春を待つ人 第五話   現代パラレル


 雑賀孫市には生涯勝てないと思い知らされた人間が、この世界に、たった一人だけいる。
 彼女の名は豊臣ねねという。孫市の親友秀吉の妻だ。問答無用が体現したような聴く耳持たない肝っ玉母ちゃんで、かかあ天下のかかあそのものである。ねねに関しては、あの濃姫ですら一目置いているほどの強さなので、秀吉や孫市がこてんぱんにのされたとしても仕方あるまいと思う他ない。だが、孫市は、この世で史上二人目の「勝てないと思い知らされる人間」が出来そうな予感をひしひし感じていた。
 今、孫市の目の前にはトレーニングウェアに着替えた政宗がいる。少し脇に視線を逸らすと、使い古され色褪せたサンドバッグがぶら下がっている。もう少し脇に視線を逸らせば、縄跳びにダンベルと、枚挙に暇がない品物の数々だ。ガレージとは、本来、車を置くための場所ではなかったか。孫市は遠退く意識で思った。
 「つか、これ、俺が戦うのか?!」
 「わけを訊きたがっておるのは貴様であろう。ガラシャではない。」
 貴様、呼ばわりだ。どうも完全に政宗は怒り心頭しているようである。これでは、説得も何も出来るはずがない。
 「さあ、戦うのか?それとも、敵に背を見せておめおめと逃げるのか?」
 「敵、て。ちょ、ちょっと待てよ!政宗と俺はダチ、だろ?」
 「ガラシャはわしの味方をするよな?」
 「勿論じゃ!」
 政宗とガラシャに完全に流され立場を失う孫市の肩を、そのとき、凌統が手を置き引き止めた。
 「俺がやります。孫市さん…孫市さんにここまで迷惑かけられないっす。」
 「凌統…お前、起きたのか。」
 「いつまでも寝てられないっすよ。」
 凌統は気丈に笑い、己の恋人をひたと見据えた。その目を剣呑に政宗が睨み返した。一触即発の空気に、格闘技をまるで嗜んでいない孫市は少し意識が遠くなった。こんなぴりぴりした空気、ファミレスで体験したあの緊張よりは幾らかマシだが、それでも、好んで体験したいとは思わない類の空気だ。孫市の隣で、ガラシャもごくりとつばを呑んだ。
 やがてためらいがちに、凌統が口を開いた。
 「政宗…。車の中で聞いた。お前、結婚式って…。」
 「うるさい!もうその話はなしじゃ!貴様なぞ信じたわしが馬鹿じゃった!」
 みなまで言わすまいと政宗が凌統へ伸ばした腕を、凌統は跳んで避けて、低く呻きともとれない非難を叫んだ。
 「お前、ふざけんなよ!馬鹿はそっちだろ!」
 「っうるさい!貴様に言われとうないわ!馬鹿め!何が馬鹿じゃ!馬鹿っ!」
 「なっ、言ったな?!つーか俺だって覚えてたし!政宗が覚えてる態度見せないから、俺が空回ってるよーな気分味わってきたんだっつーの!全部心の中で決着つけてさ!言えっての!大体、馬鹿っつった方が馬鹿なんだからな!」
 「そう言う貴様が馬鹿であろう!言うだけ言って口先だけの貴様よりはよっぽどマシじゃ!何じゃ!そもそも約束すら忘れてたくせして!わしは凌統が全国一位になるまで待っとったのに…、距離が離れれば心も離れるなんて、有言不実行で不誠実な貴様こそ馬鹿じゃ!この、痴れ者っ!」
 手も出る足も出るの乱闘の末、やがて取っ組み合いになった二人を、孫市は呆れた眼差しで見ていた。何てことはない。結局、心配と不安で奔走させられたが、他愛もない痴話喧嘩なのだ。俗に、馬に蹴られて死んじまえ、犬も喰わない、というではないか。孫市が頭を掻き隣を見やると、ガラシャは手に汗握り、政宗のことを懸命に応援していた。
 政宗も凌統も柔道着でない。そのため寝技に持ち込めもせず、投げ飛ばす決め手にも欠いている二人は、組み合いながらぎりぎりと睨みあった。
 決め手は、凌統の一言だった。
 「んだよ!留学も結婚も、勝手に一人で全部進めやがって!嫁さんが一番綺麗になる手伝いさせろっつーの!俺だって、俺だってな!マリッジブルーとかそんなん忘れさせて、幸せ太りさせるくらいは、政宗のこと愛してるっつのっ!それに、俺だって…俺だって覚えてて、政宗に結婚指輪買うために、必死になって、バイトしてんだよっ!」
 タン、と軽い音が立った。凌統の吐露に、思わず政宗も気が抜けたらしい。ガレージの地面に押し倒された政宗が凌統を真っ直ぐに見上げ、問いかけた。
 「…本当か?また、口先だけであったら、わしは、許さんぞ?」
 「いつ、俺が口先だけだった、ってんだ、よ?いつでも、約束、守ってんだろ?」
 肩で息をして途切れ途切れの台詞ながらも、凌統はにっと不敵に笑った。
 「ただ、俺は、政宗がガラシャには言って、俺には言ってくれなかったのが、悔しくて寂しかっただけだって。」
 「…嘘吐け。言ったら絶対反対しおったくせに。」
 「そりゃ、四年は長いし。でも、言ってくれたら、俺だってきっと留学したのに。」
 凌統の台詞に、政宗がおかしそうにけらけら笑った。それはどこか泣きそうな顔だった。
 「また、お主は、口ばっかり。」
 「口先だけじゃねーよ。政宗がいれば、俺は地獄でも生きていけるぜ?」
 凌統が不満そうに唇を尖らせ、それから、ゆっくりと政宗へ顔を近づけた。
 「…馬鹿め。」
 「だーかーら、馬鹿って言った方が馬鹿だっての。」
 政宗が腕を伸ばし、凌統の首に回して引き寄せた。


 「良い子は見ちゃ駄目だ。」


 孫市は、格闘時以上に手に汗握り二人の様子を見ているガラシャの目を掌でそっと覆い隠すと、首根っこを掴んでガレージを抜け出た。これ以上、邪魔をするのは忍びない。孫市は疲れた自分を自覚した。今日、男だと思っていた政宗が実は女だったということが発覚し、政宗とガラシャの留学も知らされて、凌統と政宗が恋人どころか結婚するらしいことまでわかった。許容量の限界を軽く超えている。これでは、孫市の頭が現実逃避を仕出かしたとしても致し方ない。
 車に向かったところで、ガラシャが孫市の腕を振り払った。
 「孫!良いところじゃったのにっ!孫の鬼!悪魔!馬鹿めっ!」
 「馬鹿って言った方が馬鹿だって、凌統も言ってただろ?」
 「それでも馬鹿なものは馬鹿じゃ!」
 ガラシャが頬を膨らませて、助手席に乗り込んだ。孫市は大きく溜め息を吐いた。
 「結局、それで、三月二十二日って何があるわけ?お前の結婚と?」
 「政宗のハネムーンじゃ!政宗は凌統と、留学先の政宗のアパートでしばらくいちゃいちゃ過ごすらしいぞ。…孫、早う乗らんか!」
 「はいはい。ったく。」
 孫市は再び溜め息を吐くと、ガレージを一瞥し車に乗り込んだ。
 「んじゃ、行くとしますか。明日に向かってっ、てか?」
 助手席のガラシャが夕日を指差し、乙女の笑みを浮かべて叫んだ。
 「ゴー!なのじゃ!」


 雑賀孫市には親友もダチも舎弟もいる。
 親友が実は女だったり、しかも舎弟と結婚したり、ダチもダチで留学したり、結構忙しい者ばかりである。彼らは時折、若さゆえのごたごたで面倒事を持ち込んだりするが、孫市はそれはそれとして内心楽しんでしまっている。兄貴風を吹かすわけでもないが、そういうポジションが心地良いのだ。
 彼らの結婚式を想像して、孫市は一人へらりと笑った。車窓から吹き込む風はまだまだ冷たいが、それでも、その先には春が待っている。春の後は夏が来るはずだ。もしかしたら秋が来て冬も到来するだろうが、結局、その後は春が来て夏が巡ってくる。少しくらい騒いだところで、たぶん、実際的には何も揺らいだりはしていないのだ。きっと、成長している証、なのだろう。
 「どーりで、俺も年取ったわけだよ!」
 孫市の言葉に、ガラシャも楽しそうに笑い声を立てた。


 もうすぐ、春になる。











初掲載 2008年3月23日