追いかけて捕まえるから


 研究明けの日には、何時だってヒートに会いたくなる。ヒートはこんな僕を癒してくれるから。特に何をしてくれる訳ではないけれど、好きな人に会いたいっていうのは正常な思考だと思う。この、僕にしては。
 「ヒート。」
 カチャリと小さく音を立てて、勝手に作った合鍵でヒートのマンションに入ると、何故か灯は点いているのに静かだった。腕時計の針の示す時刻は丁度9時半だった。ヒートは低血圧だから、もしかしたらまだ起きることが出来ずに寝ているのかもしれない。それはヒートが休暇であるということも示唆していて、疲れて帰ってきた(押し入ったが正しいかもしれない)僕に反して何て幸せなことなんだろう、と勝手なことだけれども少しばかり癪に障った。
 ともあれ、僕はヒートの居場所を寝室だと半ば決め付けて、そこへと足を進めた。そろりそろりと音は立てないように歩く廊下はスリッパ越しにも冷たくて、冬の到来を感じさせた。窓からはまだこんなにも光は差し込んで暖かいというのに。
 そぅっと扉を開けると、案の定ヒートがベッドにうつぶせて寝ていた。枕に抱きつくようにして顔を埋めて、苦しくないのだろうか。
 起すのも偲びないように思われて、僕はベッドの合間に腰を下ろした。少しだけ、安堵感に身を委ねてぼーっとしてみた。白い天井。白過ぎる、まだ真新しい天井。まるで病室みたいだ。それか、実験室のような。無機質なイメージ。部屋の中を見渡すと、本当に簡素だった。寝室でさえも周囲から与えられるイメージに応えようとするヒートは、酷く脆い印象を僕に与えた。誰が寝室まで来るっていうんだ、この僕以外に。机の上には研究書が積み上げられ、ついでのようにビタミン剤が置かれている。ベッド脇の飲みかけのペッドボトル飲料はとっくに温くて、止めた跡のある目覚まし時計と。それに、伏せられた写真立て。閉じられた時間の中で、ヒートとヒートの亡き妹が微笑っているのを、僕は知っている。
 何だか手持ち無沙汰になって、僕は陽光に煌くヒートの髪を梳いた。思いの外柔らかい感触を、手に刻み付けるように楽しむ。
 「ん。」
 指先でヒートの身体が微かに身じろいだ。もしかして起してしまったのだろうか。僕はヒートの頭から手を離した。しかし一度入ってしまった起床スイッチは戻せそうになかった。
 「んー…、……、…。…サーフ来てたのか…?」
 ヒートは暫く枕に頭を擦りつけもぞもぞしていたけれど、僕の顔を見て、現実に戻ったらしかく、軽く頭を振りながら起き上がってきた。まだ何処となく眠そうだ。
 「おはよう、ヒート。」
 「あ…?おはよう。……、…つかお前何処から入ったんだ。」
 玄関閉め忘れたか?とヒートは言いながら欠伸を一つし、腫れぼったい瞼を擦った。その瞼に、僕は軽く口付けを落とした。
 「ふぁ、眠。今日明けだったんだよ…7時に漸く寝たっつんに。」
 どうやら灯が点けっ放しだったのは、そのせいだったようだ。悪いことをしたかもしれない。ほんの、少しだけ。
 ヒートは面倒臭そうに抱きしめようとした僕を邪魔だと押しやって、立ち上がった。
 「腹減ってね?何か作るけど。」
 「じゃ、頼むかな。」
 ヒートはまた一つ欠伸をして、僕にそこらへんにあるものを弄らないように言ってから部屋を出て行った。たぶん、キッチンに向かったのだろう。また暇になった僕は、しょうがないからゴロゴロしてヒートの手料理を待つことにした。
 暇なときというのは思考するのにも適していて、僕の脳裏を様々な考えが過ぎった。今日行っていた研究や試みてみたい実験や、それに、今度からヒートと一緒に参加する研究のこと。神とのリンク。僕は眠気にぼんやりする思考に微笑み、降りてくる瞼を閉ざした。
 ヒートは神にリンクして、何を得たいのか。尋ねたことはないけれど、ヒートが亡き妹を甦らせたがっているのは知っていた。ヒートを置いて逝ってしまった妹を。僕は、死んだ妹よりも生きている僕を見ろと、何時だって思うけれど口にはしない。黙ってヒートを観察し、その引き換えにヒートの優しさに甘えている。ときには身体だって強請って、欲張る。ヒートを欠片も残さず、食い荒らす。
 僕は未だヒートに本音を告げてはいない。僕がヒートに惹かれていること。ヒートに依存しきっていること。僕を見ないヒートに、苛立ちを覚えること。
 ヒートが僕の元から去ったら、僕はこの世界を滅ぼすだろう。神とのリンクは、万が一のときのためのヒートに対する牽制にすぎないのだ。ヒートが僕に心酔して、依存して、逃げられなくなるまで。逃げられなくなったら。そのときこそ、漸く、僕がヒートに全てを話すときだ。ヒートが僕から離れられなくなるまで。
 僕は枕を抱きしめた。枕からはヒートの香りがして、僕は幸せな気持ちに浸れた。もうすぐ、ヒートが食事を手にやって来るだろう。他ならぬ、僕のために。あのヒートが。
 歪んでいるかもしれないけど。僕はこの愛し方しか知らないから。だから僕の思い通りになってよ。
 「愛しているんだよ。」










初掲載 2005年7月1日