政宗が性別を偽り、男として生きていたのはずいぶん昔のことになる。
男として生きるため、愛する父を殺し、罪のない弟を犠牲にし、嘆く母を顧みなかった。約定に従い、田村から妻も招いた。
政宗はがむしゃらに天下を目指した。天下が何にもまして素晴らしいものだと考えたからだ。人々は天下を求め、戦火を広めた。どうして、伊達当主たる政宗もそうしない理由がある?政宗は盲目名までに天下に手を伸ばした。それが、亡き父の大望だと知っていたからでもあった。大望のために、父は落命したのであった。
当時、伊達屋敷には御鈴廊下と呼ばれる廊下があった。正室である愛姫のもとを訪れる際、政宗が近従に鈴を鳴らさせて訪れを知らせたので、そう呼び習わされるようになった。元来は、愛姫が他の男を招いていても差し支えないようにという政宗なりの配慮だから生じた行為だった。政宗は己が男として生きることに何の疑問も抱いていなかったが、嫁いできた娘にまで、同じ犠牲を払わせようとは思わなかったのだ。
しかし、愛姫は頑として政宗の言葉を聞き入れなかった。一度腰入れしたからには、愛姫は「政宗」の嫁だというのである。他の男を受け入れるなど考えられもしない。後から考えるに、愛姫には同性愛の気があるのかもしれなかった。若いころ、潔癖な娘が熱に浮かされたようにかかるあれである。麗しい若武者の姿をした政宗は、確かに、年頃の娘の心をいたくときめかせたに違いない。
だが、当時の政宗にはわかるはずもなく、政宗は首を傾げながらも、鈴を鳴らし続けた。いつか、愛姫のためになると信じていたのだった。
その機会も失われて久しい。
朝議に向かうため回廊を歩いていた政宗は、欠伸を噛み殺した。後ろからは、書簡を抱えた小十郎が付いてきている。側近にこんなことをやらせるなど、実に非効率で馬鹿げたことなのだろう。だが、朝のこの時間だけは、政宗は余程のことがない限り、小十郎を独占することに決めていた。小十郎にしても、幼少のみぎりから知悉している政宗の独断を面白がっている様子だった。
政宗は成実の出奔に頭を悩ませながら、左手に広がる修練場をぼんやり眺めた。修練場の脇には井戸があり、周辺には白い野花が咲いている。先日、幸村が政宗に寄越した野花だった。
政宗の柔らかな眼差しから、小十郎も察したに違いない。
「あれは先日、幸村殿に贈られた花ですね。」
「ふん。そこらに生えている雑草を贈って寄越すなど、あやつも舐めた真似をする。」
幸村のことを語るとき、口ほどに険がないのが、政宗の常である。小十郎は「ええそうですね。政宗様にはもっと高尚な花が相応しいのでしょう。」と適当なことを返しながら、政宗の首元を見やった。政宗の伸びた襟足は、鈴つきの金糸混じりの紅い紐でくくられている。口がさない人々の噂を繰り返すわけではないが、誰かを彷彿とさせる色だった。
政宗が紐で髪を結わえ始めたのは、遠呂智軍から蜀軍に降りて間もなくのことだった。街亭で孫市に女だとばらされた直後でもある。小十郎の勘では、幸村と再会した頃のことだ。
病のため夏の陣への出陣がままならなかった小十郎へ、息子の重長は、政宗が幸村の死にざまにいたく感銘を受けていたと報告していた。重長が言うくらいなので、政宗はよほど衝撃を受けたのだろう。その事実は、直後、政宗が徳川に対して反旗を翻し、天下を狙ったことからも容易に推察された。
幸村との再会以来、政宗は紅の紐で髪を結わえ、めっきの鈴を好んでつけている。真実価値のあるものを見極める政宗がめっきを身にまとうのだ。その鈴は政宗が小首を傾げたときにだけ鳴るので、煩くはなかった。
あれから、政宗はよく笑い、よく眠るようになった。それは、天下に執着する以前の政宗だった。
良い兆候だった。二人の間で何かあったことはまず間違いなかったが、小十郎は口を差し挟まなかった。幼いところの残る主君にとって、幸村との関係は悪くなるように思われなかった。恋に破れて傷つく恐れもあるが、幸村は理由もなしに別れを切り出す男ではないだろう。
それに、わざわざ小十郎が問い質さなくとも、夫に執着する愛姫や主を子ども扱いする喜多が手ぐすね引いて政宗を待ち受けていたせいでもある。今はまだ泳がせているようだが、政宗が詰問されるのはそう間もないことと予想された。
成実とは幸村の件でたいへんな口論をやらかしたようだ。成実は出奔したきり、戻る気配がなかった。
頬を綻ばせる小十郎に背を向けたまま、政宗の視線が泳いだ。誰かを探しているのだ。連日のやり取りから、小十郎にはお見通しだった。ちりんと鈴の音が鳴り、「あ。」と政宗が声を上げた。
「幸村。」
呼びかけられた幸村が満面の笑みを湛えて、政宗に手を振った。気持ちの良い青年の態度に、小十郎はますます相好を崩した。訓練用の槍を抱えた幸村は、仲間に断ってから、政宗の元へ駆けてきた。
「政宗殿、おはようございます。」
「うむ。」
「これから朝議でいらっしゃいますか?」
「そうじゃ。お主は呼ばれておらぬのか?」
「はい。」
並んで歩き出した政宗と幸村の後ろを、小十郎は黙って歩き出した。若者二人の会話は聞いていて飽きることがない。
「そうか。」
「それだけ、諸葛亮殿の政宗殿への信が篤いということでしょう。政宗殿は我ら日ノ本の武士の誇りでございます。」
「止せ。日ノ本一の兵に言われると歯がゆいだけじゃ。」
政宗の耳がわずかに赤味がかった。廊下も建物内に入り、人気がなくなる辺りだ。恋人が愛引きをするにはちょうど良い場所である。
そろそろ引き際だろう。小十郎は口を開いた。
「申し訳ございません、政宗様。そういえば、用事を思い出しました。」
「何じゃそれは。どうしても外せぬものか?」
「はい。姉上を怒らせると恐ろしゅうことは政宗様もご存じでしょう。」
喜多の名を出せば、政宗がそれ以上食い下がらないことを小十郎は知っていた。伊達家のものにとって、喜多はそれだけ恐れられてしかるべき人物だった。
小十郎は一言詫びると、幸村に書簡を押しつけ、踵を返した。
背後で再びちりんという鈴の音が響いた。耳に快い音だった。口には出さないものの、小十郎は政宗が誰に到来を告げているのか、先刻承知していた。そして、若い二人の間で何が行われているのかも。
小十郎の唇にあるかなきかの笑みがのぼった。
初掲載 2012年11月25日