紫陽花


 政宗が最後に男に会ったのは、梅雨の頃のことだった。
 忍を付き従えた男は、政宗が柄になく身につけた紫陽花文の着物を、愛おしそうな目付きで見やった。そして、憮然としたような口調で、無理矢理褒め言葉を口から吐き出した。それらがあまりにちぐはぐなものだから、政宗は小さく噴出してしまった。
 政宗の記憶が確かであれば、男は『源次郎』という名前だった。忍の名は『くのいち』。
 だが、以来、その名を戦場で耳にしたことは一度もない。
 彼が属した武田軍は、信玄の死と共に瓦解し滅んでしまった。


 「それで、わしの嫁ぐ相手はどのような者なのじゃ。真田といえば耳にしたことはあるが、お目にかかった記憶はないのう。」
 政宗は持参金が積まれる様子を見ながら、傍らの小十郎に問いかけた。伊達の領土からは金が産出され、それを狙うものは大勢いる。それらから家を守るための、手段がこの婚姻だった。
 もっとも、この婚姻は政宗が自ら望んだわけではなかった。単純な話だ。今が弱肉強食の時代だからだ。
 政宗が当主を務める伊達家、そして伊達家が同盟を組んだ徳川は真田の武力の前に屈した。真田のどこにそのような力があったのかと思うような凄まじいまでの底力だった。地方の一武将と馬鹿にしていたのも敗因だった。まさか、あの直江兼続や石田三成を有する家だとは思いもしなかった。
 内心かなり悔しかったが、政宗は家を守るため真田に嫁ぐことに決めた。真田の次男坊から強く請われたためでもあった。記憶に残ることすらないような印象の薄い男に嫁ぐことになったのは、正直、妙な心地だったが、見も知らぬ男とはいえ、これほど恋われるのは政宗も満更でもなかった。
 「幸村殿ですか。真田の武勇、そして知謀といえば、あの徳川を寄せ付けないほどですから、政宗様もきっと気に入る方ですよ。」
 「そうか。」
 政宗は、訊く人選を間違えた、と内心思った。当然だ。主家になった嫁ぎ先の悪口を言って、主君を不安にさせる部下がいるはずもない。いるとすれば、それは、洩らす者がよほど愚直か、嫁ぎ先がよほど悪評高いかのどちらかである。
 「成実はおらんのか?」
 「残念ですが、出奔しました。政宗様が嫁がれるのが、よほど嫌だったのかと。探し出しますか?」
 「…そうか。いや、良い。すぐ戻ってくるであろう。」
 呆れ混じりに手を振って、政宗は身につけた花嫁衣裳を見下ろした。
 「…。くだらん。」
 白い絹のそれは本来幸せの象徴かもしれないが、政宗にとって死を意味していた。輿入れしたとき、政宗は伊達当主を終え、「男」の政宗は死の旅路へと着くことになる。今度ばかりは、はったりではない。背に負う金の十字架もないし、本当の命がかかっているわけでもないが、それは政宗の「死」以外の何ものでもなかった。
 「そういえば、政宗様は、小田原から白い着物を敬遠しておられますね。」
 心を読まれた気がしてぎょっとした政宗に、小十郎はいつもどおり柔らかく微笑んだ。読めるといえばどこまでも読めるが、こういうところは読めない男だ。政宗は小十郎を訝しそうに見てから、動悸を収めるため大きく息を吐いた。
 「それにしても…。」
 「それにしても?いかがなされました、政宗様。」
 「…いや。」
 小十郎にはそう返しつつも、政宗は内心首をかしげた。
 それにしても、どのようにして真田の次男坊は政宗のことを女だと知りえたのだろう。


 旅路の果てに着いた上田城は、思った以上に質素な城だった。強固ではある。が、一見した限り、粋を好む政宗の趣味ではないようだ。
 御輿から粛々と降り立った政宗は、精々媚を売ってその後影から操ってやろう、と真田用に浮かべた愛らしい笑みを、驚きのあまり凍りつかせた。
 「…、………、…………………………。は?」
 対する男は対称的に、心底嬉しそうに笑って言った。
 「お久しぶりです、政宗殿。」
 忘れるはずもない。態度はかなり改まっているが、間違えるわけがない。
 『源次郎』と呼んでいたあの男だった。




 「なにゆえ、貴様がここにおるっ!」
 式を終え二人きりになるなりきゃんきゃん鳴き出した花嫁の姿に、幸村は懐かしさゆえの感慨を覚えた。
 数年前はまだ幼さばかり目立って仕方がなかったが、後に会った政宗は当主らしい落ち着きを身につけていたので、どうも幸村は敬遠してしまった。が、そう人間は変わるものではないということか、こうして会ってみると昔のままだ。愛らしさはそのままで、美しさも兼ね備えたように見える。蝋燭の灯りの下では、艶めいてさえ見えた。友人にして部下である兼続や三成にそれを洩らせば、目の錯覚だ、と怒られるだろうが、幸村にはそう見えるのだから致し方あるまい。
 ああ、天下を統一して本当に良かった。
 幸村は胸を熱くして、衝動のままに政宗を抱きしめた。
 頭突きをされた。
 「う…お…お変わりないようで。」
 痛む顎を押さえ呻く幸村に、政宗は不満そうに鼻を鳴らした。その子供らしい様も愛おしくてたまらず、思わず頬を緩めた幸村にとうとう堪忍袋の緒が切れたのか、盛大な勢いで政宗が騒ぎ出した。
 「馬鹿め!貴様などでは相手にならんわ!責任者を出して来い!誰だ!あのじじいがまだ生きて、楽しんでおるのか!」
 「じじ…いくら政宗殿とはいえ、信玄公をそのように仰らないでいただきたい!違います!これは私が望んだことであって。いた、痛っ。ま、政宗殿。殴らな、」
 幸村の願いを聞き届けたのか、政宗は花婿の足を蹴りつけて大声で叫んだ。
 「煩い呆けーーーーーーーーーーっ!」


 現在、『源次郎』という名から元服して『幸村』に変わり、『くのいち』は出奔したのだという幸村の説明に一応納得はした様子ではあるものの、政宗は以前機嫌を損ねているようで憮然と外を眺めている。とてもではないが、初夜を迎えられるような状況ではない。怒りからか、想い人の目にうっすらと涙が浮かんでいるのを見止めて、なおさら、幸村は切り出しにくくなった。
 それでも、尖った唇に触れてみたいと思う心に偽りはない。
 幸村は困りきって頬をかいた後、ふと、政宗の視線の先に気付き、草履を引っ掛けて庭に降り立った。政宗のためにと急ごしらえで設えた庭には、紫陽花が植えられ、咲き乱れていた。
 幸村はそれを一輪手折り、政宗の小さな手に受け取らせ、はにかんだ。
 「そういえば、小田原以来、政宗殿は白い着物がお嫌いでしたね。今日は申し訳ありませんでした。」
 「…全くじゃ。…、この紫陽花で侘びになるとでも思うておるのか?」
 「はい。花嫁衣裳に縫い込めませんが、これでは駄目でしょうか。はじめて、政宗殿が女物を召されているお姿を見たのも、紫陽花文でした。」
 ますます嫌そうに顔をしかめる政宗に、幸村は笑みを浮かべて言った。
 「あのときから、ずっとこのような日が来ればと願っておりました。政宗殿のことが忘れられませんでした。遅ればせながらの言葉となりますが…、心からお慕い申し上げております、政宗殿。」
 「……、…。」
 ふいと政宗が顔を逸らし、紫陽花の茎を強く握り締めた。
 「わしは、お主が死んだのかと思って、ずっと探しておったのに…。しかも、今更好きなどと。わしは幸村のことを兄のように思うておったのに…この、裏切り者。」
 逸らされた政宗の顔は、耳まで赤く色付いている。ああ可愛らしいなあと思う幸村の前で、政宗は心底恥ずかしそうに呟いた。
 「わしも大好きじゃ。馬鹿め。…本当に、生きていてくれて、良かった。」
 本当に無理矢理にでも結婚して良かった、と幸村は思いながら政宗を強く抱き締めた。











初掲載 2008年6月8日