『―――望みは?』
一人と一体が契約を交わしたのは、雨の降りしきる戦場だった。まるで誘蛾灯のようだった。一際強い切望に招かれ、「それ」はかれに取り憑くことを決めたのだ。そのときは、他の選択肢などないように思えた。実際、今もって、他の人間を選ぶことはありえなかったように思えた。必然だった、と、「大八」は思った。
契約を結び終えるとその人間は「大八」に小さく顎をしゃくって、自分に付いてくるよう命じた。「大八」は数歩前を行く小さな背中を眺めながら、契約者が指図することに慣れた立場の人間なのだと思った。同時に、その背は小さいながらも貫禄があった。契約者は、その抱く望みに違わず、ずいぶん大きな器の持ち主のようでもあった。
道中、契約者は湧いた疑問を次々と「大八」に浴びせかけては、一つ一つ不明を潰していった。「大八」の契約は望みを叶えることだけだったが、元来律儀なこともあって、その問いに一々答えていった。イマジンは遠い未来からやって来ること。イマジンは想像を意味する単語であること。その名のとおり、イマジンは契約者の想像の姿を取ること。
契約者は何気ない様子で、「大八」に未来のことを尋ねた。
「天下は、やはり徳川殿のものなのか?」
「私たちの未来ではそうでした。」
「何年続いた?」
「300年ほどでしょうか。」
もっと遠い未来から来たのでさしてその治世については知らないことを「大八」が告げると、契約者はそこでいったん言葉を切った。矢継ぎ早になされていた質問が途切れ、いぶかしむ間もなく、契約者は「大八」に問いを重ねた。
「その姿は、わしの、想像の産物なのか。」
その声はわずかにひび割れていた。不思議に思って、「大八」は契約者を注視した。だが、何もわからず、無言の催促に堪えかねて、答えた。
「ええ、そうです。これは政宗様の想像です。」
「大八」が答えると、契約者はあの不可解な笑みを浮かべて、己の想像力の欠如を貶した。
「悪魔がいるとすれば。」
契約者はそう言いながら、真っ直ぐ歩き続けた。契約者がどんな表情をしているのか、「大八」にはおよそ見当がつかなかった。再び、契約者は、台詞を繰り返した。
「悪魔がいるとすれば、それは、そのような形をしておるのじゃろうな。わしにとっての悪魔、わしにとっての死神、わしにとって―――。」
謳うような囁きは不意に途切れ、沈黙が続いた。長い長い沈黙だった。この人間は今どんな顔をしているのだろう。「大八」はちっぽけな背中を見ながら、それを想像してみようと試みた。だが、できなかった。肩を、あるいは手を引いて振り向かせようかとも試みた。だが、やはり、できなかった。「大八」は得たばかりの己の手をじっと見つめ、この手は何のためにあるのだろう、と開閉を繰り返した。躊躇うな。手を伸ばせ。そうすれば、この手は―――。
ふっと、契約者が足を止めて、「大八」を振り仰いだ。
「あれがわしの陣じゃ。」
そう言った契約者の顔には、すでに、君主らしい顔が張り付いていた。その事実に、「大八」はほっとすると同時に、窺うことのできなかったその表情を残念に思った。そして、そう思う己に気づき、戸惑った。
「大八、来い。みなに紹介する。」
「…はい。」
「大八」は頷いた。視線の先でマントが翻り、また、小さな背しか見えなくなった。
「大八」―――「それ」は、本来、イマジンと呼ばれている。遠い、途方もないほど遠い未来からやって来た。イマジンの目的はただ一つ、契約を交わした人間の願いを叶えることでその者の時間を遡り、過去を通し、現在を破壊することだ。なぜ現在を破壊しなければならないのか、「それ」にはわからない。ただ、何かが、「それ」にそうするよう命じる。だから、「それ」はその声に従おうとした。「それ」はその声こそが真実の主君であり、「それ」に命を吹き込む神であることを本能的に知っていた。だからこそ、何も疑いを持たず、「それ」も素直に従おうとした。従おうと、していたのだった。
ただ、「それ」は、勝手な理屈で願いを叶えようとするそれらの中にあってあまりに律儀で誠実だった。何より、契約を交わした人間が悪かった。イマジン、と、ただそれだけの一括りで呼び表されるのが通常の「それ」に、その人間は名を与え、役割を与えた。契約を交わしたことで実体を伴ったばかりの「それ」が、理解できないような不可解な笑みを浮かべて、「それ」の手を握り締め、告げた。
「主の名は大八。今日から、大八じゃ。」
「それ」が落とした目線の先で、小さな手は強く「それ」の手を包んでいた。「それ」の力を持ってすれば容易く振りほどける、しかし、振りほどくことを許さない手だった。そのちっぽけな温かさが、なぜか「それ」の心まで沁みた。
だから、そのときから、「それ」は「大八」になった。イマジンという枠組みを越えて、「それ」は、契約者の望みに心の底から応えたいと思った。「大八」という名で、軍の一員として、ただの人間として闘い、天下を与える。契約者の掲げる旗印の下集まったものは、みな、「それ」と同じ夢を見ていた。同じ夢に酔いしれていた。夢を叶える立場の「それ」は、存在して初めて、夢を見たのだ。「大八」が何かなど、そのときは知らなかった。「それ」が取った姿が何を意味するのかなど、まだ、そのときは、わからなかった。「それ」が知っていたのは、過去に遡り現在を壊すこと、契約者の願いを叶えねばならぬこと、契約者の小さな手が温かったことだけだ。
あれから、数年が経った。「大八」は契約者が望むとおりに、人間らしく振舞い続けた。人間のように甲冑に身を包み、天下のための戦に明け暮れた。「大八」にとって、本来のイマジンの力を以ってすれば、たかが人間ごとき、遅れをとるようなものではなかった。その数年間は、イマジンとしては、無駄だった。だが、「大八」は契約者が望むとおり、人間らしい天下を与えようと実現に努めた。イマジンらしからぬ実直さと律儀さで、契約者の望みに応えようとした。
それ以上に、いつの間にか、魅入られていた。契約者は、自分にとっては太陽のような、世界に、ただ一つきりの存在だった。温かくて、優しくて、眩しかった。だからこそ、その目が己を見ることのない事実が、どうしようもなく、憎かった。それでも、かれが愛おしかった。恋しかったのだ。
イマジンとしての力を解放し、無理やりな天下を契約者に捧げたのは、これ以上「大八」には耐えられないせいだった。
「わしが欲しかったのは、かような、理不尽な天下ではない!貴様は…貴様も所詮、イマジンだったのか!」
契約者はそう言って、癇癪を起こした。張られた頬に走る痛みよりも、激昂する契約者の美しさに胸を奪われ、「大八」は惚けたようにかれを見ていた。滾る怒りは太陽のように容赦なく、「大八」は素直に賛美したいと思った。そんな己の考えに自嘲して、「大八」はわずかにまぶたを伏せた。「大八」の太陽は、ただ、かれ一人だ。だが、かれの太陽は「大八」ではありえない。そんなことは、とっくに、わかっていたではないか。そのときには、「大八」は騙し騙しやっていくことに疲れてしまっていた。見て見ぬ振りをすることももうできそうになかった。だから、すべて、なげうった。
「……本当に欲しいものは、天下などではないくせに。」
「大八」の呟きに、契約者が眼を見開いた。過ぎる怒りのためか、それともそれに思い当たったのか、慄く契約者の小さな唇に、「大八」は口付けたいと思った。もう、こんな口、黙らせてしまいたい。噛み付いてしまいたい。奪いたい。「大八」は唇を噛み締めた。だが、それは、許されていない。許されていやしないのだ。自分には。
「あいつ」と同じ姿だというのに。
「貴方が欲しいものは、私には、与えられない。貴方にも、本当は、わかっているくせに。―――……だから、契約の完了です。」
契約者の目が動揺も顕に大きく見開かれた。その唇が何事か紡ぐ前に、「大八」は契約者に腕を伸ばした。この腕がもっと長かったら、この手がもっと大きかったら、抱きしめて決して離さないのに。私は「あいつ」とは違う。「あいつ」とは。
扉は開かれた。「大八」という名を捨てたそれは元契約者に開いた過去への門をくぐった。これがどこに至るかなど、考えるまでもない。
あの夏。かれと――政宗と「それ」が契約を交わした夏、「あいつ」が死んだ大阪の、あの夏だ。
政宗が強く願ったから、「それ」はかれに憑いた。「あいつ」が死んだから、政宗は強く願った。
何を――?
もちろん、天下ではない。政宗が願ったのは、「あいつ」との未来。死んだ「あいつ」と歩む未来だ。政宗が「あいつ」を殺すことは遮ることも可能だが、「あいつ」と歩む未来は、「それ」では叶えられない。こうして、「あいつ」の姿を取っているとしても、「それ」は「あいつ」と同一ではない。何より、そんな紛いものになることなど、「それ」の方から払い下げだ。「それ」は、「それ」自身として政宗に愛されたかった。政宗に欲されたかった。決して、「あいつ」の出来損ないとしてではない。
『悪魔がいるとすれば、それは、そのような形をしておるのじゃろうな。わしにとっての悪魔、わしにとっての死神、わしにとって―――。』
あのとき、政宗が何を言おうとしたのか、今の「それ」は知っている。政宗にとっての悪魔、政宗にとっての死神、政宗にとって―――最初で最後の愛人、生まれることのなかった赤子――大八の父だ。もう、「それ」はその事実を知ってしまったのだ。
だから、あの夏、「あいつ」は死なない。「それ」が死なせない。よって、政宗も願うことはない。――そこに、「それ」の居場所はない。
「タイムパラドクス。自分で自分を消しちゃうなんて…。本当に、そんなので良かったの?特異点さえ見つければ、まだ間に合うよ。」
そう言って、女の形を取った仲間が首を傾げた。「あいつ」と共に消えた仲間だった。仲間の問いかけに、「それ」は瞬きした。良かったのかどうかと訊かれれば、そんなの、良くないに決まっている。誰だって消えるのは怖い。存在を否定されるのは嫌だ。過去の自分は存在するが、歩む生は、今とは確実に違う。政宗と出会うこともない、このような最期を遂げることもない。幸せかどうかはともかく、そうなってしまうのだ。だから、自分は存在しなかった存在として、永遠に、この世界から消えなければならない。
恐怖に小さくのどが鳴った。まだ鳴るのどがあるのかと、「それ」はわずかに安堵した。まだ、自分はいることが許される。それから、自分とは違う生を辿る自分を思い、「それ」は胸を痛めた。政宗と出会うことができないなど、そのような生は、ひたすら哀れだ。たとえ消滅してでも、「それ」は、この生が良かった。政宗のために生き、政宗のために滅びるこの生こそが良かった。だからこそ、「それ」は仲間を見上げると、口端を吊り上げて満足を示した。
『お前にだけは言われたくない。契約者の死を見届ける契約を交わすなど、わかっているのか?契約者が死ねば、私たちイマジンは死ぬのだぞ。』
「知ってるよ。でも、幸村様がいない世界なんて考えられないし、生きたくもない。幸村様は死ぬ。あたしも死ぬ。それでちょうど良いじゃない?幸村様の願いがあたしの願い、幸村様の幸せ――たとえそれが自己満足だとでも――あたしの幸せだもん。幸村様を不幸にしてまで、生き永らえさせたくない。」
仲間は数回瞬きすると、腑に落ちたように目を優しげに細めた。「それ」も、仲間と同じ思いだった。政宗を幸せにしたい。政宗に幸せになってもらいたい。たとえ、そこに自分の居場所がないとしても、ただ、幸せになってもらいたい。それだけなのだ。
「それ」の薄れた空気のような脆い手を掴み、己の代わりに生を得た仲間は笑った。
「ばいばい。他の誰が忘れたとしても、知らないとしても、あたしだけは覚えておいてあげるね。」
「それ」は瞼を閉ざした。光、あの太陽のような光。誘蛾灯のように「それ」を誘い、この身を焦がし殺めたあの光。
瞼の内側で、かれの姿が浮かんだ気がした。自分の名を呼び、子をあやす姿が。存在することのできなかった赤子。その赤子につけられるはずだった名前。存在することのなかった未来。共に過ごした数年間、一度も見ることのできなかったかれの心の底からの笑顔。太陽のような。光。眩しい。あの笑顔が、自分の報いで。
政宗が。
最期の瞬間、「それ」は、笑った。
「……ばいばい。」
もはや何も存在しない空間に、くのいちは、寂しげな様子で手を振った。少なくとも、「あれ」は、過去に遡り未来を壊した。契約者の望みを叶えた。己の夢を遂げた。
胸がちくちく痛みを訴えた。これは妬みだろうか。くのいちは胸元に手を当ててから、立ち上がった。切なさ、悲しさかもしれない。あるいは、イマジンという存在自体への怒り?わからず、くのいちは首を傾げた。だが、そんなことはどうだって良い。「あれ」は存在した。望みを叶えた。未来を――未来を、創った。それだけが、偽りのない「あったこと」だった。
初掲載 2008年10月13日