知識を象徴する林檎。私の足元にはそれが転がっていた。未熟な青さを纏うそれは、禁断の果実であるという。アダムとイブが口にした、知識という名の実。
難民たちが知識を手にしたとき、彼らがどう出るのか。難民に溢れるこの国で誰もが考え、けれど忌避していたこと。それが現実となった今、想像と現実の差異に私は戸惑いを覚えている。
薄暗い瓦礫の下で、出口を求め彷徨いながら、男が小さく舌打ちをした。いや、舌打ちという名の合成音、が正しいが。全身義体にしては無駄な動きをする男だ。無駄を尊ぶ人間であるという現実を忘れないためかもしれない。ともすれば、私たちは己が弱い人間でしかないことを忘れてしまうから。義体化は強靭な身体を与えるが、死への恐怖を麻痺させる。戦場ではそうして幾人もの戦士が死に、私はその様を同じ戦士として見続けていた。死の恐怖を忘れないため。
私の視線に気付いたのか、男がこちらを振り向いた。難民に知識を与えたのは目の前に居るこの男だ。その現実が酷くもどかしい。彼は難民扇動者として処断されるだろう。おそらく、死を以って。
「どうしてお前がそこまでする必要がある。」
暫しの沈黙を破ったのは、私の方だった。私の問に男は瞬きもせず、機械の瞳で私を見詰め淡々と言った。いっそ厳粛な空気をまとって、言葉が暗闇に落ちる。
『初めに言葉は神と在った』。ふいに聖書の台詞が頭を掠めた。
「それが俺の宿命だから、さ。」
「宿命などと、運命論者のつもりか?」
私の皮肉に、小さく男が笑った。虚な空洞に反響する合成音に苛立ちが募る。どうしてかは、自分自身わからない。
「それも良いかもな。」
微かに俯いた男の顔は変わらない。変わることはない。表情を構成し統括するソフトがインストールされていないからだ。しかし、男の作られた顔が苦悩に歪んだ気がした。
私は視線を逸らした。
禁断の果実を勧めたのは蛇。彼はイブを誘惑し、その実を取らせた。禁断の果実は甘かったのだろうか、それとも楽園を追放されたアダムとイブの胸中同様、苦かったのだろうか。
(何を考えている。)
私の視線の先で難民に果実を与えた男の影が揺らめく。その影は身体を包む薄暗い闇に今にも同化しそうだった。
(何を、考えている。)
部下からの報告はなく、通信は途絶えたままだ。プルトニウムは自衛隊に渡したのだろうか。もう、逃げ切っただろうか。この閉鎖された孤島から。私はタチコマに連絡を取ろうとし、逡巡の後止めた。回線も遮断する。
(一体、何を考えている。)
今度は愚行を取る己に問いかけてみたが、結局答えは出なかった。
微かな轟音と共に、アスファルトの地面が揺れた。しかし、最先端の技術を駆使して作られた私の三半規管と瞳は、僅かな振動も許さず現実を補正する。歪んでいるのは現実か、私のゴーストか。わからなくなって私は小さく頭を振った。
何を信じれば良いのか、わからない。この男に会い、思想に触れてから。今まで唯一信じてきた己すらも揺るぎ瓦解する。
(何を、信じれば良い?どうすれば、私たちは救われる?)
頭痛の原因である男がまっすぐ私の瞳を捉えた。視界の端で青が軽やかに踊り、それが私に最後の決断を迫る。そして、暫しの無音。まるで全てが静止してしまったようだった。緩慢に流れる時すらも、この心臓の鼓動すらも。
(私は。)
私は男の体温の宿ることのない手を取った。禁断の果実を手にし、熟れた罪を味わうため。死とは違う恐怖が繋がれた指先から流れ込み、私はゆっくりと瞳を閉じた。
もしかしたら既に、私は手遅れだったのかもしれない。この男に惹かれ、後を追ってしまった時点で。私は男の後を追いながら思考する。
はたして私がイブだったのだろうか?
沈黙はもう破らない。
初掲載 2005年9月20日