太陽が落ちて赤く夕焼けに染まる教室で、黙々と縫い物をする勇を、私は頬杖をついて見つめていた。勇が繕っているのは文化祭で夏帰が着る予定の衣装だ。衣装合わせのとき、夏帰が浮かれて勇に見せに来た際に破いたので、勇がつくろう羽目になった。本当なら勇がつくろう必要性は全くないのだけれど、激怒したお針子たちに苦笑して自分がやると告げたのだ。責任の一端は自分にもある、かもしれない、からと言って。前はこんなことをするようなタイプではなかったのに、勇は変わったと思う。
「暇だわ。」
考えを逸らすため無理矢理呟いた私の言葉に、勇はこちらを見もせずに答えた。
「だったら手伝えよ。」
「いやよ、何で私が。」
夏帰は感謝と謝罪の意も込めて、この馬鹿みたいに暑い中、コンビニへ買出しに行っている。
「何だか、全然変わってないみたいで困るわ。」
それは表面上だけの平穏であるけれど、現実を一瞥するだけならばそれで十分だ。
私の脈絡のない言葉に、賢い勇は何も言わなかった。ただ教室にはあの夏のように、蝉時雨だけが響いていた。私はぼんやりと勇を眺めながら、私はあの世界で何がしたかったのだろうと考えていた。
蝉時雨とじっとり肌に吸い付くような熱気だけの教室で、目の前で針と糸を手に服を再生させていく勇は、どこか神秘的で感慨深い。橙色に照らされた横顔は、アマラの光に濡れた様を思い出させた。
無表情な勇を前に、私は肩口に顔を寄せ、面を下げた。顔に髪がかかり鬱陶しさが募ったけれど、私は気にも留めなかった。ただ、過去を思い出していた。
あの時、私は力が欲しかったのだと思う。無力な私は力が欲しかったのだと、信じていた。私の啓いたコトワリはヨスガだった。それは何者にも屈しない、力だけが原理の単純で美しい、強者のコトワリだ。だから、私が欲しいのは力だと思っていたのに、どうして今更になって本心から欲していたものを見出すのだろう。
「お前、大丈夫か?」
勇に呼ばれてハッとした。気付けば、夕陽を背に勇がじっとこちらを見ていた。
「だい、じょうぶよ。」
何となく思考に霞がかかっていて、声は朧気だった。正直、我ながら全然大丈夫そうではなかったけれど、勇はそれ以上何も問わなかった。逆に、問いかけたのは私だった。
「ねえ、勇は、トウキョウで何を見出したの?」
「東京って、」
「違うわよ、トウキョウ。」
誤魔化そうとするように、真実を確かめるように、わざと間違えられた返答に私は声を被せるようにして訂正を施した。まんじりともせずに見つめ答えを待つ私に、勇は困ったように肩をすくめた。こんな仕草も、勇はするような性格ではなかった。
「お前、覚えてたのか。」
「忘れようったって、忘れられるものでもないじゃない。」
私の答えに、勇は東京に帰ってきてから癖になった諦めたような笑みを浮かべた。あの笑みの下で何を考えているのだろう。投げかけることの出来るはずもない言葉に、私は小さく首をすくめた。
「勇は何だか、大人になったわね。」
独白のつもりで返答など期待せずに呟いた言葉に、勇は小さな声で応じた。
「…諦めたから。」
「…。」
何を諦めたのと訊き返して、私は良かったのだろうか。戸惑う私に勇はそれ以上何も言わず、何かを諦めたかのような笑みを再び浮かべた。
「お前も変わったよ。」
「ふふ。傲慢にでもなった?」
私の茶化した質問に、勇は悲しそうな色を一瞬瞳に浮かべたけれど、すぐさま諦めたような笑みへと戻した。
「いや、…脆くなったな。」
「…。」
予想外の返答に、私は言葉に詰まった。勇は私が脆くなったと言った。けれど私はヨスガの祖だ。強さを求む者だ。どうして脆くなることがありえるのだろうか。私の動揺に感づいたのだろう。勇は小さく苦笑した。
「恐れなくても、ここはもう東京だ。トウキョウじゃない。まあ、トウキョウの記憶も皆の中に残ってるし、夏帰の理想も若干混じってるから、昔のままというわけにはいかないみたいだけどな。」
勇の口から、いえ、他者の口からこんなにもはっきりと、東京受胎以前、トウキョウ、新世界についての意見を聞いたのは初めてのことだった。眩しい顔をする私に、勇は宥めるように言葉を続けた。
「ここは、東京だ。」
どこか悲哀を帯びた口調で、勇ははっきりと告げた。
「俺たちの生きる場所だよ。」
ゆっくりと口に含めるように事実を私に告げる勇は逆光で暗く遮られて、どんな顔をしているのかはわからなかった。
私が欲したのは孤独だった。誰にも犯されることのない不可侵の世界を欲して、それを構成できるのは力という恐怖で他者を対等の存在から他者でない存在に貶める、そのことによって得られるものだと信じていた。
反対に、勇が本当に欲したのは力だった。誰かを守るための力、守られる立場ではなく、守る立場になりたがっては失敗して、結局そんな不甲斐無い己を否定するために独りきりの世界を求めた。
私たちは二人とも、逆だったのだ。
ガラリと教室の扉が開き、そこから、まるでコンビニからずっと走ってきたかのように息をつかせて夏帰が顔を覗かせた。
「あれ?何か話してた?」
夏帰は飲料の冷たさに濡れたコンビニを机に置いて、私と勇を交互に見ながら尋ねた。やはりどこか諦めたような口調で、勇が夏帰に告げるのを私はぼんやりと聞いていた。
「秘密。」
あの夏と変わらず、蝉時雨だけが木霊していた。
初掲載 2005年12月31日
改訂 2007年9月19日