八月三日。この日、政宗は二十歳になった。
国元へ置いてきた愛妻への文を認めながら、政宗は顎を伝い落ちようとする汗を拭った。大阪の夏は暑い。夜ともなれば少しは落ち着くかと思いきや、このざまだ。この地の気象は、奥州で生まれ育ち、暑さに弱い政宗にはひどく堪えた。
大きく取られた窓から吹き込む温い風に、黒髪が揺れる。額にこぼれた耳にかけ、政宗は嘆息した。
以前は日に焼けていた肌や髪も本来の色を取り戻し、成長で優美さを備えた痩躯と相俟って、伊達家が古い家柄であることを周囲に思い出させる。
豊臣の世になってから、早数年が経っていた。戦も落ち着き、戦働きを求められることも少なくなった。最近は大坂屋敷に腰を据え、武より文に精を出す方が多い。
だが、そんな泰平を脅かすように、昨今では太閤が体調を崩したという噂が立っている。人の口に戸は立てられないとは良く言ったものだ。このような噂は殺そうとしても殺し切れるものではない。
政宗は薄く笑った。
戦は嫌いではない。伊達の威光を示すことができるからだ。しかし、不毛な戦ほど憎いものもない。先日の朝鮮出兵が、これに当たる。民を倦ませ、国を疲弊させるだけの戦に、政宗は興味がなかった。他の諸大名にしても同じことだろう。やるからには、勝つ。それは戦だけではない。詩にしても、茶道にしても、国造りにしても同様だ。
「なあ、政宗。ちょっと良いか。」
「孫市か、何用じゃ。」
部屋に入るなり、改まった態度で居住まいを立たず孫市に、政宗は筆を置いた。孫市がこのように真剣な顔をするときは、色で不祥事を起こしたか、きな臭い噂を耳にしたときと決まっている。
政宗は孫市に並々ならぬ信頼を寄せていた。本当ならば、このような傭兵業を営む男をこれほど信頼することは浅慮以外の何ものでもないのかもしれない。その元を辿れば、織田の者であり、秀吉と親交を深めていたという。
かの関ヶ原の折、政宗が孫市を伴い豊臣へ顔を出した時の騒動は、忘れようとして忘れられるものではない。軽い愁嘆場に、政宗でなくとも眩暈を覚えたことだろう。
その信頼する者が、真剣な面持ちでいるのだ。政宗も背筋を伸ばし、来る発言に備えた。
「お前、結婚するのか?」
何かと思えば。政宗は肩の力を抜いた。
「馬鹿め、結婚ならしておる。」
「違えよ、俺の言ってる意味わかんだろ?」
人の口に戸は立てられないとは良く言ったものだ。政宗は苦笑して、肩を竦めた。一体どこから話が漏れたのだろう。大方、成実だろうか。昨夜、酒の席でこぼした記憶があった。
とはいえ、政宗は、あまり深刻に受け止める気になれなかった。世に広まるには、「前提となる情報」が欠けている。
「聞き及んでおるならば話が早い。聴けば、殿下も伏せっておられるそうな。いつまでも婿を迎えんわけにはおるまい。わしも、男でいることに飽いた。」
政宗が性別を偽ってきた目的は、本来は、実家である最上に肩入れする実母に対抗し、家督争いで勝つためだった。それがそのまま留め置かれているのは、太閤がたいそうな色好みだと耳にしたからである。関ヶ原での遅参を理由に、肉体関係を強要されては堪らない。小躯の猿に目をつけられるくらいならば、と男装を貫いて数年。流石に、政宗が女に戻っても良い頃合いだろう。
大仰しく後ろ手を突き溜め息をこぼす政宗に、孫市が身を乗り出した。
「それで、その相手はもう決まってんのか。」
「…何故、お主に話さねばならん。かような問題はいつも小十郎と綱元に任せきりだったではないか。お主が口を挟むようなことではない。」
政宗は煩わしさから手をひらひらやりながら、足を崩した。すらりと伸ばされた足を、孫市が目で追いかける。蝋の灯に照らされた柔肌は、一種異様なけぶるような色を湛えていた。しかし、流石にそのように鼻の下を伸ばしているような状況ではないとにわかに悟ったのか、孫市は強く頭を振って邪念を払った。
「そう言うなよ。だって、寝耳に水なんだぜ?知りたくもなるだろう。」
そう言って、孫市が鼻息荒く問い質そうとする。
珍しい事態だった。
逡巡の後、政宗は孫市を押し退けて立ち上がった。慌てて引き留めようとする孫市の制止を振り切り、勢い良く襖を開く。
「それを知りたいのは、大方、お主ではなくこやつなのであろう。」
政宗は眼下の若武者を顎で示した。真田家の次男坊、幸村だ。政宗とは十年来の仲になる。今日は珍しくくのいちを伴わずやって来たのか、幸村は一人のようだった。
「あの、その。」
咄嗟に対応しあぐねて、幸村がまごついた。心なしか青褪めている。忍びの真似事をしてしまったことを悔いているのかもしれない。折角の精悍な面立ちが台無しだった。
政宗は孫市に外を指し示した。いい加減、孫市の相手は飽きていた。
「良い。幸村にはわし直々に話をする。お主は席を外せ、孫市。邪魔じゃ。」
「……あんまり苛めてやるなよ。」
孫市の失礼な言いように、政宗は鼻を鳴らした。
「誰が苛めるか。」
やがて孫市がいなくなると、気詰まりな沈黙が下りた。政宗は腕を組み、申し訳なさそうに委縮している幸村を見やった。
「それで、何の用じゃ。」
無論、敏い政宗には、問わずとも用向きなどわかっていた。幸村の手の中には、美しい髪結い用の細布があった。政宗の誕生日に贈物を寄越す心積もりだったに違いない。剥き出しのまま持ってくるところが、いかにも、こういうところで気が利かず愚直な幸村らしかった。
「その…申し訳ございません。」
「別に謝って欲しいわけではない。」
謝罪が欲しければ、その旨伝えている。今更、本心を隠し立てしなければならないような仲でもない。幸村と政宗は、いわゆる、気の置けない仲だ。それが変容してしまったのは、政宗が年頃の娘となったせいだろう。数年前から、互いを見やる眼差しが変質していた。
政宗は何事か紡ごうとしたが、何と言うべきかわからず、口を閉ざした。まったく、愚かしいにもほどがある。一国に値する茶器を高すぎる矜持ゆえに割った己が、これほどの贈物で一喜一憂するなど。
政宗は苦笑を湛えて、動揺から細布を背後に隠し目を落とす幸村の頬に手を添え、その面を上げさせた。戦場ではあれほど周囲を魅了する武士が、色恋となると臆病風に吹かれてんで使い物にならないのが、政宗には可笑しかった。幸村はいつもそうだった。
だが、性格上、腹を括れば変わるのは目に見えている。政宗は奮起した。
一度、酒量を過ごせば幸村も変わるかと思い、夜を徹して呑ませたこともあった。記憶が飛んでいるので怪しいところも多分にあるが、監視役で天井裏に張り付いていたくのいちに聞いた話では、政宗は半裸になって幸村に迫ったそうである。
翌日、二日酔いに痛む頭を押さえつつ、策は成ったのかと問えば、くのいちは居た堪れなさそうに目線を逸らした。顛末は推して知るべしである。
もはや、万策は尽きたと言って良かった。
だから、こうするしかなかったのだ。
「大方、わしの誕生日を祝いに来てくれたのであろう。――のう、幸村?」
「は、はい。何でございましょう。」
幸村は首まで赤らんでいる。政宗は込み上げる笑いを噛み殺した。
「一つ、強請っても良いか。」
「私で出来ることでしたら。」
予想通りの返答だった。政宗は幸村の手から細布を掠め取ると、幸村の首に巻き付けた。蝶々結びは、我ながら満足のいく出来となった。政宗は幸村の膝もとへ乗り上げ、首へ腕を絡めると笑った。
「幸村が欲しい。」
少し、あざとかったかもしれない。もしかすると、それ以上に、わざとらしかったかもしれなかった。だが、本心からの一言だ。
実際に口にするまでは、高すぎる矜持が邪魔するかという一抹の不安もあった。しかし、思いの外あっさりと、温め続けた恋情は唇からこぼれ落ちた。政宗は熱に浮かされたように想いを謳った。
「出逢ったときから、ずっと欲しかった。ずっとわしだけのものにしたかった。わしのものになれ、幸村。お主が自分をくれるなら、わしも貞節をもってお主に仕えると誓おう。だから、――」
幸村は政宗に皆まで言わせなかった。なるほど、確かに幸村は奥手かもしれなかった。しかし、己で言うほど愚鈍ではない。
押し付けられた唇と熱い抱擁に、政宗は身を捩って掻き抱き返した。暑さは嫌いだが、こういう熱さは嫌いではない。鼻から甘い吐息が漏れるのを合図に、押し倒される。ぽたりと零れ落ちた汗が、政宗の肌の上を伝った。外では松虫が鳴いている。政宗は書きかけの文に一瞥投げかけ、密やかに笑みをこぼした。妻には、事後承諾になってしまいそうだ。
胸中を読まれたのかもしれない。いぶかしんだ幸村が眉根を寄せて問うてきた。その眼は夏日のような熱情に煌めいている。
政宗は、世の女たち同様蓮っ葉に恋や愛を語るつもりはなかった。人間五十年。真実を求めるには、かそけき浮世はあまりに短い。
だが、なればこそ、これほど尊く眩いものもあるのだ。
「死が二人を分かとうとも、幸村、お主を愛すると誓おう。」
政宗は余所事を打ち払い、高らかに勝ち鬨を上げた。
初掲載 2012年7月9日