未練がましいことをしているとは思わないで下さい。私は復讐がしたいのだ。
シラー『旅』
1:始まり(戦国無双)
2:知に過ぎれば(無双OROCHI / 蜀軍)
3:色惚け(無双OROCHI / 決戦)
4:本当は知らない(無双OROCHI / 決戦後)
5:遠呂智軍(OROCHI再臨 / 長坂の戦い)
6:女と女(OROCHI再臨))
7:眠れる日々(OROCHI再臨)
8:嘘を吐く(OROCHI再臨 / 決戦)
9:似たもの(OROCHI再臨 / 決戦後)
10:焔と灰(戦国無双2)
11:不滅なんてない(戦国無双)
敵である己を見逃すのかと問うと、その者は、何がおかしいのか笑った。その者は言った。彼は聞いた。彼は、その者の言葉を一つ残らず記憶に残した。
その者は言った。彼の、これからの生を決定するであろう言葉を。
それだけで、彼が恋に落ちるには十分だった。
>ページトップへ
「真田幸村は、わしの、初めての男であった。」
そう言って、政宗はちらりと眼前に座する男を上目遣いに見やった。内心、面白いことになったとも思った。おそらく、男と顔を合わせまいとする政宗への対策なのだろう。男は誰の入れ知恵なのか、旋忍の格好をしていた。確かに、これは、面を隠す効果はある。だが、それ以上に風体が怪しすぎると何故誰一人として男に教えてやらなかったのか。蜀の面々は妙なところで抜けているから、困る。政宗はふっと笑った。
「もっとも、当人は覚えておらぬであろうがな。」
それから政宗は、幸村との馴れ初めから終わりまでの物語を男に向かってとうとうと語った。初めて出会った頃、政宗は膝を常に擦り剥き、身体の節もでこぼこしていて、実に不器量な童であったこと。何が契機となったのかわからぬが、年端も行かぬ政宗を幸村が抱いたこと。その状態はしばらく続いたこと。そして、ある日はたと音信が途絶えたこと。
「やつは、紫の上を育て上げた源氏にでもなろうとしたのやもしれぬ。わしにはわからぬ。だが、やつはわしに恋の苦楽を散々教え込んでおきながら、二度と姿を見せなかった。」
信じられないのだろう。政宗だとて、聞く側であれば、こんな馬鹿げた話毛頭信じない。だが、相手は、心根が真っ直ぐすぎて不器用な男だ。膝の上で固く握り締められた男の拳に、今では柔く白い手を重ねて、政宗は花のように微笑んだ。
「のう、幸村。お主が今のわしを作り上げたのじゃ。」
その手を取り、己の頬に当てさせ、するすると胸元へ下ろしていくと、笠越しにも幸村が動揺したのがわかった。それがおかしくてたまらず、政宗はそのまま幸村の手を引き、畳へ傾れこんだ。
己を見下ろす男は困りきった様子で、身を硬くしている。
「わしの言うことが信じられぬのか、幸村?…そんなこと言えぬくらい、楽しませてやる。」
政宗は幸村の笠を剥ぎ取り、半ば無理矢理、唇を重ねた。さあ、この先どうなるのだろう。はたして、愚直な幸村は、この嘘としか捉えられぬ戯言を信じるだろうか。それとも、やはり、信じぬだろうか。
「おい、どうしたんだ?」
一体何があったのだろう。孫市は、心ここにあらずの状態で、飯が冷めていくばかりになっている幸村を訝って、声をかけた。すると、鈍い動きではあったが、幸村が反応を示したので、孫市は多少なりとも安堵した。だが、常は高血圧ではないかと疑いたくなるほど朝から元気で、我武者羅に鍛錬に励んでいる印象の強い幸村が、この様子とは。不安に駆られながらも、原因がわからないでもなかったので、孫市は小さな声で尋ねた。
「やっぱ、政宗と何かあったのか?」
途端、幸村は肩をびくつかせてから、周囲に漏れ聞こえていないものか慌てて見回した。こうなれば、最早、幸村がこうなっている原因は一つしかない。孫市のダチにして、幸村をずっと敬遠している政宗だ。はたして政宗は幸村に何を仕出かしたのか。幸村の一生の心の傷になるようなことであれば、旋忍の格好で会うことを提案した孫市にとって、決まりが悪い。困った孫市は、幾度か頭をかき、言いかけては口を閉ざすことを繰り返した後、ようよう幸村にことの次第を尋ねた。
意外だったのは、幸村の反応だ。
幸村は孫市の問いかけに、昨夜あったことを反芻しているようだった。それから間を置かず、その頬や耳は、火でも着くのではないかという勢いで赤く染まっていった。
知らぬ者が多いとはいえ、伊達にダチや部下をやっていない。孫市は当然政宗の本来の性別を知っていたので、昨夜幸村と政宗との間に起こった出来事を察することが出来た。何より、あのこと、もある。その可能性が十二分あることは以前より承知していた。
それでも、どう対応したものか考えあぐねて、結局、孫市はへらりといつものだらしない笑みを浮かべた。
>ページトップへ
戦場に降り始めた雪に、幸村は政宗を思い出した。現在、遠呂智の支配する異界にいるが、本来であれば、かの人は深く雪に閉ざされる国の王であった。そう、王なのだ。幸村ごとき兵が手を伸ばすことすら許されぬ高みに位置する王の一人が、政宗だ。幸村は物憂げな様子で溜め息を吐いた。何故、これほどまでに身分が違うのだろう。
だが、幸か不幸か、この異界が発端となって、幸村は政宗を抱くことを許される身となった。政宗の肌は、この雪の如く、月光に照らされ青くさえ見える白さを湛えていた。口付ければ綺麗に花が散り、幸村は、新雪を踏み荒らす幼子にも似た高揚を覚えた。
そこまで考えて、幸村は真剣な面持ちで頭を振った。
いや、あの肌の白さは冷淡な雪の白というよりも真珠の如く柔さと温かさを含んだ白だ。冬も本番になりかけていることもあり、政宗を抱きしめたときの柔さと温かさは、夏以上に心沁みるものがあった。懐石代わりに胸に預けた肢体を、甘えた様子ですり寄せ、もっとと強請る政宗の様など、まさに、雪国の女は情にこわいという言葉そのままで、幸村は幾度夜を徹して政宗を喜ばせたことだろう。戦地にあって、政宗とも離れ離れで、そうしてやれないことが非常に悔やまれる。今年初めての雪だ。寒い思いをしていないだろうか。一人で寂しい思いをしていないだろうか。散々言い含めてきたが、考えるだけで、心配になってきた。
そこまで考えて、幸村は情けない顔で頭を抱えた。
一体、自分は何を考えているのだ。ここは戦地ではないか。惚けている場合ではない。さあ、戦だ、戦。戦支度をせねば。他所事など考えている暇などない。幸村は己に言い聞かせるべく、ぶつぶつ小声で呟き始めた。
「…何、一人百面相してるのかしら。幸村殿。これから、まさに、決戦だというのに。」
端から幸村の様子を眺めていた星彩の問いかけに、孫市は緩く頭を振った。
「言ってやるな、星彩。たぶん、あいつ、撃沈すっから。」
>ページトップへ
戦前に振り出した雪は止むこともなく、地面を白く染め上げていた。遠呂智との決戦に勝利した幸村は、興奮冷めやらぬ様子で、政宗の待つ城へ急いだ。しかし、喝采を挙げる人々の中、政宗の姿は見つけられなかった。
やがて、幸村は、鍛錬場の隅で、青白い顔をしている政宗を見つけた。
「政宗殿、如何してこのような場所に…そのような薄着では風邪を召します。」
離反したとはいえ、かつては仕えた身である。政宗は遠呂智の死を悼んでいるのだろうか。だが、そのようにも見えず、さしあたって幸村は政宗を暖かい室内に入れるべく、腕を伸ばした。
まさか、振り払われるとは思いもよらなかった。
「お主は知らぬのじゃ、幸村。」
幸村の腕を振り払った政宗のそれは、寒さ以外の何かで細かく震えていた。同様に、政宗の瞳も涙を湛え、震えていた。
「お主は知らぬのじゃ、幸村!わしは、わしは、…お主をあの日大坂で…!それに、わしは…。わしは…。」
そこで口を噤むと、政宗は目を伏せ、その途端零れ落ちた涙に幸村が目を奪われている隙に、何処かへと走り去った。
そして、そのまま姿を消してしまった。
>ページトップへ
「政宗さんも、わかってたはずでしょ?何で、今更やり直せるかも、なんて思ったの?」
そう、妲妃の言うとおり、わかっていたはずだった。政宗は苛立ちを目に、妲妃を睨みつけた。
かつての幸村との関係は、何故生じたのかもわからぬものだった。当時の政宗は、幼子ながら、大人のように冷めた理性でそのことを重々承知していた。なので、しばらくまんじりともせず男の便りを待った後は、すっかり待つことを止めてしまった。そして、自ら再び、女として歩む生を放棄した。それから、二度と男に会うまい、と子供の潔癖さで固く心に誓った。幸村が、己だけの紫の上を育てるという戯れに飽いたのだろうと思ったのだ。
だのに、時代は、会いたくないという政宗のささやか願いすら許さずに、大坂で幸村と再会させた。
幸村は政宗がその手にかけるまで、政宗のことを、知らぬかのような態度を取り続けた。己に男というものを教え、己を女にし、心を奪ったくせに―――死してなお、幸村はその態度を死守した。
許せなかった。それ以上に、悔しく、哀しかった。
政宗は生まれて初めて、母に毒を盛られたとき以上に、絶望したのだ。
だから、復讐しようと思った。
そして、その復讐がお門違いのものであると知らされ、己の生きる道を失った。
遠呂智が討たれた日。元主の様子を見てくれようと蜀へ来訪し、目的を果たせなかったくのいちは、政宗に語った。くのいちは、何の気なしに話したのだろう。だが、それが政宗に与えた衝撃はすさまじかった。
幸村は、記憶を、失くしていた。己との蜜月というには甘さから遠い逢瀬の日々も、互いに貶しあいながらどこか認めていた過去も、彼が心の拠り所とした信玄のことも、無二の部下であるくのいちのことも、何もかも。
信玄の不慮の死と戦で負った怪我が原因の幸村の記憶喪失を、幸村の父昌幸は必死に隠蔽した。丁度、長篠で惨敗を喫した後のことでもあったので、武田と縁を切り、くのいちに暇を出し、そうして、何もなかったことにした。実際巧いやり方だった。だが、昌幸は知らなかったのだ。年若い己の息子が、幼いとも呼べる奥州の大名と関係を結んでいたなど。くのいちは記憶を失くす前の幸村に命じられたとおり、そのことに関しては、口を噤んで話さなかったし、一方、当事者である政宗は幸村の記憶喪失を知らなかった。
知らなかったのだ。しかし、今更、知らなかったといって何の言い訳になる。政宗はかつて幸村に捨てられた己が、彼の心を奪い、逆に捨ててやるつもりだった。そうして、復讐を成就するつもりだった。だが、実際は、無駄足を踏んだばかりか、心を奪われている。
本当の恋人になれた気がした。本当の夫婦になれる気がした。
しかし、それらを虚言で築いたのは政宗だ。大坂で殺めた手前もある。
これ以上、何かを求められるわけがない。
政宗は、復讐がしたかった。己に男というものを教え、己を女にし、心を奪ったくせに、何もなかったかのような顔で死んでいった幸村に復讐がしたかった。許せなかった。それ以上に、悔しく、哀しかった。
寂しかった。
唇を噛み締め俯く政宗に、妲妃は憐憫の眼差しで嘆息し、見かねたように手を差し出した。
「ま、良いわ。また、宜しくね。政宗さん。旅は道連れ、世は情け。修羅道は、一人より二人の方が楽しいものね。」
>ページトップへ
「政宗ちんは知らないんだよ。幸村様が、上田で、どんな顔してたか。」
己の情報の漏洩が原因で、政宗が再び遠呂智軍に帰化したという思いがあるのかもしれない。くのいちは一二度言葉を捜して唇を噛んでから、ようやく、政宗に話し始めた。
「一度も幸村様は政宗ちんに連絡したことがなかったけど、しようとは思ってたんだよ。でもね、全部、文面が気に入らなくて捨てちゃってたの。可愛い、って。可愛い、それしか思い浮かばないって。それしか思い浮かばないから、ちゃんとした文にならないっていう理由で。文を認めるために政宗ちんのことを思い出すだけで、でれでれしちゃって。」
それから、後ろめたそうに目を落とし、くのいちは瞬きした。
「幸村様は一度も言ったことなかったかもしれないけどさ、幸村様はちゃんと政宗ちんのこと、」
それ以上、もう何も、聴きたくなかった。
>ページトップへ
何なのだろう。脳裏を駆け巡る見知らぬ記憶の数々に、幸村は小さく頭を振った。
信玄公のことは、父や兄の関係でぼんやりと知っている。だが、己の記憶はここまで詳細に渡っていたのだろうか。記憶の中の自分は、信玄公のことを御館様と呼び、無二の主と慕っている。わからない。
くのいちという女のことも、見知ってはいる。だが、彼女は己の部下だったのだろうか。記憶の中で、幸村様、と女が呼ぶ。わからない。
何も、わからない。
これは何の戦の場面だろう。幸村は頭に浮かんだ画面に、眉をひそめた。そうだ。負け戦のことだった。敵は北条と、その同盟国である―――。
―――。
「見逃すのか…。北条の同盟国が、武田の兵である私を?」
徒歩の幸村に、童が相対している。年のころ十と少しの童は馬上で、太陽の位置の関係か、面が良く見えない。だが、何となく声に聞き覚えがあった。
「人は生垣、人は城。ここで貴様一人露と消えたところで、石ころ一つ欠けたようなもの。何ともなるまい。」
そう言って、童は馬鹿にしたように幸村を嗤った。何となく、嗤い方にも覚えがあった。
「それよりも、明日功名を挙げ、信玄に尽くすことを誓って、ここはひとまず生き延びてみたらどうなのじゃ。今は石ころでも、いつか花開くときが来るやもしれん。」
一瞬、童は何を思い返したのか、遠い目をした。その目に浮かんだ寂寥、その台詞に、幸村は胸を打たれた。
「死して花実が咲くものか。惜しむほどの名になってから、死を選ぶのじゃな。」
童は言った。幸村のこれからの生を決定するであろう言葉を、そして、二度と忘れることがないであろうかれの名を。
「…名は?」
「はっ。雑兵に聞かせてやる名など持ち合わせてないが、特別に、教えてやる。わしの名は、―――。」
―――?
頬を張られた心持で、幸村は目を見開いた。
死ぬことはあっても、この出会いを忘れることがあるなど思わなかった。敵は北条と、伊達軍。そして、童は在りし日の幼い政宗だ。
初めて出会った頃、政宗は膝を常に擦り剥き、身体の節もでこぼこしていて、実に不器量な童だった。だが、幸村は気にならなかった。恋しくて仕方なかった。その「行為」の意味も知らない政宗を抱いたことは、卑怯と呼ばれても仕方ないことだった。だが、それでも欲しかった。
この世界で初めて関係を持った日、政宗は幸村に告げた。
「やつは、紫の上を育て上げた源氏にでもなろうとしたのやもしれぬ。わしにはわからぬ。だが、やつはわしに恋の苦楽を散々教え込んでおきながら、二度と姿を見せなかった。」
そして、己の無骨な手に、柔く白い手を重ねて花のように微笑んだ。
「のう、幸村。お主が今のわしを作り上げたのじゃ。」
それに、政宗はこうも言っていた。
「もっとも、当人は覚えておらぬであろうがな。」
あの日、政宗は幸村に真実を告げたのだ。
>ページトップへ
「政宗殿、本当にお嫌なら、どうかこの手を撥ね退けてください。」
そう言いながら緩く腰に回された腕に、政宗は小さく頭を振った。
「…無理じゃ。」
「それは、何故です?」
「幸村は、おのこで…、わしが、おんなじゃから。」
幸村の静かな眼差しを向けられ、政宗は両手で顔を覆い、再び頭を振った。視界が滲む。堪えきれず込み上げた嗚咽を漏らすまい、と、政宗は強く目を瞑った。引きつり、咽喉が痛かった。
「それに、剣がない…銃も。」
「…それでも、政宗殿が本気で抵抗すれば、逃げ出せるのですよ?」
窘める幸村の口調は、この上なく優しい。ひっく。一つ、嗚咽がこぼれた。
そんな事実、政宗だとて知っていた。政宗が本気を出せば、きっと、幸村はこの手を離すだろう。離さないで。そう言いたかった。離されない理由がなかった。
かつて、政宗は幸村に抱かれ、己が女であることを知った。だが、関係はどうあれ、あの頃政宗が幸村に対して抱いた感情は、ままごとのような拙い恋だった。知らなかった。恋がこんなに苦しいものであるなら、その事実を知っていたなら、政宗は女に戻らなかっただろう。
愛するのが怖かった。逃がして欲しかった。離さないで欲しかった。もう、二度と。
―――愛していた。
幸村は、閨で良く政宗が幸村にやってやったように、政宗の髪を優しく梳いて額に唇を落とした。
「政宗殿。」
そして、身を震わせ泣きじゃくる政宗に言った。
「愛している、と、言ってください。」
>ページトップへ
幸村の説得に応じた、という建前で日ノ本の軍へ降った政宗に、手が伸ばされた。丁度、幸村が信長や信玄にこのことを報告しに行っている最中のことだった。
頬を張られるのだろう。何しろ、信玄の説得に応じるでもなく、最後まで敵としてあり、それどころかかつて遠呂智軍の将として彼女を捕らえていた過去がある。己が一発殴られる程度で伊達の存続が許されるならば、安いものではないか。そう腹をくくって政宗が瞼を瞑ると、眦にいまだ浮かぶ涙を優しく拭われた。
「馬鹿ね。涙は、女の武器。もっと美しく泣かなきゃ駄目じゃない。目許は腫れてるし、鼻まで垂れたのね…。男の前で泣いたことは誉めてあげるけど、これじゃ…。」
そうこぼしながら、ガラシャで慣れているのだろうか、手馴れた様子で政宗に手ぬぐいを渡し、鼻を噛むよう薦めてくる濃姫はどこまでも優しかった。あの濃姫が、と、現状を疑えば良いのか惑えば良いのかわからず、政宗が眼を瞬かせると、濃姫に手ぬぐいを差し出したねねと視線が合った。ねねは、濃姫が隣にいるためか、緊張した面持ちで深く頷いた。良く分からないが、これは、濃姫の好意を受け取れということだろうか。泣いたせいで疲労状態にあったこともあり、考えることを放棄した政宗は言われたとおりにした。その様子に満足したらしく、濃姫は嘆息した。
「ガラシャと違って、貴女はわかっているものと思っていたけれど…やっぱり、まだまだ子供ね。武器は磨かなければ、単なる持ち腐れよ。」
「…怒らぬのか?」
「あら、どうして?」
そう濃姫が心底不思議そうに問うものだから、これには政宗も、己の方が認識を間違っているのではないかと不安になってきた。今まで敵だったのだ。少なくとも、政宗は敵対関係にあると信じきっていた。その敵を受け入れることに対して、しこりはないのか。
しばし思案した末、政宗は首を左右に振った。
いや、普通はあるだろう。
重ねて言おうとする政宗の唇を、濃姫が人差し指で押さえた。
「女の笑顔は男が作るもの。女が不幸なら、それは、選んだ男のせい。貴女は間違ってないわ。ねえ、ねね?」
「はっ、お濃様。仰るとおりです!」
やはり濃姫がいるせいか、緊張した面持ちで大きく頷いたねねの返事に、濃姫は気を良くしたらしかった。高らかに、濃姫は笑った。
「これからはもっと、幸せそうに笑いなさい。貴女が選んだ男は、ようやく、貴女を見つけたんだもの。」
いつ、政宗を女だと気づいたのか。どこまで、幸村と政宗のことを知っているのか。濃姫に対して尋ねたいことは多々あったが、全部問うだけの気力もなく、政宗は一つだけ尋ねた。
「…何故、わしが幸村を選んだと?わしと幸村に接点など、まるで、なかった。」
政宗の性別も知っている。前の世界での出来事のこともある。何より、幸村のことを避け続ける政宗に、旋忍の格好をして会うよう助言したのは孫市だという。だから、孫市や、遠呂智軍に在籍していた折接点のあった者たちは察していたようだが、他に、幸村と政宗の関係を知っていた者はいないはずだ。先の世界では接点がまったくないし、こちらの世界に来てからも、政宗は表立って幸村と接するような真似を控えていた。孫市やくのいちはあれで口が堅いし、敵方の妲妃が漏らすわけがない。もちろん、伊達軍の将兵がばらすなど論外である。
確かに、と政宗は内心頭を抱えた。確かに、幸村は少々色惚けしておかしくなっていたかもしれない。だが、まあ、あれも世間の許容の範囲内だろう。そもそも、政宗の性別がばれていないのだから、幸村の恋と政宗を関連付けるはずがない。
ない、はずである。たぶん。
しかし、長坂での幸村は、端から見れば、敵将を口説いているにしては、少々必死すぎたかもしれない。政宗も、少々取り乱してしまったかもしれない。
当時は余裕がなかったとはいえ、流石に、今にしてみると恥ずかしい思い出の数々に、政宗は面を覆いたくなってきた。穴があれば入りたいとは、このことを言うのだろう。これでは、かつて三成と愛人の間柄を勘繰り、戦場で愁嘆場を繰り広げたという呂布並みの愚かさではないか。
「あら、おかしなことを訊くのね。」
濃姫は顔を赤くした政宗を興味深そうに眺めた後、ようやく、ねねも気づいていなかった事実を察したのか、おかしそうに口端を吊り上げた。
「でも、あんなに自明の理なのに、案外、周りは気づかないものね。じゃあ、私が直々に教えてあげるわ。特別に、ね。」
濃姫は笑った。
「ひとりの男だけを見つめてみる女も、ひとりの男からいつも眼をそらす女。結局、似たようなものじゃない?」
ひとりの男だけを見つめてみる女と、ひとりの男からいつも眼をそらす女とは、
結局、似たようなものである。
ラ・ブリュイエール
孫市は「記憶を失う以前の幸村」とも親交があったので、秀吉が逝去した後、同じ西軍に所属したことで、幸村が記憶を失くしたことを知った。だが、政宗はどうなのだろう。孫市の知っている限りにおいて、政宗が、「記憶を失った幸村」と接触を持ったことはなかった。おそらく、孫市以上に幸村と親交のある兼続や三成も、同じことを言うだろう。
政宗は、周囲によって本人にすら秘匿されている幸村の秘密を知っているのだろうか。
しかし、孫市は楽観視していた。「記憶を失す以前の幸村」と政宗の関係は、ありていに言えば、敵同士だった。謙信と慶次による川中島での腕試しで、二人がもっと親密になることは可能だったのだろうが、みなが勝利に酔う中、慶次への義理を果たした政宗はさっさとその場を後にしたのだった。したがって、幸村と政宗の関係が単なる敵同士としか捉えられなかった孫市には、政宗に、幸村の秘密を打ち明ける必要性が感じられなかった。わざわざ死んだ敵に心を裂くものもいないだろう、そう思ったのだ。
また、孫市は、周囲によって秘匿されている政宗の秘密も心得ていた。「ダチ」という関係が漏らしたのではないその秘密は、あの一夜、酒の力で漏らされたのだった。
その晩、政宗はいつになく酒を過ぎているようだった。しかし、まだ、伊達に降って一月しか経たない孫市には、その酒量が過ぎているものと理解できるわけもなく、ただ、降したばかりの己を前にずいぶん腹を割るものだと感心していた。
「あつい。」
一刻ほども経っただろうか。ふとこぼされた呟きに視線を向けると、酒精に顔を赤くした政宗が内掛けを脱いだところだった。そのときになってようやく、孫市は、奥州とはいえ夏の暑さの厳しい夜に、政宗が内掛けを羽織っていた事実に気が向いた。それに少し奇妙さを覚えたのも束の間のことで、孫市は、次々に脱ぎ捨てられていく衣服に隠されていた政宗の秘密を知った。
秘密を知って、どうしたか。
流石に女好きとはいえ、孫市は慌てた。相手は女かもしれないが、その前に、ダチだ。眼福と喜べる心境でもなかった。
「ちょ、待て…政宗!」
「しかし、あついのじゃ…身体が火照って。」
そう言って、最後の砦である腰帯も解こうとする政宗の手を押しとどめ、孫市は呻いた。
「お前な、もうちょっと、女なら慎みを持て…。相手が俺だったから良かったようなもんを。」
「…孫市だからじゃ。」
視線を落として、そう応えた後、政宗は帯に添えていた手を孫市の首に絡めた。
「この火照りを鎮めてはくれぬのか、孫市?」
武家の女からの扱いが酷いとはいえ、それでも、市井の女にはもてる孫市である。このような状況に陥ったことも一度や二度ではない。だからこそ、政宗の目に浮かぶ真意に気づいた。
「悪いが、俺は、どこかの男の代わりになるつもりはないぜ。」
途端、政宗は孫市から身を離し、屈辱に口端を震わせて嗤った。
「はっ、貴様もか。どうせわしは、醜女じゃ。」
そうではない、と返す言葉を失わせたのは、政宗の眼からこぼれた涙だった。眼から剥がれ落ちるようにこぼれたそれは、まるで、竜の鱗のようだった。痛みに身を震わせ、心を剥がしながら、政宗は孫市の胸元を掴み上げた。
「忘れようと思うておるのに、未だあやつに焦がれるわしを嗤えば良い。あやつの焔が、未だこの身を苛むのじゃ。…この想いが灰になれば、忘れられれば…わしの心はどれほどの安寧を得るか…!」
孫市は政宗の本当の秘密を知らなかった。
それは、丁度、幸村を討ってから一月目のことでもあった。
>ページトップへ
「…何故、あんなに愛らしいのだ。」
奥州での逢瀬からの帰り道。口元を押さえて怒ったように幸村が呻いた。くのいちはわざとらしく首を傾げ、尋ねた。
「幸村様、涎でも垂れそうなんですか〜?口元押さえて。」
「違う!そうではない、ただ。」
「あーはいはい。良かったですね〜。」
そこで話を打ち切ると、ぐっと幸村が悔しそうに言葉を呑んだ。それがおかしくて、くのいちは笑った。わざわざ奥州まで足を運ぶ幸村の本気を、くのいちがわからないはずもない。馬上の幸村を見上げて、くのいちはにっと笑いかけた。
「その台詞、政宗ちんに言ってやれば良いんですよ。あたしなんかじゃなくて。」
「…そのようなこと、言えるか。」
「何でですか?つけあがるから?本気ではそう思ってないから?」
もちろん、くのいちもそう思って問いかけたわけではない。それがわかるからこそ、茶化されたことに腹を立てたらしく、幸村はくのいちを睨みつけた。
「違う。それしか言えぬなど、語彙がないのかと呆れられてしまうだろう。」
「ああ。そうですね。政宗ちん、子供だけど博識だから、可愛いしか言えないんじゃ確かに駄目ですね。」
「だが、可愛い、しか思い浮かばないのだ。」
幸村とて、武田で確たる地位を築いている真田のものである。方々から縁談が舞い込んできているし、市井での人気も高い。美しい娘を求めてのことならば、わざわざ奥州のあんな、女らしさの欠片もない筋張った子供を選ぶ必然性はない。先を見込んでの関係であるなら、織田のお市の方が将来を見込めるだろう。無論、財力や地位を狙っての関係ではない。
それでも、誰よりも何よりも、政宗が愛らしくてたまらなかった。
「幸村様は、政宗ちんのことが、本当に好きなんですね〜。」
あの戦馬鹿で朴念仁の幸村様が恋に盲目なんて、こりゃ、何か騒動が起きるかな。内心、くのいちは呆れて溜め息をこぼした。
奥州から戻れば、信玄の本願である上洛である。当然、信玄を御館様と慕う幸村も、その上洛には付き従うことになる。その道程には、徳川の治める三河もあるだろう。半蔵に会うことの出来る未来を思って、くのいちは期待に胸を弾ませた。
「ま、良いかにゃ〜。雨でも槍でも降って来い☆」
まさか、こんな能天気に構えていた上洛があんな結末になるなんて、このときは想像すら出来ていなかった。
>ページトップへ
初掲載 2008年1月前半
正式掲載 2009年2月15日