SO SWEET (冒頭のみ:覇―lord―)


 ざあざあと雨が降っていた。豪雨に、周囲の喧騒が掻き消されて消える。くのいちは幸村の前を駆けながら、その行く手を遮るものたちを露払いしていた。駆けても駆けても、自陣に辿り着かない。
 (…もう、流石に駄目かもね。)
 一抹の諦めが、くのいちの心を過ぎった。雨に打たれる身体は思いの他疲労している。徳川の多勢に圧されている現在、今更、戦況を覆せるとは思わなかった。家康殺害は失敗しているのだ。希望を託して、今一度急襲するには警戒されすぎている。何より、先ほどの単騎駆けが原因で、幸村自身にも疲労の色が濃い。あるいは、その戦闘の最中再会した伊達軍当主とそのとき告げられた事実に、か。
 幸村には子が居た。名を、大八、というらしい。幸村の知らぬ内に産み落とされた男児は、今年で二つになる、と政宗は告げた。三年前といえば、幸村が九度山に封ぜられていた頃だ。また、武に優れた幸村を懐柔し自軍に取り込もうと、政宗が足繁く通っていた時期でもあった。
 あの頃に、二人の間で何があったのかくのいちは知らない。
 『貴様が死んだら、大八は片倉家に養子に出す。真田の遺児などと、徳川に目を付けられとうないからな。』
 本人は笑みを浮かべたつもりだったのだろう。口端を歪めてそう告げた政宗の心情も、くのいちは知らない。知りたくもない。
 はたと、くのいちは向けられた殺気に気づいた。雨音に紛れて、音は聞こえない。だが、その研ぎ澄まされた神経が勘違いではないと告げている。くのいちは駆ける足を止めると、くないを立て続けに茂みへ投げつけた。幸村もくのいちの行動から敵の到来を察したのだろう。繰っていた馬が手綱を引かれ、嘶きと共に急停止する。泥が跳ねる。茂みが揺れ、さっと影が飛び出した。
 「…逃がさん…。」
 現れた男に獲物を構え、くのいちは舌打ちを溢した。今、会いたい相手ではない。家康の懐刀、半蔵率いる忍隊の登場に、くのいちの中で焦りが募る。五、六。繰り出された鎖鎌を双刀に巻き付け、半蔵を真っ向から睨みつける。九、十。敵の数は、時が経つほどに増えていく。幸村の振るう槍にも常の鋭さはなく、乱れが見て取れる。倒せるだろうかと逡巡するくのいちに背を合わせ、幸村が決意のこもった声で小さく呟いた。
 「くのいち、私が死んだときは…大八に仕えてくれ。」
 「…幸村様?」
 ざあざあと未だ雨は降りしきっている。一瞬、幻聴かと耳を疑うくのいちの僅かな隙を見逃さず、半蔵が強く鎖を引いた。多々良を踏み、辛うじて堪えるくのいちの耳に再び、幸村の声が掠める。
 「いや、忘れろ。」
 背中合わせのくのいちから、幸村の表情は窺い知れない。だが。
 「親たるもの、子の前に負ける姿を晒してはならないっ!」
 運命に抗うように上げられたその咆哮には、死に瀕した者の諦念などない。くのいちも最後の気力を振り絞り、半蔵を退けるべくくないを投げつけた。


 慶長二十年夏、大坂夏の陣――戦況、引っ繰り返りました。


 (…徳川は豊臣の二倍、軍勢があったはずなのじゃが。)
 (単純に計算すると、一人で二人倒せば良いだけですよね。)
 (無理矢理な理屈を捏ねるでないわ。劣勢は最早覆せぬものであったはずじゃ。)
 (この世に絶対などありません。)
 気難しい様子で前方を睨みつける政宗の手に、隣の幸村はそっと、周囲に見えぬよう配慮しながら己の手を重ね合わせた。絶対などない。それは、死地を潜り抜け、苦境を打開した幸村だからこそ誇って公言出来る事実だ。しかし、幸村にそぐわない自慢そうな態度が、政宗の気に触ったらしい。
 (って、何を勝ち誇った顔をしておる。馬鹿め。幸村のくせに生意気じゃ。)
 重ね合わせた手を、政宗に素気なく振り払わされた。そのつれない態度に内心苦笑しながら、幸村は耐え切れず口元を緩めた。だらしないその顔つきに、政宗が呆れて白い目を向けてくるが、気にする幸村でもない。幸せの絶頂にいる今、これくらいの戯れで悲壮感を漂わせろというのが土台無理な話なのだ。
 「…そこの御両人、少し静かになさってください。場を何と心得る。」
 二人だけに聞こえる声量で、片倉家の現当主重綱の叱責めいた苦言が飛んだ。うっと言葉に詰まる政宗の様子に、からからと女の笑い声を立った。くのいちだ。生真面目で硬すぎる嫌いのある重綱は、元々、軽薄なくのいちと反りの合わないところがある。くのいちもそれをわかっていて、わざと声を立てて笑ったのだろう。場の粛々とした雰囲気をぶち壊すその声に、重綱が思わず膝立ちになった。だが、くのいちの姿などもはや影も形もない。敵が退いたことを認識し、再び、二人に向き直ろうとする重綱の耳に、くのいちの嘲笑が追い討ちをかける。
 「にゃははは〜!鬼さんこちら〜、手の鳴る方へ〜!な〜んて☆」
 揶揄するように天井から降ってくる天敵の声に、重綱が有事の際にと立て掛けてある槍を引っ掴み立ち上がった。こうなれば、後はくのいちの思うが侭だ。
 がたんと音が立つ。きゃっ、と柄にもない愛らしい悲鳴がした。
 「…なあ、小十郎。おーい、二代目?」
 厳粛な場であることを弁えず、胡坐を掻いた上に当主の実子大八を乗せて遊ばせていた成実の呼びかけも、くのいち成敗に没頭する重綱の心に届くことはない。重綱は頭に血が上り、状況が見えていないようだ。
 ぎゃあぎゃあ響き渡る喧騒が、次第に遠ざかって行く。
 成実は苦笑をこぼすと、何もわかっていない大八と顔を見合わせた。後列のものたちは呆れた様子で、次々と席を外している。成実も彼らに倣い、重綱の怒りに巻き込まれないうちに、この場を辞退した方が賢明だろう。成実は大八を腕に抱きかかえると、これから呑み明かす算段を立てている孫市、慶次、兼続一行に仲間入りを果たした。主役が不在となった今、残る必要性はあまり感じられなかった。残ったところで重綱の八つ当たりのとばっちりを喰らうとなれば、当然、である。
 ようやく我に返り、青筋を浮かべたまま、再度主君に向き直った重綱の前に残されていたのは、綺麗に呑み干された三々九度の盃のみ。
 「あんの馬鹿夫婦…!内輪だけのものとはいえ…式を途中で抜け出すなど、言語道断だっ!」
 歯を食いしばって大いに悔しがる重綱を、元凶であるくのいちが再び笑って挑発したのは、言うまでもない。











初掲載 2009年8月23日