野辺   十二国記パラレル

逃げ口はたくさんあった。
それにしても、なんと多くの、どこへもゆきつくことのない門だったか!
ポール・ニザン『アデン・アラビア』

1:罪悪(奥国 / 妲妃)

2:待つ身(珠国 / 主従)

3:地獄(奥国 / 卑弥呼)

4:友(越国 / 慶次)

































 

1:罪悪(奥国 / 妲妃)


 昨日、この奥国では麒麟が病んだ。王の失道が原因らしい。
 この世界では、王は麒麟によって選ばれる。麒麟に選ばれれば、その者こそが王だ。王は神籍に入り、人間であることを辞める。そして、国を造る。王がいなければ、国は荒廃する。魔物に荒らされ、災害が重なるためだ。衰えた国を復興するには、王を掲げるしかない。
 だから、人々は王を掲げるのだ、と、奥国の宰相となった女怪、妲妃は思う。束の間の安楽を求めて王を望む者、永遠の安寧を求めて王を求む者。何れにせよ、彼らは王に甘えきった愚者にすぎない。そして、その事実を認めることすらしない愚者だ。
 妲妃は美しく彩られた赤い爪を見つめてから、眼前の光景に視線を移した。大理石の床には大きな穴が開けられており、そこにはひしと毒蛇がひしめいている。穴の側面には、何かが引っかいたような痕――例えば、そこから逃げようと無駄な努力をして爪を損ねた血の轍――が残されている。妲妃は再び爪に目を戻してから、左手を掲げた。衛兵によって引っ立てられてくる逆賊達が、悲鳴をあげる。
 でも、仕方ないじゃない。妲妃は、爪から目を外さぬまま、心中で思う。遠呂智様に逆らおうとした貴方達が悪いんじゃない。今更命乞いしたって、遅いのよ。妲妃は小さく溜め息をこぼした。
 王を選ぶ麒麟は、善政の証である。否、善政のあるところにしか麒麟は棲めない。だから、王が道を見失ったとき、麒麟は病にかかる。何れ死に至る病だ。麒麟によって神籍に入った王は、この病を治せねば死ぬしかない。王は麒麟と生を同じくするためだ。しかし、この病を治した王は未だかつて存在しないらしい。皮肉な話だ、と妲妃は思う。そしてその一方、不思議にも思う。長き善政に飽いた王が、今更己の命を惜しんで道を正すことなどあるのだろうか。
 我らが王遠呂智は、身勝手な神にも、長きに渡る善政にも、甘受するだけの民にも、詰まらぬ生にも飽いた。そして、現在、幕引きを求めている。
 「命を保つのも、命を滅ぼすのも。」
 歌うように、妲妃は囁く。
 「どちらも楽しい遊びだったら?」
 妲妃は口端に笑みを浮かべた。滅ぼす方を選んだからといって、どうしてそれが罪悪だろうか。
 「ねえ、貴方達も、この失道を存分に楽しみましょう?」
 その宣言は、逆賊によってもたらされた阿鼻叫喚に掻き消された。

「いのちをたもつのも、いのちをほろぼすのも、どちらもたのしいあそびだったら、
ほろぼすほうをえらんだからって、どうしてそれがざいあくかしら?」
香山滋『海鰻荘奇談』




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2:待つ身(珠国 / 主従)


 王は善政を敷かねば、生を永らえない。
 そしてこの世界には、五百年以上のときを永らえた王は、数えるほどしかいない。その内の一人が、現在、最北の国、奥国を治める王、遠呂智である。遠呂智は齢九百を超える名君であり、当然、現存する王の中で最年長を誇る。
 その名君遠呂智が、魔王、と恐れられるようになったのは、先年のことである。治世千年を目前に控えたときのことだった。
 魔王遠呂智は、突然、全てに飽いたかのように人々を殺していった。奪うだけの暴虐は、当然、神の機嫌を損ねることになる。失道十八日目にして、麒麟が病にかかった。しかし、今更道を正すような遠呂智でもない。遠呂智は、血によって穢れ理性を狂わされた、本来は麒麟に仕える女妖妲妃を宰相に、異界からこの世界へやって来た海客である平清盛を禁軍将軍に据え、人々を虐げていった。その間にも、土地は荒廃し、魔物によって荒らされていった。
 それを良しとしなかったのは、隣の越国を治める賢君、謙信と、その同盟相手である斐国の王、信玄である。二人は天の定める綱に触れぬよう慎重に、奥国の民を支援していった。
 王がいなければ、国は荒廃する。そして、王を選ぶのは、麒麟の役割だ。麒麟が王を選べるほど成熟するには、十数年の月日がかかる。その間、奥国は荒廃し、民が疲弊するしかない。しかし、麒麟が生き永らえた場合、どうだろう。麒麟がおらねば生きられない王と違い、王がおらずとも麒麟は生き永らえる。今ある麒麟を救い出し、即急に、新たな王を選出させれば、奥国の被害は最小限ですむのではないか。
 もっとも、この案には幾つか大きな穴があった。一つには、魔王遠呂智が二人の策を読めぬほど愚かな王ではないということ。そして、一つには、仁の生き物であるはずの麒麟が、死を同じくしても良いと思えるくらい、魔王に心酔しきっていることだ。
 珠麟ガラシャは、落ち着かない様子で部屋を行き来していた。王である孫市が許せば、今すぐにでも、奥国へ飛んでいくことだろう。蓬山で箱入り娘として育てられたガラシャは、胎果である政宗に憧れていた。何よりガラシャは、己が孫市に出会えたのは、政宗の助言が切欠であることを重く受け止めていた。
 だが、孫市には孫市の責任がある。孫市は一国を背負うものとして、戦乱の地へ麒麟を赴かせ、己の治める民を危険に晒すことなど出来なかった。そうでなくとも、麒麟は穢れに弱い生き物だ。死の渦巻く奥国など向かうだけで健康を害するだろう。それほどまでに、現在の奥国は死や血で満ちている。
 「ガラシャ、落ち着け。」
 孫市の声に、ガラシャが振り返った。
 「そうは言うが、孫!妾は政宗が心配なのじゃ…!妾だけではない。政宗は…政宗は、孫のダチであろう?心配ではないのか?!」
 そう言ってから、ガラシャははっとしたように項垂れた。
 「すまぬのじゃ…妾は、孫の気持ちも考えぬで…。」
 「気にすんな。どれだけ望んでも、俺が政宗を助けに行けないのは、事実だしな。」
 孫市は政宗と立場を超えた友情を育んでいる。今は越国に在籍する慶次も混ぜて、三人で、地位を忘れて馬鹿をする仲だった。だから、政宗の危機に駆けつけたい気持ちがないはずがない。出来うることならば、さっさと魔王には引退を願って、政宗の命を繋ぎたい。
 だが、やはり、孫市は王なのだ。責任のなかった風来坊時代とは違う。今は、守るべきものがある。民やガラシャのことを思うのであれば、天の定める綱を犯すなど、決してあってはならないことだった。軽挙は許されない。
 「大丈夫、あんま心配すんな。謙信と信玄が動いてんだ。きっと、政宗は無事さ。」
 自らに言い聞かせるように、呟く。
 朗報を待つしかなかった。


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3:地獄(奥国 / 卑弥呼)


 妲妃ちゃん、大丈夫なんやろか。
 奥国宰相妲妃に仕える女官、卑弥呼は、閉められた扉へと視線を投げかけた。
 かつて卑弥呼は、西にある小さな農村で暮らしていた。村の名前は覚えていない。年端も行かぬ年齢だったのだ。覚えているのは、最後のとき、泣きじゃくる母の目に諦念が浮かんでいたこと、己の手を引く男の手が大きくごつごつしていたことだけである。後に卑弥呼は自分が、戦時と不作という状況もあって女郎屋に売られたらしいことを、同じく親に売られた店の姉さんから聞いた。
 卑弥呼がこの異世界へ迷い込んだのは、水揚げを控えたときのことだった。あの日、卑弥呼が奇妙な興奮と大きな絶望を胸に鏡をぼんやり覗き込んでいると、突然ぐらりと地面が揺れた。震災が起こったのだ。卑弥呼は、慌てて机の下に潜り込んだ。
 そして、気づいたらこの国へ来ていた。
 海客がこの世界へ流されるとき、双方の世界に大きな災害をもたらすのが通例である。そのため、海客が快く受け入れられることは少ない。それは、現在王が道を失い、荒れている奥国ではなおさらのことだった。あのときの、言葉も通じず、鍬や鎌を手に殺気立った目で近づいてくる村民を見たときの恐怖は、忘れようとしても忘れられるものではない。それは、言葉が通じるものに助け出された安堵感にしても、同じことだった。あれ以来、卑弥呼は妲妃に仕える女官になった。
 あの後、卑弥呼は、村民達が首を刎ねられ、その領はことごとく焼き尽くされたと風の噂で聞いた。そもそも、あの場に妲妃がいたのも、彼らを討伐する目的でのことであったらしい。それでも構わない、と卑弥呼は思った。他の人にどうあっても良い。卑弥呼は、妲妃が自分の味方には優しいことを知っている。だから、妲妃の敵になった者達が悪いのだ。――そう、思うことにしている。それは、己に言い聞かせる作業でもあった。
 卑弥呼は扉から目を外し、自分が控えている寝台の上へと視線を移した。そこには、この国の麒麟である政宗が、血の気の失せた青白い顔で死んだように眠っている。卑弥呼は手拭いを濡らし、政宗の額に浮かんだ脂汗を拭い取った。
 「…妲妃ちゃんに任されたんや。うちに任せとき。」
 そう言いながら、卑弥呼は妲妃に手渡された懐刀に一瞥を投げかける。卑弥呼は妲妃に、政宗を託された。政宗は、女妖妲妃が仕える無二の主であり、何より、この奥国の礎である。その麒麟の身を守るためのものなのか、それとも――。変わらず、懐刀は鈍い光を放っている。卑弥呼は思わず顔を背けた。
 何かが廊下を駆け去る騒々しい音がする。怒号。金属が叩きつけられるような音も聞こえた。
 卑弥呼たちを守るためのものなのか、閉じ込めるためのものなのか。妲妃によってかけられた鍵と鉄の鎖が、外にいる者たちの手によって、外されようとしている。一度、二度。剣が打ち付けられ、鍵がねが耳障りな悲鳴を上げる。卑弥呼は諦めるように小さく嘆息した。縋るように政宗の手を握り、その手を見つめる。そして、気づく。それは小さな、あまりにも小さな掌だった。この国を支えるにはあまりに小さく、幼い。
 外から、麒麟、という単語が卑弥呼の耳に届いた。麒麟が何だと言うのだ。卑弥呼は悲哀にも似た怒りで、強く政宗の手を握り締める。彼らはたかが麒麟一体で、全てが、負えると思っているのだろうか。国も、王も、そこに住むものの命も。卑弥呼は己のことで精一杯だった。どうして、それではいけないのだろう。麒麟だから全て背負え、と彼らは求める。麒麟だから、と彼らは言う。麒麟だから――卑弥呼の目に、涙が滲んだ。麒麟だから、何だ。この手は、全ての責を負うにはあまりに小さい。
 鎖が切断され、地面へぶつかる。暗い部屋に、光が差し込んだ。卑弥呼は痛いほどの光に、目を眇める。そのひょうしに、涙がこぼれた。
 混沌とした暗い感情から、思わず、卑弥呼の口端に笑みが浮かんだ。この手からは多くのものが零れ落ちてしまった。そのことを誰よりも痛感しているのは、そう、仁の生き物であるこの手の持ち主なのだ。
 今の卑弥呼は知っている。これこそが地獄なのだ。地獄とは、かつて母に語られた夢物語ではない。硫黄の匂い、火炙り台、針山など必要ない。阿鼻叫喚でもない。地獄は誰にも等しく、すぐ側にあるのだ。
 扉が開き、影が近づいてくる。卑弥呼は、まるで他人事のような思いでそれを眺めていた。
 地獄とは――他人のことだ。

じゃ、これが地獄なのか。こうだとは思わなかった…二人ともおぼえているだろう。
硫黄の匂い、火あぶり台、焼き網なんか要るものか。地獄とは他人のことだ。
サルトル『出口なし』




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4:友(越国 / 慶次)


 取手ごとねじ切るようにして、扉は開いた。扉を強固に守っていた鎖が、じゃらりと音を立てて地面へ垂れ下がる。かつてこの国に客将として仕えたこともある前田慶次は、もう使えそうにないないほど潰れた剣の刃に一瞥をくれてから、その部屋へと踏み入った。室内はしんとしていた。まるで、外の変事が嘘のような静けさだ。
 その中で、死んだように眠る政宗の姿を、慶次はいつになく真剣な面持ちで見つめた。あのやんちゃで生気に溢れていた子供の姿は、どこにも見受けられない。それは、静かに死を待つ病人の姿だった。政宗の眠る寝台の脇では、側仕えの女官が椅子に座ったまま、自失の呈でこちらを見ている。見覚えのない娘だ。慶次がこの城を離れてから、仕えたのだろうか。その娘のまろい頬は、涙の筋で痛々しく彩られている。手拭いと桶の置いてある卓に、懐刀があるのも見えた。
 隣国である越国に面白い男がいるらしい。そう聞き及んだ慶次が興味を持ち、遠呂智の下を離れてから、一年が経っていた。否、たった一年しか経っていなかった。その間に、国は荒れ果て、宮城は死者で満ち溢れてしまった。
 同じく、長きに渡る生に厭いている慶次には、遠呂智が何を求めてこのように暴虐に走ったのか、痛いほどわかった。退屈を知ることのない永遠の終わりだ。最後に座興があれば、なおのこと良い。しかし慶次は、理解は出来るが、同調は出来なかった。幸か不幸か、慶次には、寸でのところで踏み止まる良識が、今一歩が踏み出せない優柔不断とも呼べる理性があった。謳歌すべき生の尊さを、終わりでしかない死の絶望を知っていた。
 大股で歩み寄る慶次に、女官が肩を強張らせる。その眼に、意を決したような強い思いが宿った。
 「…政宗は、渡さない!うちが頼まれたんねん!」
 「…、奪やしないさ。」
 女官の懐刀へ伸びようとする手を制して、慶次は毛布ごと政宗を抱きかかえた。改めて見る政宗の顔色は土気色を通り越して白に近く、あまりの容態の悪さに意識も混濁しているのか、抱きかかえられても身じろぎ一つするわけでもない。早くしなければ、政宗の命も危ない。慶次はきつく唇を引き伸ばした。
 「俺たちは、かえしに来たのさ。」
 何を、とは言わなかった。それでも、女官はわかったようだった。見る間に、涙が盛り上がっていく。こらえきれない絶望に、唇が慄いた。
 「そんなこと言うたって、うちは…、うちは…、絶対に、嫌や。…嫌。うちから、取らんといて……。」
 わっと顔を両手で覆って泣きじゃくる女官の頭をあやすように撫ぜた。やりきれない気持ちが胸いっぱいに広がる。だが、他に選択肢はないのだ。慶次は毛布で包まれた政宗を、越国から支援という形で参戦している己の主兼続へと託した。
 「ちょっくら、頼むわ。」
 麒麟は空を飛ぶ獣の例に漏れず、目方が軽く出来ている。しかし、そのことを知るものは少ない。兼続も手渡された麒麟の予想外の軽さに驚いたのか、僅かに眼を見張った。それから、気遣うような眼差しで慶次に問いかける。
 「慶次、お前はどうするのだ?」
 落とさないよう抱え直す兼続に、慶次は無力感から唇を噛んだ。
 「俺は…遠呂智の望みを叶えてやるだけさ。友、だからな。」
 慶次は未だかつてこれほど苦い思いで、その単語を口にしたことはなかった。おそらく、これからもないだろう。慶次は愛用の槍を手に、宮の廊下を突き進んで行く。慶次たちが突入する前に、妲妃が直接手を下したのか、城内は閑散として生者の気配がなかった。あちこちに転がる遺体に顔をしかめて、慶次はやりきれなさから溜め息をこぼす。遠呂智は最後に気の触れた名君として、歴史に名を残すことだろう。今生を生きる民には、憎悪の対象として語られることだろう。しかし、慶次は知っている。遠呂智は善悪を超越するほど偉大な男だった。遠呂智にとって善も悪も価値は同一だった。慶次は遠呂智がいるであろう謁見の間への大扉に手をかける。
 何より、慶次にとって、遠呂智は無二の親友だった。


 その日、奥国と奥麒は天へ返された。長きに渡って善政を敷き、類稀なる名君として評価されていた奥王遠呂智が転変し、暴虐の限りを尽くして誅されたのが、治世九百九十九年目のこと。治世一千年まで、残すところ僅か六十七日のことであった。


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初掲載 2009年4月12日
正式掲載 2009年4月26日