恋の死角


 天正一七年二月二六日、政宗が左足を骨折した。落馬によるものだった。
 何でも、馬上から銃撃という曲芸まがいのことをしようとして、上手くいかず、焦れて両手を離した拍子に落馬したらしい。付添いの孫市は大事ないと手紙を寄越したが、国元にいた幸村は奥羽へ急行することにした。あれほど筆まめな政宗が、この件に関して、文一つ寄越さない事実が気にかかったのである。
 連絡もなしに顔を見せた幸村へ、政宗はばつが悪そうな顔をした。実際、ばつが悪かったのだろう。
 「どうして、ご連絡を頂けなかったのです。心配しました。」
 追求する幸村に、政宗は一瞬顔を赤らめてから、ふいとそっぽを向いて吐き捨てた。
 「なぜ、連絡せねばならん。家族でもあるまいし。」
 政宗の家族と言えば、今では、生母の義姫のみである。しかし、義姫が、政宗が想っているほどに想い返していないことは周知の事実だ。先代輝宗の死から続く一連の跡目問題で、関係はよりいっそう悪化したと聞く。政宗が義姫へ連絡したとも思えず、幸村は口を噤んだ。それがわかるからこそ、政宗は耳を紅くし、唇を噛み締めた。
 重苦しい沈黙がただよった。やがて、政宗は無言のまま、幸村を睨みつけた。
 「まあ良い。せっかく来たのじゃ。馳走してくれる、ついて参れ。」
 「はいっ!」
 幸村は破顔して、右足に重心を預け、不恰好に歩き始めた政宗の後を追った。政宗の料理の腕は有名だが、政治的な場面を除けば、こうして振る舞われる立場の人間は意外と少ない。幸村は、その数少ない人間の一人であることが誉れであった。
 一瞬で政宗に追いついた幸村は、己より位の高い政宗の隣に並ぶことも躊躇われ、しばらくは後背に付き従っていた。しかし、歩行に閉口している政宗を見かねて、差し出口を出すに至った。
 「政宗殿、そのように歩かれてはご不便でしょう。」
 「であれば、何じゃ。」
 「政宗の殿の右眼にはなれませんが、この幸村、左足になることはできると思います。」
 そう言うなり、幸村は政宗の膝裏に腕を回し、軽々と政宗の身体を抱きあげた。急に抱きかかえられてびっくりした政宗が、悲鳴を上げ、幸村の首周りへ腕を回してくる。温かな身体を推しつけられて悪い気はしない。幸村は見咎められぬよう苦心しながら、口端に小さく笑みを湛えた。それが、想い人のものならばなおさらだ。幸村は政宗の叱責を聞き流して、調理場を目指した。
 調理場についたとき、政宗はいかにも気が立っている様子だった。不満げにふくれた頬が、生意気盛りだった幼少期を思い起こさせて、あいらしい。政宗は腹立ち紛れに叱責しようとしてから、これも幸村へ文を出さなかったことに対する幸村なりの意趣返しなのであろうと勝手に完結したらしく、口を閉ざした。
 政宗がひょこひょこ調理台の方へ移動する。幸村も何かあればすぐ動けるよう、政宗に続いた。
 「それで、今日は何をご相伴にあずかれるのでしょうか。」
 政宗は幸村を肩越しに一瞥した。まだ耳が赤い。これはもしかすると、意外と後を引くかもしれなかった。幸村は頭の片隅で考えた。それは良い兆候だろうか。少なくとも、まったく男として見られないよりは良いことだろう。しかし、下手に警戒されても困りものだ。打算を巡らせる幸村の胸中など知らず、政宗が熱い頬を手の甲で冷ましながら問うた。
 「何が良い?幸村の好きなものを作ってやる。」
 「政宗様が作られたものであれば、この幸村、何でも美味しく頂きます。」
 「何でも良いが一番困る。」
 ばっさり切って捨てる政宗に、幸村は苦笑した。
 「でしたら、土産に鴨を持参いたしましたので、それを使っていただければ幸いです。」
 「鴨、か。…鷹狩りか?」
 ぱっと政宗の目が輝いた。しかし、次の瞬間には、政宗は肩を落としていた。
 「これのせいで、わしはしばらく行けなさそうじゃ。口惜しい。」
 政宗の鷹狩り好きは有名だ。おなごのくせに巧く鷹を繰るというので、大坂でも評判になっている。先月に贈られた文にも、鷹狩りの成果ばかり書き連ねてあったことを幸村は思い出した。毎年恒例の野始には、さぞ、小十郎も良い得物を捕まえさせてやろうと苦心したことだろう。勢子たちが気を揉む様が目に見えるようだ。
 「完治されるまでどれくらいかかるのですか?」
 「二か月かそこらか?小十郎には四か月大人しくするよう命じられておる。鷹狩りも乗馬も遠出も許可が下りん。お陰で、暇で仕方ない。」
 文句を垂れながら、政宗は幸村が持ってきた鴨を手際よく捌き始めた。幸村も獣を捌くことには慣れているが、政宗の手際は一線を画していた。調理人のそれである。思わず見惚れながら、幸村はふと疑問に思ったことを問いかけた。
 「そういえば、政宗殿の手料理はいつも美味しゅうございますが、失敗はなさらないのですか?」
 「失敗せぬよう気をつけておるからな。そのための孫市じゃ。」
 「…孫市殿?」
 鴨を捌き終えた政宗が、手を清めて言う。
 「しかし、最近のあやつときたら、わしが腕を振るってやるというのに逃げるのじゃ。それでは練習台にならぬ。今のわしに出来ることと言ったら、料理くらいしかないというのに。」
 そこで、政宗は言葉を切り、幸村を見つめた。上目遣いに見上げて来る目は、わずかな寂寥を湛えていた。幸村の胸は高鳴った。
 「お主はいつ郷里へ帰る予定じゃ?」
 「なにぶん急に伺いましたので、明後日にでも帰るつもりでしたが…何かおありでしょうか?」
 幸村は努めて平静に返した。声に動揺は籠っていないはずだ。政宗が幸村の袖を引いた。
 「予定がなければ、しばらく居ると良い。歓迎するぞ。」
 幸村は素直に政宗の言葉に甘えることにした。おそらく、政宗は練習台が欲しいに違いなかった。それでも良かった。政宗の傍にいられるだけで、幸村には過ぎる僥倖なのだった。


 この一週間でわかったことは、幸村の想像以上に政宗が料理に没頭しているらしいことだった。政宗の料理研究は、必然的に執務が終わってからになるため、夜更けまで試食会が続けられることも多い。酒を好む政宗のこと。深夜に飲食しようものならば、酒の肴となってしまうため、きちんと味見してくれる者が欲しいのだとか。
 その役を喜んで買って出た幸村は、内心、孫市が辞退していて良かったと安堵していた。孫市にその気はないと知りつつも、このような夜更けに年頃の男女が一つの部屋に籠るなど、はなはだ不埒である。
 しかも、政宗は酒が入っているのだ。酒精の入った政宗は、惚れた男の欲目抜きにしても、艶めいて見えた。ほんのり上気した頬が、あどけなかった幼少期を思い起こさせることもあって、酒を嗜む政宗を前にするたびに、幸村は背徳的な感情に見舞われた。まるで年端もいかない子に欲情しているような申し訳なさに駆られるのだ。
 「お主もよう付き合うな。」
 酒杯を傾けながらはまぐりの酒蒸しを突いていた政宗が、ぽつりとこぼした。はまぐりの潮汁を啜っていた幸村が顔を上げると、政宗が呆れ交じりの視線を寄越した。
 「わしが言うことでもないが、かような夜更けまで他人の趣味に振り回されるなど、お人好しにもほどがある。」
 政宗はそう言うと酒を呷り、濡れた唇を手の甲で拭った。
 確かに、政宗からしてみれば、幸村は物好きな男として映るに違いなかった。政宗は知らないのだ。幸村が政宗へ恋をしていることも、読んで字のごとく、下心を抱いていることも。それ以上に、愛していることも。
 幸村は笑いかけた。多少、酔いが回っていたのかもしれない。
 「それでも、私は政宗殿に生涯振り回されたいと思いますが。」
 「生涯と来たか。」
 本音を吐露する幸村を、政宗は不信そうに見やり、手元の酒蒸しを突くことに意識を戻してしまった。これには、いささか幸村もむきになった。後になって思えば、酒のせいだと思う。
 「私はそれほどお人好しではありません、政宗殿。私は、」
 「もう良い。それ以上申すな、幸村。」
 「ですが、」
 「言ってしまえば、終いじゃ。このような温い時間も持てなくなる。」
 政宗は俯いたままだ。幸村は唇を噛んだ。幸村には、どこまで政宗が承知しているのかわからない。わからせぬのは、政宗なりの思いやりかもしれないが、恋焦がれる男からしてみれば拷問だ。
 幸村は政宗へ手を伸ばした。まんじりともせず、政宗が見つめ返して来る。幸村の手が頬へ触れたとき、政宗はわずかに目を細めた。
 「貝合わせにははまぐりが用いられるとか。」
 政宗の手が幸村の手へ重ねられた。温かな手だった。
 「わしの相手はお主だと自信をもって言えるか、幸村?」
 幸村は緊張に咽喉を鳴らした。政宗は幸村の覚悟を問うているのだ。無論、幸村に二言はなかった。
 「…お許しを頂けるのでしたら。」
 政宗がふわりと笑んだ。花のような無邪気さを含んだ笑みだった。
 「良い、許す。」
 それから、政宗は更に目を細めた。低めた声で言う。
 「であれば、こうして料理に耽る必要もない。他にすべきことがあるであろう。」
 幸村は誘われるまま唇を重ねた。その身体をゆっくり横たえても、政宗が拒むことはなかった。幸村は政宗の手持無沙汰な腕を背へ誘導しながら、頭の片隅で考える。郷里に帰ることは難しいかもしれない。なにしろ、予定もなければ、こちらで大事な人も出来てしまったのだ。
 何ものにも勝る、大事な人だった。


 立春を過ぎたとはいえ、奥羽の朝は冷える。
 鳥の音を聴きながら、褥で幸村は政宗を抱き締め、幸せを噛み締めていた。念願叶って、ようやく手に入れた恋人の座だ。幸村は手放すつもりもなければ、逃がすつもりもなかった。政宗はそんな幸村の不安を笑って、頭を撫でてやった。体温の高い幸村は政宗にとっても良い懐石代わりだ。抱擁を拒むはずがない。
 ふと、幸村がこぼした。
 「今度はご連絡いただけますでしょうか?」
 「何の連絡じゃ。」
 幸村の長い毛先を弄ぶ政宗が返せば、しかめつらしい顔で幸村が説明する。
 「怪我のご連絡です。」
 家族になるのですから、と息巻く幸村を政宗は不思議そうに見つめた。幸村はよほど先日の返事を根に持っていたと見える。だが、政宗は本当に意味が解らなかった。
 「連絡するまでもあるまい。お主はずっとわしの傍におるのであろう?どこかに行くのか?」
 そう返せば、耳を赤らめた幸村が政宗を更に強く抱擁した。政宗は睫毛を瞬かせながら、夫の考えはよくわからないと小首を傾げるのだった。











初掲載 2012年11月11日