ねねに教わった理論を政宗が実践したのは、それから、一週間経った夜のことだった。政宗はこういうとき、大抵、決断を下すのに一週間の時間を要するのである。
少しでも腹立ちや屈辱が紛れないものだろうか、と、成実を相手に酒を呷り続けたせいで、べろんべろんに酔っ払っている。成実は眉尻を下げ、「大丈夫かな。あー、俺、不安になってきた。マジ出奔したいかも。」などと意味不明な戯言を呟いていたが、酔いの回りきった政宗には当然意味がわからない。結局、成実に見送られ千鳥足で、政宗が隣接されている三成の大坂屋敷を訪れたのが丑の刻のこと。だが、三成は、ねねから既に聞き及んでいたのだろう。若干呆れた様子ではあったものの、妻の初めての訪れに驚くでもなく、すんなり政宗を招き入れてくれた。
珍しいことに、三成も一人晩酌をやっていたらしい。酒の香りは己のそれで掻き消えてわからないが、瓶と杯があるのだ。まず、間違いはないだろう。だが、そんなことはどうでも良い。そう、政宗は三成で理論を実践しに来たのだ。何も、こんな夜更けに、わざわざ三成の私生活を知るために来たわけではない。
酒で弛緩しつつある身体を三成に預けて、政宗は欠伸を噛み殺した。眠くてたまらなかった。三成が政宗を横たえ、夜着を剥いでいく。それから、自身のものも。政宗はぼんやりとその様子を眺めていた。今まで、これほど安らかな思いで営みに挑んだことがあっただろうか。政宗は自問した。いや、ない。絶対に、なかった。
酒とはかくも有効な手段なのか、と、政宗が感銘に打たれている間にも、脱衣し終えた三成が身を乗り出した。常はぎゃあぎゃあうるさく、何事にも先手を打とうとする妻が為されるがままなので、三成も常とは違う風に振舞うことを決めたらしい。政宗の前髪を掻き揚げると、額に口付けを落とした。何だ、この甘ったるい代物は。ぺしり、と思わず政宗が力ない手で三成の頭を叩くと、何がおかしいのか、三成は笑った。ますます、意味がわからない。今夜はどういうわけか、何もかもが、間違えている。
政宗は困惑しながら、三成へと両手を伸ばした。三成が抱き締めてくる。そういう意図ではないと返したい半面、どういう意図であったのか、当人にもわからない。考えれば考えるほど混乱してくるので、政宗は思考を放棄して、座布団を指し示した。今度は、きちんと意図が伝わったらしい。三成は何が面白いのか政宗のあちこちに触れながら、片手間に座布団を取り寄せた。まるで、触れられた端から火がついたようだ。返す返すも恥ずかしい話だが、政宗は腰の下に座布団が差し込まれたことにも気がつかない有様で、三成の愛撫に夢中になっていた。そんなことは初めてだった。
三成も、座布団を挟んだことで上向けられたそこが濡れていることから、それを察したらしい。何せ、いつも政宗は大して濡れないので、お互いに毎回苦労していたのだ。そういうわけで、三成は満足そうに低い笑いを漏らした後、髪を耳にかけると、こともあろうか、そこを舌で舐めあげた。当然、政宗はぎょっとした。そんなことがしたくて、座布団を取らせたわけではない。慌てて三成を離そうと手を伸ばしたが、政宗がそうして身を強張らせていたのも、悔しいかな、束の間のことでしかなかった。何というか、何も考えられなかったのだ。丹念に唇で挟まれ、なぞられるたびに、自分でもじわりと濡れるのがわかった。先端を強く吸われ、甘噛みされると、頭が真っ白になってしまって、自分でも三成の頭を離そうとしているのか、話すまいとしているのか判断がつかない。結局、政宗の指は悪戯に三成の絹糸のような髪を梳くだけで、何の為にもならなかった。
そんなわけで、とうとう、政宗は口だけで三成にいかされてしまった。絶頂自体初めてであるのに、ましてや口でなど、自分はどれだけ淫らなのだと政宗は恥ずかしさと居たたまれなさから頬に朱を走らせた。
だが、政宗がまだ目的を達していないように、三成も欲求不満だった。三成はたっぷりと唾液やそれ以外で濡れたそこから口を離した。その二点間をつうと糸を引く様など見たくもないのに、どうしても、腰を上向けるという体勢柄見ざるをえない。政宗はますます顔を紅くして、ぎゅっと目を瞑った。もうこうなると、病に違いない。動悸、息切れ、眩暈。もしかすると、自分はこのまま死んでしまうのかもしれない。益体もない不安を真剣に検討する政宗を尻目に、呼吸と共に上下するその乳房を押し潰し、三成が圧し掛かってくる。すでに全身が汗ばんでいる政宗にとって、三成の乾いた肌は腹立たしくも心地良い。自分だけ冷めた面しおって、と、再度政宗は三成を力なく叩いた。しかし、それも、三成の眼をうっかり目にしてしまった途端、過ちであると判明した。三成の眼は、政宗に負けず劣らず飢えて、情欲に濡れていた。そうして政宗は、己が飢えきって、欲情していることを悟ってしまったわけである。
何せ、最早否定しようもないほど己は乱れているわけだから、すとん、とその事実は腑に落ちたものの、まだ、政宗は納得できなかった。何故だ。何故、今夜は二人して盛りのついた猫のようになっておるのだ。意味がわからない。だが、躍起になって思考をまとめようとすると、三成が四散させてしまう。蹴散らされた残骸をまた掻き集めようとする間もない。押し付けられたものの熱さに、政宗は思わず身を捩って逃げようとした。今日は少し毛色が違っているが、いつもちっとも良くないし、痛いのだ。少なからず、恐怖はあった。だが、それを許さない強引さで、三成が身を推し進めてくる。首筋を舌で舐めあげられると、不必要にこもっていた力が抜けた。どうも、自分は色々なところに情欲の火種を隠し持っていたらしい。その発見に恥ずかしいやら居たたまれないやらで、本来ならば身を縮こませるべきなのだろうが、そんな反省をしている余裕は微塵もなかった。
良くも悪くも、政宗の懸念は裏切られた。不幸にも、せめてここで踏み止まるだけの不快があれば良いのに、何事もなかったのだ。最悪である。そう、正に、最悪の事態だ。何も、政宗はこういうことを知りたくてこの理論を実践したわけではない。必要最低限で孕むための手段として、この座布団戦法を実践したのだ。
例えば、例えばの話である。もしこれから戦を仕掛けようとしている敵軍の中に、上手く使えそうなものたちがいる。そのようなときは離反させた方が得策であるから、彼らに書状を送ったとしよう。書状の内容は、未来を約束するありきたりなものだ。しかし、だからといって、本当に信頼を寄せる馬鹿がどこにいる。一旦敵に寝返った外様ほど、信の置けないものもいないではないか。本当に欲しいものであれば、得策か否かなど考慮の内にも入らない。今も上杉におる慶次のように、政宗は全てを投げ打って欲するだろう。所詮、そのようなものたちは使い捨ての道具である。
だが、どうも、自分はその馬鹿になりかけているらしいのだ。馬鹿も馬鹿の極み、大馬鹿である。一度はまりこんだら、二度と引き返せない底なし沼であることはわかっているだろうに、どうしても抜け出せない。底知れぬ快感を覚えたら、そこで終わりだ。自分は、破滅だ。それなのに、逃げ出せない。今更ながらに、政宗は商売女があれだけ喧しく喘いだ理由がわかった気がするのである。こんなもの、と、政宗は我知らず高い声が出そうになる口を手で塞いで、否定した。こんなもの、こんなもの――一度知ったら、病み付きではないか。馬鹿め!
常とは違い、十分すぎるほどすでに濡れているので、苦労することもない。あっさりと三成を受け入れたそこは、いっぱいに咥え込んだものをぎゅうぎゅうと締め付けている。穿たれた熱に、ぞわぞわと何かが政宗の背筋を駆け抜ける。胎に熱がこもる。と、同時に、三成によって、唇を押さえつけていた手を剥がされる。もう後がない政宗は、自分に言い聞かせる意味もあって、三成に宣言した。
「孕むために、必要なことだからやるじゃ。最低限だけ交われば良い。」
そんなことを、息も絶え絶えに政宗が言うわけである。すると、三成は政宗の足を肩にかけて前のめりになり、その耳元で囁いた。
「孕むための一番の上策が何であるか、わかるか、政宗?」
揶揄する声色に、ぞくりと背筋を戦慄が走った。思わずまじまじと目をくれる政宗に、三成が人の悪い笑みを返した。
「孕むまで数をこなせば良いだけのことだ。簡単な話なのだよ。」
それはそうだ。だから、それが嫌で回避しようと奮戦していたのではないか、馬鹿め。ここで言われっぱなしになってはいけない。政宗としても反論したいことは多々あったが、もう、そこまで理性が追いつかない。突き上げられるたびに、ちかちかと脳裏で星が瞬いた。そういうわけで、政宗は三成にしがみついて、ああ星が綺麗じゃなどと、現実逃避するくらいのことしか出来なかった――抵抗は。
まあ、正直に白状すると、政宗も興に乗ってしまったのである。
翌朝、政宗は生まれて初めて、腰がだるくて動けないという事態に遭遇した。とはいえ、伊達家の大坂屋敷は何も遠方にあるわけではない。隣接されている。政宗は這ってでも帰るつもりで、何時の間にやら寝かされていた布団から抜け出た。一応清められはしたらしいものの、そこかしこから三成の残り香がする。政宗は青くなるやら、紅くなるやら、一人で百面相をしながら、周囲を見渡した。終いには、膝を突いて、布団を引っくり返した。だが、どこを探してもないのである。それが夜着で居たたまれないとはいえ、一体、己の身にまとってきたものはどこに行ったのだ。
ふと視線を感じて後ろを振り返ると、いつからいたのか、入り口のところでこちらを見ている三成と目が合った。三成はさも面白い見世物を見たという風な態度で、口端に笑みを浮かべた。
「朝っぱらから良い眺めだな。」
何がじゃ、とその言葉に噛み付こうとした政宗は、顔を紅くすると慌てて畳みに座り込んだ。膝を突いて布団を捲りあげていたわけで、三成には背を向けていたわけで、つまりは、そういうことだ。政宗が大慌てで掛け布団を手に取り、それに包まると、三成はつまらなさそうに嘆息をこぼした。
「…貴様、わしの着物はどうした。」
政宗が唸るように問うと、至極当然のような顔で三成が返す。
「あれなら駄目になってしまった。あれだけ乱れたのだから、当然だろう。」
その言葉に、昨夜のあられもない痴態を思い出して、政宗は首まで赤くした。返す返すも、甚だ、悔やまれる。三成はそんな政宗に一瞥投げかけると、手に持っていたものを寄こした。見れば、夜着である。何の変哲もない代物に見えるが、良く良く目を凝らしてみれば、己のものではないか。一体これをどこで、と、政宗は嫌な予感に苛まれつつ、三成を窺った。三成は鼻を鳴らした。
「片倉には、連絡をつけてある。あちらも最初から見越していたらしい。今日はこちらで休んでいけ。帰らんで良いそうだ。」
まあ、曲がりなりにも夫婦だからな、などとぼやいてから、三成は黙りこくっている政宗へ目を転じた。
「どうした?」
「ど、どうしたもこうしたもあるか!何じゃそれは!」
もう居ても立ってもいられず、政宗は現実を拒むように頭から布団に包まった。真っ暗の視界に、このまま寝てしまおう、寝ればこの悪夢も晴れるかもしれんと混乱していると、すぐ近くから嘆息交じりの呆れる声が届いた。どうやら、入り口にいた三成が近寄ってきたらしい。
「一体何が不満だ。夫婦が夫婦らしいことをした。それだけのことだろう。」
政宗は反論を飲み込んで、そのまま沈黙していた。再び、三成の溜め息が届く。
「俺がどれだけこの一年間、貴様の強情に手を焼いたと思っている。せめて俺の誕生日くらい、良い目を見ても良いではないか。」
初耳である。当然といえば当然なのだが、三成にも誕生日があったのかと思って思わず布団から顔を覗かせると、三成と目が合った。再度、慌てて布団に潜り直す政宗を、諦めたのか意に介す風もなく、三成が続ける。
「おねね様の贈り物も、大概、外れるからな。いくら惚れたはれたとはいえ、去年は無理矢理婚姻させられて、迷惑以外の何ものでもないと思ったが、今年は稀に見る出来の良さだった。忍びの秘薬とやらも、満更ではないな。…もっとも、手足として、誰が扱き使われたのかは知らんが。片倉も知っているようだし、伊達の誰か、か。」
とうとう聞き捨てならず、政宗は布団を撥ね退けた。
「…惚れたはれた?誰が?」
「それくらい、文脈を掴め。」
「………誕生日?貴様が?」
「ああ。」
「…………………………………薬?」
「一滴仕込めば、効果覿面、らしいぞ。昨夜の自分を思い返してみろ。」
とうとう、血の気の失せた顔で口を閉ざした政宗に、三成はやけに分別臭い苦笑を浮かべた。
「もう、質問はないか?ないようなら、良い。」
そして、馬鹿みたいに優しく政宗を掻き抱いて、こう囁くわけである。
「いずれ、伏臥位でも胸膝位でも、貴様が所望ならしてやる。」
そんな得体も知れない専門用語、実施で教え込まれる必要はない。政宗は顔を紅くして、三成を睨み付けた。
一週間後、ようやく三成の腕からの脱出に成功し、伊達家の大坂屋敷に逃げ帰った政宗は、小十郎によって、成実が出奔した事実を知らされた。
ねねの手先とはいえ、薬など仕込むような真似をしてくれた実行犯を締め上げるのが早いか、この一年間を取り戻す勢いで触れてくる夫に心を許すのが先か。成実の生死は、政宗の感情の揺れにかかっている。
初掲載 2009年6月13日
参考:インディゴの夜「チョコレートビースト」収録「返報者」