うつくしき生きもの


 その廊下は奥へと通じていた。
 かつて当主のみが進むことを許された廊下は、今もなおただ一人の来訪者に合わせて鈴の音を響かせ、御鈴廊下と呼ばれていた頃の名残をとどめている。
 幸村は信玄から下賜された宝玉を手に奥へと進んだ。いつになく心は浮き立っていた。翡翠はきっと白肌に映えることだろう。亜麻色の髪との相性も良いはずだ。自然と口端が綻んだ。
 ようやくこの手に竜を捕まえたのだ。天高く翔る竜を。
 あの気高くうつくしき生きものを。
 「政宗殿、ご機嫌いかがですか?」
 今にも弾みそうになる声を意識して押し殺し、幸村は奥の障子を開けた。薄暗い部屋の中、うごめくものがある。幸村は笑みを湛えたまま後ろ手に障子を締め切ると、布団へと歩を進めた。
 闇の中、爛と光る独つ眼が幸村をねめつけた。
 「貴様には良う見えるか、幸村?」
 紅い唇が問うてくる。
 「…どうやらご機嫌斜めのようですね。」
 幸村は溜め息をこぼし、困ったように眉尻を下げた。
 魏が打倒遠呂智を掲げ、武田と手を組んでから数週間が経っていた。それは、乱世が終結してから数週間経ったことをも意味した。みな禍根を忘れて手を取り合って、と一足飛びに上手くはいかなかったが、それでも、遠呂智との決戦が人々の結束を強めたのは事実だった。
 無論、中には、遠呂智の死を否定するものもいた。遠呂智の台頭により恩恵を得ていたもの、遠呂智によってしか結ばれなかったもの、遠呂智に惹かれたもの。遠呂智を惜しむものたちには、彼らなりの、さまざまな事情があった。
 伊達当主政宗は、最後のものだった。本来いるべき時代でのように、利権を求めたわけではない。遠呂智の信頼を競う上でいつしか妲妃たちとの利権争いに発展したことは事実だが、それはあくまで結果の話だ。政宗はただ、遠呂智のために在れれば良しとしていた。政宗にとって、遠呂智が世界の中心だった。
 なぜ、あれほどまでに政宗が遠呂智に惹かれたのかはわからない。それが、無敵を誇る遠呂智へのもののふとしての崇拝であったのか、異性としての恋慕であったのか、誰に聞いてもわからないという。もしかすると、政宗にとってはどちらでも大差ないのかもしれない。わからない。
 しかし、政宗が遠呂智に魅了されたのは事実だった。ときには、なりふり構わず遠呂智の気を引こうとする政宗を道化と捉えるものもいた。顧みられることのない政宗を哀れむものもあった。だが、政宗はいっこうに気にしなかった。ときおり、遠呂智の真意がわからずに戸惑った表情を見せはするものの、一心不乱に遠呂智の命に従った。そのけなげな姿は、寵愛を得ようと飼い主の足元にまとわりつく犬を彷彿とさせた。それほどまでに、政宗は盲目に遠呂智を愛していたのだった。
 おそらく、そんな政宗の態度に一番動揺したのは、犬猿の仲である兼続ではなく、幸村であったろう。幸村には、あの夏、大坂という地で己の命を奪ったもののふがおなごであった事実より、上田で知り合って以来性を偽られていたことより、命を賭してなお政宗の心を得られなかった現実がつらかった。風の噂では、政宗は幸村の生きざまに触れたことで再び天下を目指し、足掻いたとのことだ。しかし、所詮は噂である。それが事実なのか、死した幸村に確かめるすべはなかった。
 幸村は政宗の頬へ手を滑らせた。まんじりともせず睨みつけている政宗の怒らせた肩から布団が滑り落ち、白い肌がさらけ出される。新雪のような肌だ。これからそれを無体にも踏み荒らすのかと思えば、連日のことながら、ひどく昂揚した。
 「政宗殿、」
 この世界に呼び出されてから、二年が経とうとしていた。
 一時、古くからの友人である孫市の説得により、遠呂智軍から離反し蜀軍に身を寄せていた政宗は、遠呂智を喪失したことで箍が外れてしまった。堰き切ったように溢れ出した遠呂智への愛惜の念は、仇敵であったはずの妲妃と手を組ませることまでさせた。
 しかし、そうしてまで蘇えらせた遠呂智はすでにこの世にない。
 あの日大坂で寄せられた無関心や長坂で目にした煩悶の色は影もなく、烈々とした憎悪の炎だけが輝いていた。何にも勝る、うつくしい炎だった。幸村はそのうつしい色にそっと笑みをこぼすと、竜を掻き抱いた。震える唇で竜が紡いだ。
 「その名で呼ぶな。それは中興の祖より頂戴した名、貴様ごときに気安く呼ばれる筋合いはない。」
 その名は棄てたと呟く竜の瞼へ唇を落とし、幸村は囁いた。
 「では、何とお呼びすれば?」
 ここに来てから、竜は髪が伸びたようだ。長い襟足が抱き込む幸村の腕をくすぐった。筋肉の衰えた肢体はやわく、手折れそうなほど細い。紛うことなくおなごのものだった。鱗を剥ぎ、爪を切り、角を折り、それでもなおこの竜はうつくしい志を忘れぬことだろう。たった一つのよりどころとして残された矜持にかけて、永劫、奪い尽くした幸村を呪い続けることだろう。
 あるいは――、
 「………、好きに呼べ。」
 力ない竜の返答に、幸村は微笑んだ。
 夜は長い。
 幸村は愛憎が表裏一体であることを知っていた。











初掲載 2012年11月17日