芝浜 / 落語


 「俺はいりません。」
 そう言って酒を断ると、秀吉はきょとんとした顔で幾度か瞬きをした。時が時だ。信じられない心地なのだろう。三成の顔をまじまじと見やり、それから手に持つ酒に目をやってから、秀吉は顔をしかめた。
 「…何じゃ。三成、お前さん、いつから酒を止めたんじゃ?」
 「秀吉様が逝去なさってからです。」
 「普通、生きてる人間の前で死んだとか言うかあ?三成は、ノリが悪くていかんわ。大体、こんなときに酒を断るってのがわからんさ。」
 機嫌を損ね、愚痴をこぼし始めた秀吉の肩を、隣のねねが軽く小突いた。
 「まあまあ、お前さん。良いじゃないの。折角の目出度い席なんだから。…政宗はいるかい?」
 「勿論。折角の殿下からの御酒であれば、この政宗、ありがたく頂戴しとうございます。」
 いたずらっぽく微笑む政宗の隻眼に、三成は閉口した。この世界にやって来てから、遠呂智に傾き、奇行の目立った政宗ではあるが、元々は世渡り上手だ。秀吉の不機嫌をいなす程度、何でもないのだろう。何より、現在の政宗は女であることを隠していない。女である、というだけで、秀吉の評価は満点に近い。
 「やっぱ政宗は違うなあ!孫市が認めるだけのことはある!これから、三成を頼むさ!」
 秀吉は笑い声を立てて、これから三成の妻になる存在へと酒杯を手渡した。


 三成が酒を断ったのには、理由がある。
 秀吉が逝去してから、間もない頃の話である。当時、三成は、淀君が向けてくる色のこもった眼差しに嫌悪感を覚えつつも、その立場上、秀頼の実母である淀君を邪険にも出来ず、苛立っていた。あれほど慕った秀吉の、最後まで直ることのなかった女癖に、舌打ちをこぼしたい思いだった。
 そんな中、無意識のうちに鬱屈した思いが溜まっていたのかもしれない。三成は、柄にもなく、夢を見た。呑むか呑まれるか、互いに厭い合っている政宗と、何故か二人で呑んでいる夢だった。
 どれくらい経ったのだろう。いずれ来る政局についての討論が膠着状態になり、左近が持ち込んだ酒も空になりかけた頃、ふいに落ちた沈黙にそちらを見やると、政宗と目が合った。政宗の目元は酒で赤く色付いていた。それを合図に、政宗が身を乗り出した。まるで猫のような仕草で、小さく首をかしげて口付けて来る様の愛らしさに、三成は瞼を閉じることも忘れて、政宗を眺めていた。視界が白くぼやけ、酒の香りを漂わせる呼気が唇にかかった。続いて、他愛もない接吻をされた。飯事のような、子供のそれだった。一瞬だけ触れて離れた唇を追って、今度は三成から深く重ねた。一度、二度。舌を絡めても政宗が抗わないのを良いことに、三成はそれを了承と受け止め、政宗を押し倒した。掻き抱いた肢体は成熟とはかけ離れていて、痩せぎすで、掌を動かすたび、ごつごつと骨があたった。それでもまさぐると、不思議と、気持ちが高揚した。夢特有の高揚からか、男であるはずの政宗が女であることもさほど気にならなかった。その肩に手をかけ、畳に押し付けたとき、政宗が男でも構わないと判断したのかもしれない。寛げた袂から覗く丸い肩や、仰け反る白い首元に、我を忘れて情に溺れた。三成が熱い息を漏らしながら、その幼い乳房にやわく歯を立てると、責めるような眼差しを向けながらも、政宗はねねのような優しさで抱き寄せた。寄せられた母性と向けられた欲情は、ねねの他愛もない叱責や、時折向けられる淀君の眼差しを思い起こさせた。
 翌日、目が覚めた三成は呑みすぎ特有の頭痛と渇きに襲われた。体もだるい。しばたく目に辟易しながら視線を巡らすと、いつの間にやって来たのか、呆れた様子の左近と目が合った。
 「殿…、酔い潰れるなんてらしくないですよ。あんまり無理せんでください。この左近。何のために、殿にお仕えしてると思ってるんです。」
 そうこぼしながら左近が差し出した濡れ手ぬぐいの冷たさに、三成は小さく頭を振った。すると、あれは、全て、夢か。
 「…すまない。」
 自嘲交じりに溜め息をこぼし、三成は再び瞼を瞑った。夢で生じた何かが、現でも息吹く予感を覚えた。
 あの腕に抱かれているとき、確かに、三成は安息と慕情を覚えた。


 おそらく、当時、己は無意識下で政宗の本来の性別を嗅ぎ取っていたのだろう。政宗が女であることを隠さなくなった今になって、三成は思う。
 その視線の先では、襦袢一枚になった政宗が思いつめた様子で床を睨みつけていた。元来、政宗は男として、そして当主として生かされてきた。それが、本来の性別からすれば正しいこととはいえ、男に組み敷かれ、抱かれねばならないのだ。
 かつて三成は政宗を抱いた。夢の中の出来事ではある。だが、それゆえ、願望がそのまま反映される夢の中で敵対する大名を欲望の捌け口に用いたという事実は、潔癖な三成にとって大きな痛手となり、同時に、大きな転機足りえた。関が原で一度死んでおいたのも、良かったようだ。
 世界が変わると同時に、三成は政宗に接近し始めた。本当の望みを知った今となっては、酒や、夢の力を借りる必要性を感じなかった。まるで別人のような口説き方に、再会した主は目を丸くし、部下は呆然とした。政宗は呆れも顕に、三成のことを愚かと断じた。それでも、三成はめげなかった。いつか見た夢を現にするため、必死で奔走した。
 そして、念願かなって、婚姻が成り立った。
 「政宗、もっと近くに来い。…それでは遠い。」
 三成が声をかけると、未だ床を睨みつけている政宗は、考え事でもあるのか生返事をした。三成には十分、政宗が行為に抵抗を示すのは予測できていたので、手を伸ばし、宥めるように頭を撫でてやった。
 「…子供扱いするでないわ。」
 「愛しいのだよ。それに子供も何もあるか。致し方あるまい。」
 疑うように政宗が眉間にしわを寄せた。それを、気恥ずかしいのだと好意的に受け取り、三成は政宗に唇を寄せた。政宗の唇からは、僅かに酒の甘い香りがした。三成はその香りを味わうように唇を深く重ね、政宗の帯に手をかけた。一度抱いてしまえば、抵抗感も薄れるだろう。そのような楽観とそうであれば良いという自分の願望に背を押され、三成が帯を解くと、政宗が緊張に身を強張らせた。些か焦りすぎただろうか。若干の反省もあって、三成は性急に求めようとする欲望を抑止し、安堵させるように政宗に触れた。掌が政宗の緊張を伝えてくる。そのはち切れそうな政宗の脈拍に、三成が目いっぱい優しくしてやろうなどと決意を新たにしていると、耐えかねたように政宗が身を引いた。
 「悪い…しかし…やはり、わしには無理じゃ!」
 そうこぼす政宗の顔色は、白を通り越して青に近い。心配になって、三成が声をかけようとすると、それを制して政宗が呻いた。
 「抱かれれば、ばれることじゃ。…わしは、これが、初めてではない。」
 流石の三成も、言葉を失った。肌蹴た袂を掻き寄せている政宗の手は、強かに震えている。政宗は言いがたいのか、一度唇を噛んでから、まるで泣くように吐き捨てた。
 「すまぬ。わしは左近と、お主を謀ったのじゃ。あれは、あれは…真にあったことなのじゃ!」
 それで、ようやく三成は全てを悟った。あの晩の出来事は、夢ではなかったのだ。何と告げるべきかわからず、自失の呈で三成は瞬きをした。政宗が女であることを、三成は知っていた。当然だ。あれは実際にあったことなのだから。己が無意識のうちに政宗の性別を察知し、求めていた、などという解釈は当てはまらなかった。今になって思えば、何と己は、夢見がちなことを考えていたのだろう。
 三成の視線の先で、政宗が三つ指突いて頭を下げた。
 「…この婚姻。成り立たぬが、そちら様のためかと存知まする。申し訳ありませぬが、わたくしめはこれで。」
 立ち上がり、踵を返して逃げ出そうとする政宗を、三成は寸でのところで引き止めた。ごんという音と悲鳴があがった。何も考えず、三成が慌てて足首を掴み引いたために躓いた政宗が、非難がましい目つきでこちらを見ている。三成は床に打ち付けて赤くなっている政宗の額に目をやり、大きく肌蹴た裾間から覗く足に目をくれ、それから思案するように疑問を投げかけた。
 「それは、つまり、今回は初めてではなくとも、初めては俺だったということだろう?」
 「………そうじゃ。」
 「あれから、抱かれたか?」
 「な…!そんなわけあるか、馬鹿め!」
 頭にきたのか、政宗は膝を突いて立ち上がろうとした。しかし、再度三成に足を引かれて転んだ。うつ伏せている政宗の視線は、もはや非難がましいというより殺気立っている。三成は小さく口端に笑みを浮かべて、政宗に覆い被さった。
 「ならば、別に大事無い。この婚姻、成立させてもらおう。」


 三成が目覚めると、室内は酒の臭いで満たされていた。外からは風に乗って鳥の爽やかな音が届く時刻である。どうしたものか、寝ぼけ眼で思案した末、三成は朝の寒さに辟易しながらも布団を抜け出た。縁側では、可愛い妻が酒盃を傾けていた。
 思わず片眉をあげる良人に、政宗は唇を尖らせて応えた。
 「呑まねばやってられぬ。」
 その目許は赤い。どうもそれが酒によるものだけではないと察し、三成は微かに笑んだ。声も掠れている。昨夜は嗄れるほど声を上げさせたのかと思えば、男としての満足感も得られた。その笑い方から、良人のくだらない考えを読み取ったのだろう。政宗は嫌そうに顔をしかめてから、ふと、思い立ったように酒盃を三成へ差し出した。
 「三成もどうじゃ、呑まぬか?もう、禁酒する必要もあるまい。」
 朝餉より先に酒というのもどうなのか。そう思いはしたが、やはり目出度さと久しぶりの酒の誘惑に、三成は政宗の持つ酒盃へと手を伸ばした。しかし。
 「…いや、やはり、良い。」
 首を振り辞退する良人の返事に、政宗が首をかしげた。その猫のような仕草の愛らしさに、昔のことを思い返しつつ、三成は応えた。
 「また、夢になったらいけない。」











初掲載 2009年1月1日