おかえり 宇多田ヒカル / Letters


 海辺には温い風が吹いていた。それまで黙して青空を見つめていた政宗は、子供のような無頓着さで足袋を脱ぎ捨てた。同伴する孫市が制止の言葉を投げかけようとしたが、諦めたように口を噤んだ。政宗はそれがやりきれなかった。哀れまれたいわけではない。政宗は衝動に突き動かされるまま海へ足を進めた。熱い砂地が足の裏を焼いた。それでも、政宗は構わなかった。心の方が痛んだから。機会さえ許せばことあるごとに向けられる憐憫の情に、政宗は辟易していた。
 まったく、心から辟易していた。
 孫市に誘われるまま、無頓着に上田へ向かった政宗は愚かだった。本当に、浅はかだった。上田には何があるのか、なぜ政宗は「政宗」なのか。その理由を少しでも記憶に留めておけば、政宗が窮地に陥ることはなかったろう。だが、目まぐるしく移りゆく状況に、いつまでも幻の許婚の存在を覚えているのは困難だった。
 「だいたい、あれは、男として生かされているわしに対する左月の他愛ない夢物語にすぎなんだ。」
 波間を掻き分けながら、ぽつりと政宗はこぼした。
 女子でありながら女子の幸せを知らない政宗を憐れんだ左月の提案は、奥羽から遠く離れた場所に嫁入りし、実家との禍根を断ってはいかがかというものだった。その候補が、上田の真田家の次男坊だった。政宗はやんごとない名家の出自である。本来であればもっと高貴な家柄に嫁ぐべきを、軍略で名高いとはいえ難色のある家にしたのは、左月が跡目争いのない世界で政宗に生きてもらいたかったからだ。
 無論、政宗は一蹴した。政宗が「政宗」たるゆえんは、政宗が「嫡男」であることだ。「嫡男」の身分を捨てるなど馬鹿げている。それは中興の祖の名を戴く政宗にとって、生きる価値がないと宣告されるも同然だった。それでも、政宗は左月に礼を告げた。向けられた思いやりがまことありがたかった。
 碧玉の海水は腰に届いていた。政宗は立ち止り、地平線を見つめた。藍をこぼした空には千切れ雲が飛び、海面では渡り鳥のような白波が寄せては返し、日差しを反射して煌めいていた。幸村にも見せてやりたいような、美しい眺めだった。
 季節は一巡し、夏になっていた。
 天下はほとんど徳川のものと言って良かった。
 「…幸村の愚かものめ。意地を張らず、家康殿に頭を垂れておればあるいは…。」
 政宗は小さく罵倒し、唇を噛んだ。うそぶきながらも、そんな幸村では心惹かれなかっただろうことは承知していた。所詮、政宗の言も左月のそれと変わらない。甘い夢物語だ。実際的ではない。
 政宗は眼を眇め、白けた太陽を睨みつけた。無二の太陽を亡くした今でも昇る太陽が憎らしかった。それ以上に、遺書一切れだけ残して勝手に没した太陽が腹立たしかった。
 言葉を交わすのが苦手なら、何も残してくれなくて良かったのだ。最期の思い出に慰めを見出したくなるから。口にせずに表現しきれるほど、二人の距離は近くなかった。眼と眼が合い、胸がときめいたとしても、ただそれだけのことで、そこに通じるものはなかった。政宗は「男」で、「女」ではないのだから、想いが一方的なものになるのは当然だった。
 まさか、すでに左月が真田家に嫁入りの打診をしていたなど、知るはずないではないか。
 『死後、心は貴女の元に必ず帰ります。』
 幸村も同じ想いでいたかもしれないなどと。
 「馬鹿め。」
 死後に届く手向けの言葉など欲しくなかった。政宗の側は、ひと筆で表現しきれる程度の生易しい感情ではなかった。ずっと傍にいて、その感情の根拠を教え続けてくれれば良かったのに。
 「馬鹿め馬鹿め馬鹿め馬鹿めッ!」
 政宗は太陽に向かって罵り続けた。背後から向けられる哀れみの眼差しを痛いくらい感じていた。だが、今日だけだ。今日くらいは良いだろう。明日にはまた、政宗は「政宗」に戻る。だからただこの瞬間だけは、存在しえた無名の姫君でいさせて欲しかった。その手で殺めておきながら何をと嘲られる覚悟はできていた。勝手だとは承知していた。それでも。
 一粒の涙が頬を零れ落ちた。政宗はぐいと手の甲でそれを拭った。
 遺書など欲しくなかった。生きていて欲しかった。二度と手の届かない遠地でも良い。生きていてさえいてくれれば、それだけで、良かったのに。
 それだけで、良かったのに。


 「案外、一人でも大丈夫なものよ。」
 勝ち戦の宴の席で、長い歳月を生きた古狐は、杯を傾けながらそんなことを言った。下手な慰めのつもりだったのかもしれない。政宗は心中いぶかしみながら、妲妃の経験談を聴いていた。
 魔王によって時空が捻じ曲げられてから、半年が経とうとしていた。奇妙なことだが、政宗は妲妃と親交を深めていた。稚拙といっても良いそれは、互いに「女」の友を持たぬがためだろう。同様に、政宗は司馬イとも良好な関係を築いていた。意外なことに、二人は馬があった。それは司馬イが抜け目なく立ち回る狼顧の相の持ち主であるからかもしれない。根拠はないが、そのうち、政宗は司馬イと何かを仕出かす予感がした。
 「なあに?政宗さんは違うとでも言うの?」
 政宗の胸中の迷いを嗅ぎ取った妲妃が、嫣然と笑った。政宗は言葉を濁した。
 「そうは言わぬが…。」
 「歯切れが悪いわね。そんなに気にかかるなら、会ってみれば良いじゃない。」
 妲妃は珍しく下ろしていた髪を鬱陶しそうに掻き分けて、政宗の方へ身を乗り出した。
 「どうなるかなんて誰にもわからないんだもの。遠呂智様にさえ、ね。だから、会っておくなら、今のうちよ?」
 政宗は適当に相槌を返した。笑いながら囁く妲妃の息は酒臭かった。常ならば口にしない言葉が吐いて出たのは、強かに酔っているせいだろう。それがわかればこそ、政宗は本気で相手にする気にはなれなかった。大体、妲妃の言葉は説得力に欠いていた。政宗は遠呂智に心酔していた。盲目的なまでに、と言って良い。遠呂智は地上を統べるどころか、時空を曲げる力すら誇っていた。政宗はそんな遠呂智の力に惹かれた。
 だから、たとえそこに幸村がいるとしても、遠呂智の下を離れて反乱軍に加担する気など毛頭なかった。それに、政宗は幸村がいてくれるだけで良かった。この混沌に満ちた世界で、死した幸村の在ることを許された世界で、健やかに生きていてさえくれれば、それだけで良かった。
 確かに、会いたかった。鎧越しでも良い。温もりを取り戻した肌に触れてみたかった。蝋のように白く強張った肌の感触を忘れ去りたかった。声を聴きたかった。罵倒でも良い。夢の中ですら叶わなかった、生気を取り戻した張りのある声を耳にしたかった。
 だが、新しい世界で他愛ない夢物語の続きを見るには、政宗は老成しすぎていた。
 やがて横たわり寝入った妲妃の袂からのぞく乳房は、豊満で色香に満ちていた。政宗は無意識のうちに、厚く晒しを巻いた胸元へ手を当てた。自分にもこのような色香があれば、幸村を引き留められたのだろうか、と思うこともあった。自分が「女」であることを受け入れ、「女」としてひたむきに幸村の寵愛を求めていれば。もちろん、単なる悔恨ゆえの空想だった。政宗は妲妃の髪を梳きながら、小さくこぼした。
 「わしはただ「おかえり」と、それだけ告げられれば、」
 その声が届かずとも、それを幸村が耳にすることはなくとも、それでも。
 政宗は夢見がちに微笑んだ。
 「それだけで良いのじゃ。」











初掲載 2012年7月9日