んでいたのは、明らかに、どうすべきなのか迷っていたせいだった。
「あいつ、変わったな。」
同じことを思ったのか、アルトが呟く。同意見のランカは大きく頷くと、アルトの手に手を重ねた。
どれだけ周囲が勧めてもマネージャーを雇い入れようとしなかったシェリルが、ブレラをマネージャーとして使い始めた事実にも、ランカは着目していた。シェリルに多々振り回されていたオズマは、ブレラはていよく使われているだけなのだと固く信じていたが、ランカには、そうは思えなかった。ランカの脳裏にはいつも、コールドスリープしたシェリルの元を訪れるブレラの姿があった。
コンサートが終わると、ランカはアルトを伴って、シェリルの控室を訪れた。
「シェリルさん、とってもすてきでした!」
頬を紅潮させたランカが顔の前で手を組んでうっとり言うと、まだ舞台用メイクを落としていないシェリルがにっこり笑った。
「ありがとう、ランカちゃん。あなたにそう言ってもらえて嬉しいわ。」
「アルトは、どう思った?」
急に話題を振って来るシェリルに、アルトが戸惑い気味に答えた。
「ああ、良いんじゃないか。」
アルトの返答に、シェリルが寂しそうに微笑んだ。アルトがランカを選び取った事実を、シェリルはまだ割りきれていない。だが、そろそろ割りきるべきだとはわかっていた。
そのとき、壁に背を預け、沈黙を守っていたブレラが口を挟んだ。
「…そろそろ時間だ。」
ブレラの言葉に、シェリルは怪訝そうに眉根を寄せ、衝動的に発しかけた反論を呑みこんだ。代わりに、シェリルは不満をこぼした。
「何よ、もうちょっと待ってくれたって良いじゃない。」
背後を振り向いて文句を言うシェリルにも、ブレラは取りつく島もない。ブレラは無愛想に切り返した。
「次の仕事に遅れる。」
妙な沈黙が広がった。やがて、状況を察したランカは恥ずかしそうに赤面すると、大慌てで立ち上がった。昔からブレラにライバル心を抱いているアルトの手を取り、ランカは退場を促した。
「あっ、ご、ごめんなさい。シェリルさん。私たち、お暇します!」
「そう…。あの、本当にごめんなさいね、二人とも。」
「いえ、良いんです!シェリルさん、頑張ってくださいね!」
「ありがとう、ランカちゃん。…アルトもまた、ね。」
シェリルは手を振りながらしばらく二人が立ち去るのを見守っていたが、やがて二人が角を曲がって姿を消すと、力なく手を下ろした。今でも、アルトを見ると、切ない感情が胸に刺す。だが、シェリルが追い求めているのは過去の蜃気楼だ。幻想だ。わかっていた。だから、無理矢理にでも、今は、割り切るしかないのだ。
もの憂げに拳を握り締めたシェリルは、反転して、勢い良く背後を振り返ると、鬼の形相でブレラを睨みつけた。
「ちょっと、どういうつもりなの?!この後、仕事なんか入れてないじゃない!」
コンサート当日だ。スタッフと打ち上げがあるかもしれないのだから、直後に仕事を入れるわけがない。同じ職を生業にしているランカも、それをわかっているはずだ。いきり立つシェリルの頬に手を添え、ブレラが言った。
「お前のそんな顔は見たくない。」
ブレラがあまりにもきっぱり言い放つので、シェリルは不覚にもどぎまぎした。狼狽したシェリルはブレラに赤面を見られまいと、顔を背けた。
「そ、そんな言い方って、ブレラらしくないわ。」
口調にとまどいは隠しきれない。ブレラはシェリルから手を離し、小さく笑みをこぼした。目にも、柔らかな感情が浮かんでいた。
「わかっている。これは俺のエゴだ。」
信じられない、という感想は声にならなかった。ブレラの微笑を前に、シェリルは二の句を告げなかった。ブレラが続けた。
「目標の借金返済も、267日後には完済予定だ。その後、お前はどうする?」
「どう、する、…って。」
「お前は、お前がしたいことをすれば良い。俺が最善のルートを確保しよう。」
「そ、そういうわけにはいかないでしょ?借金を返済したら、SMSが私を見張る必要もなくなるのよ。ブレラが私の警護をする必要もなくなる…ちゃんと意味をわかって言ってるの?」
シェリルは慌ててブレラの身体を押し退け、胸元で軽く拳を握り、距離を取った。心臓が高鳴っていた。シェリルは動悸を落ちつけるため深呼吸を繰り返しながら、虚勢で、ブレラをきっと睨みつけた。何気なくブレラが言う。
「無論、理解している。S.M.Sは辞めれば良いことだ。」
「そう簡単に、」
そう簡単にいくわけがない。シェリルは胸元をぎゅっと握り締めた。ブレラは立場柄、多くの軍事機密に携わっている。SMSが許可したとしても、ブレラを監視下に置いておきたいフロンティア正規軍がブレラの離軍を許可しないだろう。シェリルにしても同じだ。シェリルは、あまりにも多くの機密に関わりすぎた。ぼそりとブレラが呆れ交じりに言った。
「…意外だな。」
「え…?」
「お前ならば、天下のシェリル・ノームに仕えることが出来て幸せでしょう、とでも言いそうなものだが。」
からかってくすりと笑うブレラに、シェリルは目を見張ってから、つられてくつくつ笑いだした。ブレラが冗談を口にするなんて、明日、世界は崩壊するに違いない。やがて、シェリルは腹を抱えて笑いだした。
「確かに、そうだわ。」
こんな風に笑える日がまた来るなんて思ってもみなかった。ひとしきり笑ったシェリルは眦に浮かんだ涙を拭ってから、ブレラに抱きついた。
「ブレラ…あなた、変わったわね。ふふ、前よりずっと、人間味が増したわ。」
シェリルは衝動のまま、笑い交じりに親愛の情を込めて、ブレラにキスをした。明日世界が終わるのならば、今日くらい、好き勝手に振る舞っても許されるだろう。シェリルの行動に、ブレラが眉根を寄せた。
「…どういうつもりだ?」
「理由が必要?」
得意げに問うシェリルに、ブレラは込み上げた溜め息を呑み込んだ。
「必要ない。」
ブレラから身体を離したシェリルは、後ろ手を組むと、にっこり微笑んだ。今のブレラには、いまだかつてないほど、人間臭さがあった。それが、シェリルは無性に嬉しかった。シェリルはブレラに顔を近付けると、艶っぽく囁いた。
「…本当、あなた、変わったわ。」
シェリルはブレラの首へ腕を絡め、唇を重ねた。今度は、ままごとのようなキスではなく、恋人としてのキスだった。ブレラが身体を反転させ、シェリルを壁に押しつけた。
「こんな良い女、滅多にいないんだからね…?」
「わかっている。」
頬を上気させ、悪戯っぽく笑いかけてきたシェリルにそれだけ返すと、ブレラは再びキスに専念した。二人のキスが深まるのに、時間はかからなかった。
ブレラが予測した通り、267日後に、シェリルは借金を完済し終えた。それと時を同じくして、ブレラが退職願を提出しても、オズマは特に驚いた様子を見せなかった。察しの良い女性陣から、何か聞かされていたのかもしれなかった。
「これから先、どうするつもりだ?お前の選び取った道は、楽じゃあないぞ?」
執務机に座り込み、指先で机を叩きながら、問いかけてくるオズマに、ブレラは素っ気なく答えた。
「問題ない。」
ブレラの唇に、あるかなきかの笑みが浮かんだ。
「あいつならば、平坦な道ではつまらないと言うだろう。」
オズマは重苦しい沈黙の後、大きく溜め息をつくと、勢い良く立ち上がった。馬に蹴られるのは、ランカの一件で十分懲りていた。それに、今な妻となっているキャサリンからもきつく言われていた。
「わかった!ならば、お前の出立を祝して、送別会だ!決して酒を拒むんじゃないぞ!」
歓迎会の惨事を思い出した、ブレラは密かに瞑目した。
「…善処する。」
善処のしようがあれば、の話ではあるが。
シェリルの出立は、それから1カ月後のことだった。
シェリルは吹きつける風に楽しそうに目を眇めてから、見送りにやって来たランカとアルトたちを見つめた。
シェリルはフロンティアから、オリンピアに拠点を移すことにした。オリンピアには、ギャラクシーの移民が多く在籍しているからだ。今のシェリルに何ができるのか、まだわからない。けれど、シェリルは、できるだけのことはするつもりだった。
シェリルは泣きじゃくるランカの頬に指を滑らせると、微笑んだ。
「泣かないで、ランカちゃん。」
シェリルの言葉に、ランカがふるふると頭を振った。こういうところは、シェリルが知っていた4年前と何ら変わりない。シェリルは微笑ましさを感じながらも、屹然と言った。
「わたし、こういう湿っぽい空気嫌いなの。これが今生の別れってわけじゃないんだから、どうせなら笑って送り出して…ね、ランカちゃん?」
同じ職業をしていれば、広い宇宙で、また出会うこともある。シェリルの言葉に、ランカは泣きながら何度も頷いた。シェリルは困ったように眉尻を下げ、目で謝っているアルトに、ランカを引き合わせた。
アルトの無自覚の残酷さに傷つかないのは、シェリルの恋が終わりを告げたからだろう。シェリルはそっと口端を緩め、背後に停船している船を見上げた。出立の時間が差し迫っていた。
シェリルが乗り込んだのを合図にモーターが動き出し、船は離陸を始めた。
シェリルはいつまでも手を振っているランカにあわせて、窓の中から手を振り返していた。やがて、ランカの姿が見えなくなると、シェリルは背後を振り返った。
「不安か?」
無言で見守っていたブレラが問いかけてくる。シェリルは頭を振った。
「いいえ、不安になったりしないわ。だって、あなたはずっとわたしの傍にいてくれるんだものね。」
ブレラがシェリルを見捨てることはないだろう。シェリルを見捨てるつもりならば、ブレラは疾うに見捨てていたはずだ。S.M.Sを離脱するという危険を冒すまでもない。だからこそ、シェリルはブレラの期待に応えたかった。アルトでも、ランカでもない。誰でもない、ブレラに。
アルトに感じたものとは違う感情に、シェリルはにっこり微笑んだ。アルトに恋をしたとき、シェリルは「シェリル・ノーム」ではなく、ただのシェリルだった。だが、シェリルと「シェリル・ノーム」は一心同体だ。もはや、切り離すことなど出来ない。それを、シェリルは失念していた。
暗闇に堕ちるような、盲目な恋をした。運命的な恋にひどく酔いしれた。アルトへ想いを伝えたい一心で、シェリルは「ノーザンクロス」を書きあげた。
けれど、愛は違う。愛はもっと空気のように身近にあって、すべてを受け入れることではじめて生じるものだ。
マネージャーとの恋愛などありきたりすぎて精彩に欠くことは、シェリルにもわかっていた。世間は銀河の妖精に、もっと話題になるスキャンダルな恋を求めているのだ。それに、今後、どう転がるかもわからない。ブレラも知るとおり、シェリルはひどく気儘だ。他の男に心移りする可能性だってあった。
だが、シェリルがこの選択を悔いることはないだろう。長年付き合い、互いに光も闇も全て受け入れているからこそ、ブレラの前でシェリルは自然体でいられた。良くも悪くも、ブレアは、気心の知れた仲だった。
シェリルはブレラの眼前に回り込むと、はっきり言いきった。もはや、迷いは微塵もなかった。
「大丈夫よ。だって、わたしは天下のシェリル・ノームなんだから!」
シェリルの勝気な返答に、ブレラが満足そうに微笑んだ。
初掲載 2012年12月31日