政宗は怪訝な面持ちで、相手と、胸の上に置かれた相手の手とを見やった。電波男、という懐かしい呼び名が脳裏を過ぎったのは、相手の台詞が、その呼び名をつけたときと関連あるものだからだろう。
一瞬、躊躇ってから、政宗は手を振り被った。
まだ、政宗が「電車男」ならぬ「電波男」と付き合っていなかった頃の話である。
あれは一年前の春のことだった。入学式から一月経ったばかりの政宗は、まだ中学生のような幼さが目立つ一年生だった。身長や顔立ちといった諸々の面では、相変わらず今も幼さが目に付くが、当時は高校生という新しい身分に不慣れで、どうも覚束ないところがあった。
しかし、そんな事情を抜きにしても、一ヶ月というものは短いようで長く、長いようでいて短い期間だ。高校入学を機に実母と別居すべく東北から引っ越してきたため、幸村や稲以外顔見知りのいなかった政宗にも、友人ができた。ガラシャや卑弥呼だ。共に両家の出ということもあり、すぐに親交を持つことになったガラシャには、箱入り娘ゆえ常識が悲しいまでに欠落していて、政宗も何かと振り回されてばかりだった。卑弥呼も天然という点ではガラシャに負けず劣らずの鬼才で、そのボケを正している間にそもそもの会話の内容を忘れてしまうこともしばしばだった。二人とも何かとスキンシップ過多で、卑弥呼が抱きつくとガラシャも負けじと抱きつき、たまに、二人の重みに耐えかねて政宗が潰れることもあった。時折、流石の政宗も付き合いきれず、国語辞典を押し付けて、単語の意味把握や行間を読む行為など、人として最低限の国語スキルを身につけさせたくなるような出来事もあった。それでも、政宗は二人が可愛くて大好きでしょうがなかった。児童相談所ギリギリのレベルで実母に蔑まれて育った政宗には、不出来な妹のようなガラシャと卑弥呼が例えようのないくらいツボな存在だったのである。
ところで、三人とも身長が低かったので、隣のクラスと合同で行う体育などでも、一緒の班になることが多かった。班は四人一組で構成されるので、政宗・ガラシャ・卑弥呼のトリオに、隣のクラスの小喬が混ざってカルテットになる形だ。体育の授業が始まる前から、ガラシャと卑弥呼は今日帰路に寄り道する飲食店で何を食べるか会話が弾んで途切れることがなかったので、政宗は準備運動で一緒にペアを組むことになった小喬の背中を押してやりながら、大食い二人の話を聞いていたのだが、ふと、ある光景に目が釘付けになってしまった。
「じゃ、交代だね!」
易々と胸を地面につけてストレッチを終えた小喬は、飛び上がるように起き上がったは良いものの、政宗がいっこうにストレッチを始める気配がないので、その視線の先を追った。そこには、親友のくのいちに背中を押されて悲鳴を上げている稲の姿があった。稲は体が硬いため、小喬やくのいちのように易々と胸が地面につくことはない。だが、易々とでないものの、「胸」は地面についていた。政宗はそれを凝視しているのだ。小喬は稲を見てから己の胸に目をやり、困った様子で政宗を見やった。このカルテット、体も小さければ、胸も小さかった。毎日浴びるように牛乳を飲む仲間として、その心中察して止まないものがある小喬は、政宗の意識を逸らすべく、体育着の裾を引いてストレッチを促した。
しかし、政宗はやるせなさそうに溜め息をついて、自身の胸に視線を落とした。
「わしもかように…。」
「政宗ちゃん、それ以上はかなしくなるからいっちゃ駄目っ!」
間が悪いことに、そこに通りかかったのが、三成だった。そのとき男子は、運動場の端で準備運動をしている政宗たちの脇をランニングしていたのだが、運動場をぐるりと囲むフェンス越しのランニングだったので、ほとんどその存在は意識の向こうに押しやられていたのだ。
真面目にランニングに励む幸村や兼続と異なり、一人、だるそうに徒歩すれすれの速度で走っていた三成は、一体何を思ったのか、言った。
「それは駄目だ。」
突然話しかけられた政宗はびくりと肩を震わせて動揺を示したし、呆気に取られたのは小喬も同様だった。二人はぽかんとして、何故か満足げに走り去っていく三成の背中が遠ざかるのを見送った。まるで、DIOによってザ・ワールドが発動されたかのような有様だった。わからない人のために説明しておくと、ザ・ワールドというのは「ジョジョの奇妙な冒険」の超次元的なスタンド技だ。政宗は、全シリーズ所持してしまうくらいこの長編大作漫画が大好きだった。教育上宜しくないといって、小十郎に何度捨てられそうになり、そのたびに、どれだけ必死で抵抗したかわからないくらいだ。それくらい、好きなのだ。
…話が逸れた。
同じ話を繰り返すことになるが、一ヶ月というものは短いようで長く、長いようでいて短い期間だ。一ヶ月の間に、三成は、その類稀なる美貌と知性で多くの女子生徒を虜にし、同時に、その毒気たっぷりの鋭すぎる舌鋒で数多の女子生徒が袖にされてきていたので、政宗も小喬も、三成が一般人の基準には当てはまらないということを承知していた。
「…あれってば、よくわかんないけど、嫌味とかぁ?」
首を傾げて問いかける小喬に、こちらも首を傾げて、政宗が返した。
「ようわからんが…あやつが変人であることだけは間違いなかろう。」
そのとき、小声でぼそぼそ会話を続ける二人の脳裏に閃いたのは、その日テレビで放送される予定の映画「電車男」だった。
「電波男…?」
「政宗ちゃん、それ、あたしも思ったけど、さすがに言っちゃ駄目だよ。」
秘密裏にこそこそやっている政宗と小喬をいぶかしんだのか、この会話にガラシャ・卑弥呼ペアが混ざったのが悪かった。以前、化学の授業で同じ実験班に所属することになったガラシャは、無知と無謀ゆえ、三成に散々こけ下ろされていたし、友人思いの卑弥呼は、友がそんな目に会わされて黙っておけるような性質ではない。それから、カルテットの間で、「電波男」という呼び名が定着するのは間もないことだった。
近い将来、自分がその電波男と付き合うことになるとわかっていれば、政宗は絶対に「電波男」という単語を口に出さなかっただろう。
ともあれ、何の因果か、政宗は電波男と付き合うことになってしまった。電波男のエルメスは、政宗だったのだ。舌から生まれたのではないかと思えるほど能弁な政宗のことなので、エルメスよりヘルメスと呼ぶべきかもしれない。嘘吐きが泥棒の始まりというなら、まず間違いなく、ヘルメスだろう。
初めに三成のことを電波男と呼び始めたヘルメスは、三成から告白されてしかもそれをすっぱり断りきれなかった時点で、己の事ながら、開いた口が塞がらなかった。
毛虫か三成か、二択を迫られて答えに窮するくらい三成のことを嫌っているガラシャに至っては、政宗が手ひどく袖にするものとすっかり思い込んでいたので、隠れていた木の陰で政宗の煮え切らない返事を耳にすると、口を開けて目を見開いたまま後ろにぶっ倒れて、用務員室の窓ガラスを割った。まるでこそ泥のような、全身黒ずくめでほっかむり装着という変装をしていたので大事には至らなかったが、下手をすれば、頭部や首元に切り傷を負う事態だった。その上、そのバリバリンガシャーンッという騒々しい音で、盗み聞きしていたことがばれてしまったので、ガラシャは救助されて無事が確認された後、政宗からこっぴどく怒られた。被害妄想に違いないのだが、三成があまりに白けた顔で嘆息をこぼしていたので、ガラシャはまた一段階三成のことが嫌いになった。ちなみに、この後、ガラシャや政宗が、仲裁に入った用務員・孫市と親交を深めることになっていくのは、また別の話である。
結局、ガラシャのおせっかいのせいで、政宗も改めて三成に断りの返事を告げる機会を失ってしまい、そうして有耶無耶のうちに付き合うことになり、それから一年と少し。期末テストも終わり、出された宿題もまだまだ気にせずとも良く、薄着ということもあって、心も体も開放的になってしまうので注意が必要な夏休み初期のことである。
何となく流され続けていたとはいえ、何となく三成とはキスもしているし、こうして呼ばれるまま何となく家にも来てしまっている。政宗は何となくこの後に待ち受ける事態を予感しながら、三成の叔母で義母だというねねの持ってきた麦茶を飲んでいた。何となく、という表現が多いのは、どうしても政宗が腹をくくれないでいるせいだ。きっぱり袖にするなり受け入れるなり決めれば良いものを、政宗は三成に対する先入観や現実のひどさ、それらを忘れさせるほどの美貌の板ばさみになって、何とも煮え切らない態度を続けているのだった。たいがい、政宗も面食いである。
三成の部屋は、二階の端に配置されていて、昼間には陽光が差し、冷暖房完備で防音もばっちりという贅沢な部屋だった。その部屋の窓を見つめながら、いっそ飛び降りて逃げてしまおうかと政宗が思い悩んでいるうちに、それを察したのか否か、タイミングを見計らったように部屋の主が戻ってきた。
それで、何となくそんな雰囲気になって、何となく、わかってはいたもののベッドに押し付けられて、冷房が効いてはいるもののそれまで暑い道のりを歩いてきたので汗の引ききらない素肌に直に触られて、と、政宗が半ば諦め半ば受け入れつつも心中右往左往していたときのことだ。三成は、日差しを浴びることもなく、また雪国特有の白さも備えた政宗の胸元に目を落とした。そのまま、物思うように黙りこくること数秒。何となく流されている政宗がいぶかしむには十分な時間を挟んでから、三成は鎖骨までたくし上げていた政宗のTシャツを脱がしにかかった。子供でもないのに、人様にシャツを脱がされるというのも恥ずかしい行為だ。政宗は、仮に次回があるとしたら、もっと情緒深く趣があるようなブラウスやシャツにしようと内心誓った。その間にも、ベッドとの隙間を縫うように差し込まれた腕が政宗の背をすくい、案外器用にブラのホックを外した。
貧乳で思い悩む政宗のためにそのブラを購入した小十郎は、まさか、それを身に着けた状態で政宗がこんなことに陥っているとは思うまい。万が一知ったら、小十郎は自棄酒を呷っておいおい泣いた後、そんな小十郎を不審に思って事情を聞きだした綱元と結託して、三成を東京湾に沈めてしまうだろう。小十郎は政宗のことになると見境がなくなるというか、過保護というか、グレミオのようなところがあり、綱元は容赦ないというか、やはり政宗のことになると見境がなくて過保護というか、例えようのないところがあった。ちなみに、グレミオというのは、「幻想水滸伝」のキャラクターである。政宗は己のことを坊ちゃんだと思っているわけではないが、小十郎のことは、当該ゲームをプレイした成実が似ていると言い出して以来、グレミオのようだと内心思っていた。
…話が逸れた。
ともあれ、半ば意識的に考えを逸らしていた政宗の胸に手を当て、三成は呟いた。
「…駄目だ。」
あまりに思いつめた様子でそうこぼすので、政宗は不審がって、三成へ目を向けた。何が駄目だと言うのだろう。まさか、パット入りの上げて寄せるタイプのブラを外した政宗の胸があまりに貧相なので、やっぱり出来ませんとかそういうオチなのだろうか。そりゃあ、政宗自身も、自分の胸があまりにもなさすぎてどこまでが胸骨でどこからが胸でどこから脇腹なのか悩むこともあるけれど、それを本人の前で言うか普通。毎日浴びるように牛乳だって飲んで頑張ってんだぞこのヤロー。
怒りと情けなさとショックで顔を白くする政宗の胸に手を当てたまま、三成はやるせなさそうに頭を振った。
「他の男に触らせるなど駄目だ。」
「…………は?」
「いくら大きくしたいからといって、他のものに揉ませるなどしてみろ。いや、するな。俺が許さん。」
流石は電波。まさか政宗の胸を見ただけで、ここまで思考が飛躍するとは。
そして、冒頭に戻る。
「あれ?もう帰るのかい?今日は泊まりだって聞いたから、夕食を張り切って作ってたんだけど。」
そう言うエプロン姿のねねは、もう夕食作りに取り掛かっていたのだろう。片手には包丁を持っている。肩越しに見えるテーブルの上には、掻っ捌いたのか、まぐろの頭がでんと載っていた。ふりふりのレースのエプロンにところどころ血が付着しているさまが、中々にシュールだ。政宗は謝罪の言葉を口にして、その場を後にした。
外は晴天で日差しが強かった。冷房の効いた三成の部屋とは大違いだ。一度、三成の部屋を見上げてから、政宗は肩を怒らせて風を切るように歩き出した。三成を思い切り張り倒した掌がまだ痛かった。壁に後頭部をぶつけた三成は、気絶したくらいだからもっと痛かろうが、知ったことか。
「もう、あの、電波男!やはり顔だけじゃ、馬鹿めっ!」
そういう次第で、電波男がヘルメスの心を射止めてそういう関係になれるのは、三成が口の利き方を学んでからだとか、牛乳が功を帰したのか成長期の賜物か政宗の胸がある程度育ってからとか、何とか。とにかく、まだ大分先のことである。
しかし、時間はかかるにせよ最終的にはそういう関係になり、プロポーズまで受けてしまうことを、幸か不幸か、高二の政宗は知らず、三成に対する罵倒を言い合うべく、携帯でガラシャに連絡を入れるのだった。
初掲載 2009年7月5日