伊達政宗を少しでも知る者ならば承知していることだが、彼女は決して夢見がちな性質ではない。むしろ、シニカルな人物として広く知られていた。だから、雑賀孫市は政宗がチョコレートの香りを漂わせているという事実を認識しても、決して、バレンタインのためにチョコレート作りに励んでいるといった誤解は抱かなかった。大方、バレンタインの特設コーナーでバイトでもし始めたのだろうと思い、実際、政宗に尋ねてみればそのような返答だったので、少し詰らなく思ったくらいだ。けれど、孫市は政宗に甘く、保護者気取りだったので、そんな政宗の働く場面を目にしても良いかと思い、わざわざ駅前のデパートまで遠征したのである。今流行りの逆チョコという現象に乗っかったその特設コーナーで、見目好い政宗は客引き目的でもって、男性のために女性向けのプレゼントを選ぶ係員にされたと耳にしていたので、いささか気後れして、知人も幾人か誘っての遠征だった。
その知人の中に、恋に悩んでいるらしい男を紛れ込ませたのは、孫市の純粋な善意である。少しぐらい面白がらないでもなかったが、このブームに乗っかって告白でもすれば良いと思ったのだ。その保護者役である豊臣秀吉も、秀吉の妻であるねねも、孫市の意見には大同意だった。
誤解する者が間々あるので断っておくが、孫市は政宗の一番の親友である。恋人でも愛人でもないし、当然、紐ではない。では、恋人でも愛人でも紐でもないのになぜ同居しているのか、と問われれば、孫市が返答に詰まることはもちろん多々ある。自分が政宗の保護者役を買って出たからだ、と抗弁を口にするようにしているのだが、それは決して嘘ではないが必ずしも真実ではない。実家と縁を切った政宗に金がないからだと言えればことは簡単なのだろうが、彼女のプライドと名誉のため、そんなこと、孫市には口が裂けても言えないのだ。
それに、孫市や政宗の私生活を知る者ならば、自明の理であることがあった。二人は決して二人きりで暮らしているわけではないのだ。男女二人きりの生活など、政宗の守役である片倉小十郎が許さなかったであろうし、もう一人の同居人の父親である明智光秀も許さなかっただろう。そう、政宗と孫市の生活には、もう一人、ガラシャという小娘が紛れこんでいるのである。こちらは、家を追い出された政宗と違って、自ら飛び出してきた口だ。
孫市は、年々小悪魔めいてくるグラドルも真っ青の政宗と、少し色ものめいてはいるものの正統派美少女ガラシャに挟まれ、さんざんな日々を送っていた。これで少しでも色めいたものがあれば、孫市も諸手を挙げてこの美少女たちとの生活を歓迎するのだが、女好きの孫市にしては珍しいことに、この二人に対してはいささかの欲も沸き起こってこないのだ。気分はまるきり近親である。しかも、年頃の娘たちに振り回され、くたびれきった父親だ。
それを、少しでも孫市と政宗のやり取りを知っているものであれば、感じ取ることが出来るはずなのだ。スカートの丈が短すぎる、帰宅が遅すぎる、やましいバイトじゃないだろうなと口酸っぱく言っている孫市の姿は紛うことなく父親でしかなかったし、あるいは、孫市に優しい見方をすれば、妹を溺愛している兄そのものだった。
しかし、そういう雰囲気を感じ取れ、といっても無駄な輩は存在するものだ。たとえば、眼前でまさしく水も滴る男状態の石田三成のような輩である。孫市は、一体何が起こったのか理解できなかった。しかし、何かがあったのだということだけは自明の理である。孫市の脇を、目尻を釣り上げた政宗が走り去っていった。きっと、化粧室で泣くのだろう。通り過ぎさま窺った政宗の傷付いた様子に、孫市は、この遠征に三成を誘ったことを後悔し始めていた。
三成は憮然としていた。大衆の面前で顔から水をぶっかけられれば、それも当然のことだろう。それに、美男美女の醜態ということもあって、好奇の視線はすさまじいものがあった。思わず、駆けていく政宗へ何事か言い募ろうとする三成の口を手で覆い、孫市が秀吉と二人で特設コーナーから距離のある男子トイレへ連れ込んでしまうくらいには。
ねねが防寒対策でワゴンカーにいつも載せているタオルケットを取りに行ったのを見計らって、秀吉と孫市は三成に釈明を求めた。政宗が三成に泣かされたのは紛れもない事実で、二人とも自他ともに認める女好きだった。そうでなくとも、孫市は政宗の保護者役だと自負している。
「何も話すことなどありません。」
「てめえ、政宗を泣かしておいて何もないたあどういうことだ。」
自然気色ばみそうになる孫市の肩を抑え込み、秀吉がなおも問うた。
「一体何があったんさ。三成、おみゃあさん、ねねから訊かれてもそう答えるつもりなんか?はっっっっ倒されるぞ?」
三成はなおも言い難そうに視線を落としていたが、やがて、唇を開いた。
「俺は悪くありません。俺はただ、」
「ただ?」
「政宗が薦めてきたものを、あいつにくれてやっただけです。」
どう意味なのだろう。思わず対応に困り、顔を見合わせる男二人の元へ、ねねがタオルケットとユニク@の袋を手にやって来た。ねねは三成の台詞を耳にして、少し困ったように眉を上げてみせたものの、とりあえず後で口を出すことに決めたのか、タオルケットで甲斐甲斐しく三成の髪や顔を拭き始めた。そして、急いで買ってきたらしいユニク@の衣服を押し付け、着替えてくるよう命じた。
それは、傍から見れば、おかしな光景だったろう。何せ、男子トイレに女性がいて、良い年した青年の世話を焼いているのだ。いつもならば苦笑しながらも面白がるところだが、今の孫市にはそんな余裕すらない。
「なあ、あれ、どういう意味なんだよ。」
せっついた孫市と右に倣えの表情をしている夫へ一瞥投げかけた後、ねねは頬に手を当てて溜め息をこぼした。
「あの子は、政宗のことが好きなのよ。うまくいくかと思ったのに、裏目に出ちゃったわねえ。こんなことなら、もっと、あの子たちの性格を考えとくんだったわ。」
孫市は隣の秀吉の顔を見た。秀吉もうまくねねの言葉が呑み込めないようで、豆鉄砲を食らった鳩のような顔をしている。孫市と秀吉はしばし見つめあった後、再び、ねねの方を向いた。
「「はあっ?!!」」
声が綺麗に揃ったのは、言うまでもない。
憤怒の形相で鏡面台に腰を下ろした政宗に、仕事をさぼってそこでくのいちとおしゃべりに興じていた甲斐は目を見開いた。甲斐は決して政宗と仲が良いわけではない。そりが合わないというのももちろんある。家庭の事情でただでさえ政宗のことが気に食わないのに、体力馬鹿の甲斐と違って文武両道で、恋の話なんてこれっぽっちも興味はありませんと素知らぬ顔をしているものだから、なおさらむかついて噛み付くという状況だった。
それでも、明らかに泣き腫らしたとわかる同性を前に、何事もなかったかのようにおしゃべりを続けるほど無情でもない。甲斐は珍しく困ったようすでくのいちと顔を見合わせた後、これまた珍しく恐る恐る、メイクポーチを漁っている政宗へ話しかけた。
「…どうしたのよ?」
「別に。」
いつもの甲斐であったなら、そんな政宗の対応に腹を立てただろう。しかし、絶対に何かあったと思われる様子の政宗を咎める気すら起こらず、どうしたものかとくのいちと再び顔を見合わせた。
「ねえねえ、話してみたらちょっとは楽になるかもよ〜?」
散々泣いてウォータープルーフのマスカラさえも流れ落ちたものだから、先にメイクを落としてきたのだろう。政宗はリキッドファンデーションを手のひらに出しながら、ちらりとくのいちへ一瞥投げかけ、溜め息を吐いた。
「良いな、お主のところは。幸村はさぞ優しい男であろう。」
「え、あ、うん。幸村さまはすっごい優しいけど。」
くのいちは柄にもなく顔を赤くして狼狽してみせたものの、ここで、はっと我に返ったらしい。
「…って、あたし別に付き合ってなんてないし!」
ばたばたと手を顔の前で振って、今更ながらに全力否定してみせるくのいちに、再び政宗は大きく溜め息をこぼした。
「ほ、本当にどうしたのよ?張り合いないじゃない。」
身を乗り出して尋ねる甲斐に、政宗がぶるぶると怒りに身を震わせた。怒りの原因に思いを馳せているらしく、リキッドファンデーションの容器がみしりと不吉な音を立てた。ぎりぎりと容器を握り締めて、政宗が呻いた。
「わしも、」
「…わしも?」
「幸村のような男に惚れれば良かったのじゃ、それをかようなど阿呆なぞに!」
三度目の正直とばかりに、再度、甲斐とくのいちは顔を見合わせた。どうも、素晴らしくシニカルで恋や愛といった幻想からもっとも遠いと思われた人物が、恋で悩んでいるらしいのだ。もっとも、恋愛話大好きな甲斐やくのいち以外の人物がこの場にいたならば、これを悩みとは表さなかっただろう。激怒、というはずである。
急に好奇心を煽られて、甲斐は政宗の方へ椅子を近づけた。一瞬、不信の目で政宗が甲斐を一瞥したが、気にしないでと化粧続行を推奨し、甲斐は心浮き立たせた。甲斐は政宗に好意を寄せているとは言い難いし、むしろ嫌ってさえいたが、それも、政宗の女の子らしい悩みを耳にするまでの話だ。はたして、どんな恋の悩みが出てくるのだろう。にんまりほくそ笑みわくわくする甲斐の態度から、政宗もその思惑を悟ったらしいものの、口を噤んで抗う気力もわかないのか、それとも、恋という一点に関しては甲斐を信頼しているのか、嘆息交じりに経緯を語り始めた。
政宗は内心辟易していた。彼女に贈りたいというので親身にプレゼントを考えてやれば、何を勘違いしたのか言い寄ってくる客にも、売り場から姿を消して、おそらく化粧室で談笑でもしているのであろうバイト仲間にも、うんざりしていた。
そのとき、孫市が豊臣一家を伴って姿を現したのは、良い気晴らしになった。政宗はなおも言い募ろうとする客ににっこり微笑みかけ、振られてしまえと呪いをかけつつ商品をその手に載せると、手を振りながら孫市の方へ近づいた。
「何じゃ、来たのか。」
「まあな。で、この悩める青年に何か身繕ってくれよ。」
そう言って孫市が三成を前へ押し出した時点で、政宗の笑みはぴしりと凍りつき、接客用の代物と化した。何故ならば、三成は政宗が密かに想いを寄せている男だったからだ。だが、ほいほいとそのような感情を示せるものならば、これほど政宗は苦労していない。孫市はお手並み拝見とばかりに、壁際で秀吉と話しながらこちらの様子を窺っている。ここで失敗しようものならば一週間はネタにされるだろう。それがわかるからこそ、政宗も絶対三成に気があるそぶりなど見せまいと躍起だった。
「それで、どんな女性へ贈るのじゃ?」
政宗は一般的な「単なる顔見知り」が取るであろう差し障りのない範囲で、三成に尋ねた。本心では、三成の気を引いたその人物のことを根掘り葉掘り聞いて貶したくて堪らなかったが、そんな対応は大人げないし、みっともない。
内心ジレンマに陥りながらも理性に忠実であろうとする政宗へ、三成はいつもどおりのさして興味がなさそうな態度で答えた。
「…さあ、さして知らん。」
「好いておるのであろう?興味を持たぬのか?」
「あまり会わぬし、会っても話さないからな。知っていることといえば、両手で足りる程度だ。」
ならば何に惹き付けられたのだ、と食いつきそうになる自身を制し、政宗はばれぬように深呼吸をした。大体、自分も三成に関しては、さして知らないのだ。それでも落ちる恋もあろう。
そう考えたのは、墓穴だった。政宗はどうにか笑顔の奥に押し隠していたが、早く帰宅してサンドバッグをぼこりたくてたまらない気分になっていた。しかし、当然のことながら、感情を隠すことに長けている政宗の真意など気づくこともなく、三成が続けた。
政宗は黙って、それを静聴することにした。
三成から想い人の情報を聞けば聞くほど、政宗は憂鬱な気分になってきた。生理中でもこれほど荒んだ気持にはならないだろう。おそらく、もう二度と戻るものかと固く決意をして実家を出たあの日でさえ、失意のうちに沈んではいたものの、これほどささくれ立った気持ではなかっただろう。
三成の想い人は、何でも器用にこなすらしい。絶世とはいかないまでもそれなりの美少女で、周囲に常に信奉者をはべらしているのだとか。同性にとりわけもてるものの、だからといって異性との関係が悪いということもなく、男友達は引きも切らない状態らしい。実際、三成の親友が彼女の友人なのだとか。
一時、夜の繁華街でバイトをしており、そのことが原因で、紐と思しき同棲相手と口論になったようだ、という話になった時点で、政宗の限界は頂点に達した。何と、三成の意中の相手には、男がいるのだ。それも、単なる恋人ではない。紐である。しかも性質の悪いことにその女は、紐へ貢ぐ金を稼ぐため、連日あくせくとバイトに明け暮れているそうではないか。
「金目のものでもくれてやれば良い。ブランド物のバッグとか、財布とか、アクセサリーとか色々あるであろう。」
舌打ちをこぼしそうになる苛立ちを制し、努めて平静な声で答えた政宗は、特設コーナーで一番高価なアクセサリー類を薦めることにした。一応、このバイトは時給制なのだが、売上が良ければ給与に跳ね返ってくる制度も併用していた。三成は女に高価な贈り物をして気に入られ、政宗は幾許かの金を手にする。まったく、万々歳ではないか。政宗は胸中ふんと鼻を鳴らして、特設コーナーの隅に設けられたアクセサリーコーナーへと向かった。
一番値が張っている代物は、ハートに成形されたルビーが金で縁取りされているネックレスだった。政宗の趣味からすればいささか少女趣味だが、一般的な女はこういうものを好むものだろう、と投げやりになりつつそれをショーケースから取り出し、反応を窺うと、三成は考え込んでいる様子だった。
「政宗は、なぜ、このアルバイトをしているのだ?」
多少なりとも憮然とした口調になってしまったのは、政宗のせいばかりではないだろう。世間が恋人の行事に浮かれている時期に独り身でいなければならない人間で、一体誰が好き好んで、金目的以外でこのような他人の恋の手助けをするような仕事をするというのか。もちろん、政宗はきっぱりと答えた。
「決まっておる、金が欲しいからじゃ。」
明け透けな政宗の返答に気分を害したのか、三成は不快そうに顔をしかめた。だが、政宗の擦り切れた忍耐は、もうそこまで三成を思いやれる状態ではないのだ。政宗は無言で、三成にその商品を握らせた。
一刻も早くここから立ち去って姿を消して欲しいという政宗の望みが叶ったのだろう。三成はしげしげとネックレスを眺め、それから、嘆息交じりにレジへと向かった。
これで、ようやく責め苦から解放されるのだ。政宗は心の底から安堵の息を吐いた。自分は成し遂げたのだという達成感と苛立ちで胸がいっぱいだった。
係員用に置かれているカップを手に取り、隣の売店から少しだけ氷を分けてもらって、美味しさの欠片も感じられないミネラルウォーターを味わっていると、三成が近づいてきた。
そして、会計を済ませてきたのだろうネックレスを渡して言った。
「くれてやる。」
その顔に、金に困っているのだろうという憐憫がよぎった気がして、政宗は考えるより先に、カップの中身を三成へ浴びせかけていたのだった。
話を聞き終えた甲斐は、少しだけばつが悪そうに視線を落とした。政宗が指摘したようにおしゃべりに興じてバイトをさぼっていたのは事実で、否定のしようもない。
が、だからこそ、気まずさを打ち消すように甲斐は拳を握り締めた。
「石田三成ったら、ほんと、最低ね!どうしてそんな男に惚れちゃったのよ、政宗?!」
「わかっておればかように苦労しておらん。」
それもその通りだ。甲斐はあっさりと突っ込みを受け入れると、首を傾げた。
「それにしても、その女、誰なのかしら?三成の親友ってことは、清正や正則じゃないんでしょ?兼続とか幸村とか?」
そこで、くのいちが恐る恐る挙手すると、意見を口にした。
「ねえ、その人って、政宗のことじゃないの〜?」
本当に思いがけない意見だったのだろう。面喰った様子で顔を見合わせると、政宗と甲斐は声を揃えて否定した。
「ありえん。」「ありえないっ!」
きっとこの場に義マニアの直江兼続がいれば、まさかこの二人が、と感動したことだろう。意気投合した様子で三成の悪口を言い始めた二人に、くのいちはさてどうしたものかと頭を悩ませた。
その晩、ねねは三成への誤解を晴らそうと政宗を邸へ招いた。政宗は本心では辞退したかったが、その晩は何も予定が入っていないと孫市に知れてしまっているし、ねねには大変世話になっているので拒むわけにもいかず、豊臣家を訪れた。三成のことを毛嫌いしているガラシャが一緒だという事実も心強かった。きっと、ガラシャは門前払いよろしく三成をはねのけることだろう。
覚悟を決めての訪問だったが、刻一刻と政宗の機嫌は低下してきた。ねねが必死になっているのはわかる。心から謝罪してくれているのもわかる。出来ることならば、政宗はねねの意向に沿いたかった。しかし、原因が眼前で憮然とした表情でいるとなれば、話は別だ。政宗は刺々しい口調で、慇懃無礼に三成の非礼を貶した。当然、三成も馬鹿ではないのでそこに含まれた悪意に気づき、政宗へ噛み付き返した。こうなってしまえば、ねねに止めきれるものではない。ねねが引き攣る笑みを浮かべ取り成そうとしても、聞こえていないのか故意なのか、二人に無視された。やがて、二人は立ち上がると互いを罵倒し始めた。
一体何事が進行しているのか、清盛と正則はまったく呑み込めていない様子で、ぽかんとしている。正直なところ、原因不明の喧嘩を眺めるよりも、ここ連日熱中しており決着のついていない対戦ゲームをしたそうな顔つきだ。ガラシャもあまりに政宗が興奮しているものだから、一緒に三成を貶すことすら忘れてしまったらしく、零れそうなほど大きな目をぱちくりさせている。その口元では、スプーンに掬われたねねお手製チョコレートアイスが溶けて皿に滴り落ちていた。
孫市と秀吉が、それみたことかと目配せをしあっている様を見てとって、ねねの頭に血が上った。本当に三成が政宗を好いているのか、この二人は疑っているのだ。
ねねは深く深呼吸すると、腰に手を当てて叫んだ。
「もうっ、そんなに二人きりで話がしたいんだったら、外で思う存分話してきなさいっ!!」
家を追い出された二人は、十分ほど、玄関の前で罵倒を続けていた。しかし、とうとう玄関の明かりを消されてしまい、政宗がくしゃみをするに至り、ようやく、三成の怒りは冷めてきた。外気はひどく冷たい。ねねはそれで頭が冷えることを願ったのだろう。何せ、二人とも室内着なのだ。
まったく、コート一つ羽織らずこんな場所へ長時間いるなど、馬鹿げている。
そう判断した三成は嘆息をこぼすと、まだ言い募ろうとする政宗の手を引いて無理矢理歩き出した。
「放さんか、馬鹿め!」
「煩い。貴様、外でわめき散らすなど、どれだけ近所迷惑か省みたことはあるのか?」
「貴様に言われとうはないっ!!」
そう反論こそしたものの反省したらしく、政宗が口を噤んでしまうと、居心地の悪い沈黙だけが残された。三成は舌打ちしたい気分だったが、それは、相手も同様だろう。
孫市や養い親らの口車に乗ったせいで散々だ、と三成は責任転嫁することとした。
二人が逃げ込んだ場所は、ホテルに併設されている喫茶店だった。時刻が遅く、腹がある程度膨れていたこともあって、そのような場所しか選択肢になかったのだ。
「貴様の世話になどなりとうない。」
三成と異なり、生憎と財布も携帯も持っていない政宗はしかめ面でそう吐き捨てた。当然の如く、三成は政宗の意向を無視して、ホットコーヒーを二つ注文した。
「一体、何がそんなに不満だったのだ?自分で決めたのだろう。ヒステリーを起して散々文句を口にしていたかと思えば、手のひらを返したように今度はだんまり…まったく、貴様の態度と来たら、そこらのガキと変わらんな。」
いらいらと問いかける三成に、政宗は眦を釣り上げた。
「それは貴様の方ではないか。おねねさまが気を遣うておるのも意に介さず、膨れ面で、恥ずかしゅうはないのか?ヒスっておるのはわしではのうて、貴様ではないか。女のように、無様よな。」
「今度は逆ギレか。毎度そんな調子では、雑賀もさぞかし大変だろうな。」
「ふんっ。急に孫市の話か。わざと話を逸らそうとするなど、卑怯者のすることよな。貴様の方こそ、そんな調子では、女が付き合いきれぬのではないか?」
「煩い、俺はその他大勢の女など別にどうでも良いのだ。俺はっ、」
いがみ合い睨みつけたところで、はたとあることに気付き、三成は言葉を呑んだ。玄関前で喧々諤々言い争ってきたときから胸を掠めていた事実なのが、どうも、話が噛み合っていないのだ。政宗も、三成の言動に流石にいぶかしんだらしく、眉根を寄せている。
もしかして、何らかの誤解が二人の間には横たわっているのではないか。そう思いはするものの、何と問いかければ良いのかわからずほぞを噛む三成へ、彼より口の達者な政宗が怪訝そうに問いかけた。
「先から思うておったのじゃが、貴様は一体何の話をしておる?急に孫市の話を持ち出しかと思えば、非難しおって。それほどあやつのことが気に食わぬのじゃとしても、わざわざわしに告げる理由がわからん。あやつに言え、あやつに。」
心底うんざりといった風にこぼした政宗の様子に、三成はいささか機嫌を損ねながらも、首を傾げた。自分の男が話題にされているのに、これほど無関心でいられるものだろうか。しかし、一般と基準が異なるのが、三成の想い人である。齟齬があることはわかるものの、それが一体何であるのか理解できず、三成は嘆息した。
「貴様こそ、何故、俺に他の女の話を振る。その他大勢などどうでも良いだろう。俺が話題にしているのは、貴様だ、政宗。」
ふと降りた沈黙にまだ何か言うつもりかと視線を向ければ、政宗がぽかんと三成を見つめている。そのときになってようやく、二人の間にある齟齬が何であるのか、三成はわかった気がした。何ということだろう。政宗は、肝心なところが全くわかっていなかったのだ。
一方の政宗はといえば、それほど頭が悪いわけでもなく、理解力にも非常に優れていたので、こんがらがっている現状を瞬時に把握した。
「…あやつはわしの紐ではない。ガラシャも一緒に住んでおると、知らされておらぬのか?」
「貴様の方こそ、自分が所望したものを贈られたわりには、わからなかったな。」
「あれはわしが欲したものではない、大体、わしは紐を囲っておらぬし、貢ぐためバイトもしておらぬっ!わしは何ゆえ、ライバルへのプレゼントを選ばねばならぬのかと、悔しうて情けのうてっ、」
興味深そうに続きを心待ちにしている三成を目にした途端、政宗は反論する気が殺がれて、口を噤んだ。きっと、気恥ずかしさと興奮から顔は真っ赤だろう。テーブルに突っ伏す政宗の髪を馴れ馴れしく梳き、三成がその耳元へ囁いた。
「いっそ、このまま泊っていくか?」
一蹴するにはあまりに魅力的な提案に、政宗は眼だけで三成の反応を窺った。
「…一番高い部屋でなければ、わしは絶対に嫌じゃ。」
今度こそ、三成が紛うことのない笑みを浮かべた。
「なら、帰るとするか。あれだけやきもきしていたのだ、おねねさまは当然結果を知りたがるだろう。」
そう言って、会計札を手に立ち上がった三成に、政宗が僅かに落胆した気持ちを見破られまいと苦労しながら、後に続いた。
「きっとおねねさまの説教は長くなるだろうな。孫市とガラシャは先に帰るだろう。」
「下手をすれば朝まで続くかもしれぬぞ?そこまで付き合いきれぬゆえ、わしも孫市らとお暇させてもらうが。」
羞恥からまともに顔を見ることができず、目を伏せている政宗にも、気配で三成が笑ったのがわかった。
「当事者だというのに、自分だけ後始末を逃れるつもりか?それこそを、卑怯者の振る舞いというのだろうよ。折角だ、最後まで付き合え。」
そこで、三成に手を掴まれ握られた。
「その後、俺の部屋へ泊れば良い。」
政宗は動揺も顕に三成を見上げてから、顔をうつむかせた。
「安っぽい部屋なぞ、御免こうむるぞ。それに、」
「それに?」
「わしが一番欲しいものもくれぬような男と過ごすつもりもない。」
「…何だそれは、言ってみろ。」
政宗は答えを口にしなかった。もっとも、三成を真っ向から見つめてその手を握り返すという愚行を犯してしまったから、本心など呆気なくばれてしまったことだろう。
政宗はふわふわと地に足のつかない思考の片隅で、くのいちに謝罪しなければと思った。ねねの説教の後に待つ体験以外のことなど、最早それくらいしか思い浮かばなかった。
初掲載 2010年2月14日