その日、一人の女が、発売した写真集のサイン会で、都内某所にある大型書店へ来ていた。
女の名は、「政宗」。ここ数カ月で人気が急上昇したグラビアアイドルだ。政宗が表紙を飾る雑誌は売り上げが8%も上昇し、イメージキャラクターを務めた商品は平均して1割も上昇した。驚異の経済効果といえる。現在、政宗が出演しているCMは2本、レギュラー番組が1本に準レギュラーは3本。大学入学を機に上京し、路上でスカウトされてから、一年に満たないことを考えれば、異例の人気だ。
ここ数カ月の目まぐるしい芸能活動で、女優業に転向しつつある政宗ではあったが、グラドルを完全に辞めるつもりはなかった。多少齧った程度で女優面できるほど厚かましい性格ではなかったし、それ以上に、グラビア撮影を気に入っていた。純粋に、愛していたといっても良い。常々呆れ交じりにマネージャーが言うように、政宗には少なからずナルシストの気があった。
そんな風にして自身の職業を心から愛している政宗ではあったが、初めて、この道を選んだことを後悔していた。
眼前には嫌になるくらい整った面立ちの男が、蔑むような眼差しで政宗を見下ろしている。否、政宗が蔑んでいるように受け取っただけかもしれない。だが、前世で敵対関係にあった男が相手なので、政宗がそう受け止めたとしても早計ではなかった。
唇が震え、慄きと共に男のかつての名を紡ごうとした。しかし、実行に移す直前で、政宗はそれが得策ではないと気付いた。このような公共の場で騒動を起こそうものなら、どんな邪推を招かないともわからない。実際、政宗の一挙一動を見守るファンの一部からは、既にいぶかしむような視線を向けられている。
タイムスケジュールを一元管理しているマネージャーの促しもあり、政宗は多少ぎこちない笑みを浮かべ、男から写真集を受け取ると律儀にサインした。こっそり忍ばされていた紙片には、男のものと思われるアドレスが記載されていた。それと、何処かの店の住所と時刻も。政宗は内心躊躇ったが、次回のサイン会でも同じ思いを味わうのは沢山だと判断し、腹をくくってそれを受け取った。男と握手をしている最中も、何らかの圧力をかけられているようで、まったく生きた心地がしなかった。
まさか、前世の知り合いに見つかるとは。
政宗は悔やんでも悔やみきれない思いで、残りのサイン会を過ごした。
だが、これほど華々しく活動しているのだから、当然の結果ではあった。
サイン会を終え、打ち上げを途中で抜け出した主役の政宗は、寒空の下、渋い顔で歩いていた。抜け出そうとしたところを見咎められ、一気飲みをさせられたので、思った以上にアルコールが回っているらしい。せかせかと動く脚は、常の優美さを備えておらず、逃亡者のそれと非常に似通っていた。あるいは、酔っ払いのそれと。
政宗はまったく面白くなかった。前世との繋がりなど、絶ったつもりだった。怨恨だらけだった前世から引き継ぐべき事項など、数えるほどしかない。それゆえ、ごく限られた、今生でも関係を持ちたいと思えるような幾人かとのみ関係を持続させ、それ以外の不要なものは排除してきたつもりだった。
一体どこの誰が、好んで、不快な思い出を引き摺りたがるというのだろう。特に、それが前世で敵対関係にあったものとくれば、言うまでもない。
政宗には、男がどうしてあれほどまでに自分のことを毛嫌いしているのか理解できなかった。一度は窮地を救ってやったというのに、男の中で政宗の評価は暴落したままだ。しかしだからこそ、もっともな理由なしに、男が政宗の今の順風満帆な生をぶち壊したとしてもおかしくないと思えるのだった。
顔を見られないよう口元までマフラーを引き上げながら、政宗は指定されたカラオケ店の扉を開いた。常は分刻みのスケジュールをこなす日々だが、幸か不幸か、明日は大学の講義のため休暇扱いとなっている。仮に今夜の出来事が尾を引いたとしても、明後日には持ち直すことができるだろう。
政宗には、騒動を起こすつもりはなかった。記事に取り沙汰されてしまうような馬鹿な真似を仕出かせば、それは、男ではなく自分の破滅に繋がるからだ。
それこそ、男の目論見通りではないか。
目覚めたとき、政宗は見知らぬ場所にいた。あまりの酒臭さに、気持ち悪さがぶり返してくる。殴られるように痛む頭を押さえ、政宗は上半身を起こし周囲を見渡した。とにかく、胃をすっきりさせたかった。
良く言えばシンプル、悪く言えば貧乏臭い部屋だった。一目で賃貸とわかる作りで、必要最低限のものだけが、部屋の隅に追いやられている。コンポやテレビといった道楽のための電化製品は一切なく、ノートパソコンが一台テーブルの上に置かれていた。参考書がずらりと並んだ小型の本棚は、上に積み重ねられた辞書が今にも滑り落ちそうだ。もしかすると、最近越して来たばかりで荷を解き終えていないのかもしれないと判断するには、あまりにも、雑然とした本棚だった。
政宗は、寝かされていた安っぽいストライプの布団をはねのけると、ふらつきながらトイレへ向かった。本心からいえば、気持ち悪さをぶり返させる酒臭さを落とすため、ャワーも浴びたかった。しかし、ここがどこなのかわからない今、それは望めないだろう。
それでも、政宗は楽観していた。何故、このような場所で目覚めたのかはわからないが、服も着ているし、想定されうる中で最悪ということはあるまい。それに、気持ち悪さのせいで思考もまとまらず、適当な判断を下すことが難しい状況にあった。
洗面台で口をゆすいだ時点で、ようやく気分も落ち着いてきた。鏡の中の虚像は、如何にも具合が悪そうな白い面をしている。政宗は嘆息して、洗面台から顔を背けた。
政宗は決して酒が強いわけではない。好んでいるだけで、強いわけではないのだ。今生では流石に真似できないが、前世において、二日酔いで約束をすっぽかしたことも、一度や二度ではなかった。酒癖も決して良いとは言い難く、どちらかといえば絡む傾向にあった。
無論、政宗は、陥る結果を知っていながら、酒を呑みすぎる自分を愚かと思う。だからこそ、今生では粗相をしないように気をつけていたのだが…、……。
ふと、そこで、政宗は首を傾げた。そういえば、誰かと何か約束をしていた気がするのだが、あれは一体何であったか。約束が判然としないながらも、政宗は時間を確認した。夜中の2時だった。
政宗のような生活をしていると、決して遅いとはいえない時刻だ。だが、一般には十分遅い時刻に該当するはずで、ここの住人の姿が見当たらないのはまったくもっておかしな話である。広く見積もって八畳、ロフト付きのアパートで、人一人を見失うはずもない。それに、こんな風に闖入者がばたばたしていたら、何事かと様子を見に来るようなものだが、その気配もない。一体、住人は何処へ行ってしまったのだろう。
眉をひそめる政宗の前で、玄関のドアノブがゆっくりと回された。コンビニの袋を手に、顎と肩口で携帯電話を固定して通話中の男と、大きく目を見開いた政宗の視線が重なった。男――三成の顔を見た途端、政宗は状況を理解した。待ち合わせ場所に着いて5分も経たぬうちに、酔いが回り切って倒れ伏したのだ。原因は勿論、一気飲みである。
あの馬鹿な行為さえしていなければ、こんな失態を晒すこともなかったろうに。読んで字の如く、後から悔いばかり沸いてくる。しかし、今更どうしようもないことは明白だ。政宗は気まずさから、視線を逸らした。
「悪い、もう大丈夫だ。…ああ。夜更けにすまなかったな。」
三成は携帯を切ると、憮然とした表情で政宗を睨みつけた。三成の怒りももっともだ。政宗は叱られた子供のようにばつの悪い思いをした。だが、元々、三成が呼び出さなければ、打ち上げを抜けようとして一気飲みさせられることもなかったのだ。
大体、どのような用件で呼び出したというのか。
反感を奮い立たせて睨み返す政宗の眼前に、コンビニの袋が突きつけられた。不審に思いながらも受け取り、中を覗き込んだ政宗は、より一層眉間のしわを深めた。酔い覚ましのスポーツドリンクは、適当に選んだのだろう。しかし、一緒に入れられた抹茶味のアイスとみかんゼリーは、何なのだろう。この組み合わせを偶然選び取ったというには、些か作為的だ。だが、政宗のことを何より毛嫌いしている眼前の男が、政宗の好物を知っているはずもない。
政宗はいぶかしんで、さっさと室内へ引き込んでしまった三成を振り仰いだ。それか、これも策のうちなのかもしれない。そう思えば、政宗はこの異常な事態もすんなり呑みこむことができた。決して、警戒を怠らないことだ。
そんな政宗にとって、続く三成の吐露は青天の霹靂だった。
政宗は我が耳を疑い、それから、何らかの罠を見出そうとして三成に疑惑の眼差しを向けた。勿論、前世にせよ今生にせよ、先に三成が放った類の言葉を告げられたことは多々ある。相手にかかわらずその言葉は嬉しいもので、政宗はいつも心浮き立たせた。しかし、素直に喜ぶには、相手が相手だ。それに、きっと聞き間違いだろう。聞き間違いに決まっている。妥当と思われる結論を下すと、政宗は胸を撫で下ろした。
全く、無駄な葛藤に時間を費やしてしまった。
「すまん、聴こえなかった。」
政宗はそう言って、スポーツドリンクに手を伸ばした。動転しかけた気を落ち着かせる必要があった。キャップを捻り、口をつけようとしたところで、咎めるような視線を感じたが、政宗は意に介さなかった。三成はあの発言にかなり気を使ったらしい。しかし、聴き取れなかったものは聴き取れなかったのだ。その事実は如何ともし難いではないか。
三成が再び、渋々といった様子で口を開いた。
「だから、」
苛立っているようだ。政宗は努めて平静を装いながら、スポーツドリンクを飲んでいた。
「好きだと言っている。」
政宗は吹いた。次いで、むせた。気管支にスポーツドリンクが入り込んだらしい。
今度も幻聴と決めつけるのは、流石の政宗をもってしても困難な所業だった。三成は確かに、好きだと言った。誰を、とこの状況下で問い返さねばならないほど、政宗も愚かではないし、失礼でもない。
だが、解せない。
何故、三成はそのような錯誤に陥ったのだろう。錯乱といっても良いと思う。狂気の沙汰だ。原因不明ながら、あれだけ、前世では政宗のことを憎んでいたではないか。やはり、何らかの罠なのか。政宗は涙の滲む目で、三成を見やった。
しかし、潔癖な三成は、このような罠を好まぬはずだ。
そう判断してしまうと、政宗の思考は行き詰まるしかなかった。三成が自分を好いている、あるいは、好いているものと錯誤している。とすれば、どうすれば良いのか。
勿論、政宗にはどうしようもない。精々それは勘違いだと三成に教えてやれるくらいだ。
「前から好きだった。」
半ば、こうなることを想定していたのだろう。動転している政宗とは対照的に、三成は淡々と言った。
「清正や正則に命を狙われた時、俺があれだけ伊達を邪険に扱っていたにもかかわらず、お前は救いに来てくれた。」
「兼続の馬鹿に借りがあったからじゃ。」
言い聞かせるため、含みを持たせないようきっぱりと否定する政宗にも、三成がめげる様子はない。
「危険を顧みずやって来てくれたお前を前に、俺は、それまでの伊達への対応を初めて後悔した。あれほど躍起になって伊達を排除しようとしなければ、お前は俺の傍らにあったかもしれないのに。」
三成の発言に、政宗は躊躇いがちに唇を開いた。夢を見ている眼前の男に、この錯誤を錯誤とはっきり告げても、良いものだろうか。だが、ここではっきりしなければ、後々まで尾を引くことは明白だ。迷惑を被り、傷付くのは、まず間違いなく自分の方である。政宗は意を決して、それを口にした。
「三成、吊り橋理論というものがある。」
無論、わざわざ説かなくとも、三成は知っていよう。それほど、有名な理論だった。
「それは、単なる錯誤じゃ。来る死を前にして、お主はそれに対する恐怖を恋のときめきと錯誤してしもうたのじゃ。」
「…それは、俺も考えた。」
ならば何故、と思わず眉をひそめる政宗に、三成が嘆息した。
「前から、お前のことは気に食わない男だと思っていた。気に障って仕方がなかった。…あの戦闘は、単なる切欠に過ぎん。寝ても覚めても、新しい生を与えられても、お前のことが頭から離れなかった。」
想像だにしない吐露に身を固くする政宗へ、いっそ開き直った様子で三成が続けた。
「吊り橋理論で、そのような状況下で落ちた恋は、長続きしないものと説明される。…あれから、何十年経った?どれだけの時が過ぎた?」
勿論、異常な状況に対峙している恐怖を、恋によるものと錯誤している可能性は十分にあった。
「なあ、政宗。」
当然、政宗には、騒動を起こすつもりはなかった。記事に取り沙汰されてしまうような馬鹿な真似を仕出かせば、それは、三成ではなく自分の破滅に繋がるからだ。
迷惑は被りたくないし、恋に破れて傷付きたくもない。
それでも…、
「お前はそれでも、錯誤と説くか?」
それでも、抗い難い衝動に駆られ、政宗は間にテーブルを挟んだまま三成に抱きついた。三成は目を白黒させている。これだけ、180度態度を変えられれば、当然のことだろう。それに、幾らか、政宗の酒臭さにも閉口しているらしい。三成は顔をしかめて、政宗へ酒臭さを落としてくるよう勧めた。つまり、シャワーを浴びて来い、と。
とはいえ、三成に他意はなかったに違いない。政宗にまじまじと注視されて、ようやく、自らの言動が招きかねない事態を理解した様子だった。羞恥からか、見る間に赤らんでいく三成は見ものだった。
見目を損ない疎まれた前世が原因で、今生の政宗は身体の手入れに余念がない。だから、初めての経験を積もうかいう状況下でも、何ら困るような点はなかった。
それに、最早、『兼続に借りがあったから仕方なく。』といった自らに言い聞かせるための言い訳も必要ではない。ならば、過度のアルコールと脳内麻薬に身を投じたところで、悪い方へ転がるはずもなかろう。
政宗は、その意図されなかった誘惑を興と判断し、三成へ含みのある一瞥を投げかけると、心底楽しげな足取りでシャワールームへと向かうのだった。
初掲載 2010年3月28日