MASQUERADE / オペラ座の怪人   現代パラレル   R18


 人は誰しも仮面を被って生きるもの。
 そのようなモノローグで始まるゲームは、さて、何だったか。
 前髪をヘアピンで留め、後ろ髪をシュシュでまとめる。夏休みの良い点は、髪を伸ばしても怒る輩がいないことだ。鏡に映った顔は、日焼け止めをかかさなかったこともあって、抜けるように白い。思春期だと言うのに、吹き出物一つない肌は、指先で突くと水を弾く若さに溢れている。肌の調子が良いことに気を良くして、自然と歌を口ずさみたくなった。どうせ、旅先だ。旅の恥は掻き捨てと言うではないか、構わないだろう。歌いながらポーチを引き寄せ、中の化粧品を漁る。ファンデーション、チーク、アイシャドウ、マスカラ、そして、今回お披露目の、新色グロスと新作香水。夏らしい柑橘系の香りは、微かにミントの清涼さも兼ね備えていて、言うなれば無敵だ。ヘアピンを取り去って、シュシュも外すと、ふわりとサイドに広がる茶色い髪が、緩やかなカーブを描いている。校則の関係で、ぱっと見、男か女か迷う程度の長さしかないが…指先でレースたっぷりのワンピースを摘み上げ、にっこり笑う。これだけのフリルだ、間違えない方がどうかしている。すらりと伸びた手足、コルセットで作られた細腰、ミルクを思わせる顔立ち。うわ、我ながら、愛らしい。出来の良さに満足して、顔を綻ばせる。最後に義眼を入れて、ばれにくいよう伊達眼鏡をかければ完璧だ。
 鏡の中には、花のような笑みを浮かべる美少女が存在している。
 人は誰しも仮面を被って生きるもの――伊達政宗の仮面、それは、美少女の姿である。
 政宗は鼻歌交じりに鞄を掴みあげると、エナメルのミュールを引っ掛けて、外出を決め込んだ。


 四国は東京より南ということもあって、夏の日差しが強いように感じる。政宗は日焼け止めを塗った手を翳して、通りを情け容赦なく照らす太陽を見上げた。
 ぎらぎらと照りつける太陽は正しく魔物だ。政宗が女装時のみ着用する義眼は、ガラス製なので、陽光を跳ね返して光るのである。もっとも、隻眼などと言う目立つ格好で町を練り歩くわけにもいかないから、他に選択肢もない。どれだけ家から離れていようと、今は夏休みだ、気を緩めるわけにはいかない。万が一知人と遭遇したとき、隻眼という特徴を曝け出していた場合逃れようがないことを政宗は承知している。
 政宗は口惜しさに唇を尖らせると、再び、前を向いた。
 もっとも、眼帯などという無粋なものをしてしまえば、ゴスロリファッションでもない限り、花を欠いて仕方ない。二兎を追うものは一途も得ずとも言うし、これはもう、こういうものだと我慢するしかないのだ。きっと。
 政宗にこのような趣味が出来たのは、ここ最近のことではない。
 元々は、幼少期の政宗が、化粧台に腰掛けて化粧をする母の柔らかい雰囲気が好きだったことに端を発する。母は、真っ赤な口紅を興味深そうに眺める息子を面白がって、「なあに、まーくんもつけたいの。ほら、いらっしゃい。」と政宗を手招き膝の上に乗せて、「これでお揃いよ。」そう言って、幼い唇に紅を刷いて笑った。あの頃の母は、幼さゆえ性徴の欠片もない息子を娘のように、あるいは人形のように可愛がっては楽しんでいた。政宗も、母が笑いかけてくれれば、それだけで十二分に幸せだった。
 右目を病んで容姿を損なって、母の寵愛が離れていったとき、政宗は幸せも損なわれたことを知った。だから、幸せを思い返そうと化粧台に向かったのが、この政宗の女装癖の始まりだった。拙いながらも化粧を施すことで、昔のように母に笑いかけてもらいたかったのか。それとも、そこに微かに沁み付いた幸せの残り香を嗅ぎ取ろうとしたのか。そんなことは覚えていないし、思い出したくもない。
 元々凝り性である政宗は、こうして女装を極めつつある。それだけが、今断言できる事実である。
 他人に指摘されるまでもない。政宗自身、妙な趣味だという自覚はあるのだ。しかし、直そうという気すら起きないのは、周囲に理解者が多すぎるせいだろう。
 父の死が切欠で引っ越した東京の住まいの隣が、同じく女装癖のある元親だったのも、今にして思えば運が悪かった。当時、6歳の政宗は、10歳年上のこの妙な色気を醸し出す隣人に魅せられてしまったのだ。異性として、とか、そういうことではない。女子高の憧れのノリ、とでもいうのか、お姉さま、というやつだ。元親も、子供に懐かれて悪い気がしなかったのだろう。その上、その愛らしい子供は同好の士だ。眼に入れても痛くないほど、元親は政宗のことを可愛がった。もうサイズも合わないからと言っては、幼少期の服を分けてくれた。
 元親は女装癖を捨てて、今では、メジャーデビューも果たしたビジュアル系バンドの一員である。
 一方の政宗は、趣味が高じて、こうして遠地に足を伸ばして一人お披露目会をする昨今だ。今回、元親の地元を旅先に選んだのは、たまたまというやつである。故郷には立ち寄りたくないし、春には桜を見に山梨へ、冬には寒さを忘れて沖縄へ、昨年の夏は避暑目的で北海道へ足を運んだのだ。消去法の結果、と言っても良いだろう。
 それにしても暑い。政宗は眼鏡の下で長い睫毛をうんざり瞬かせて、溜め息一つ噛み殺すと、180度方向転換した。暑さのせいか人も疎らだし、たまに見かけるのは巡礼中の人々だ。今回は目的地を選び間違えたかもしれない。そう思いながら、政宗は足早にホテルへと急いだ。途中、見かけた全国展開のコンビニにでも寄って、アイスでも買っていこう。心に決める。
 政宗も現役の高校三年である。受験戦争も、いよいよ正念場だ。今年の冬にはこのように気晴らしをすることなど出来ないというのに、何故、これほどまでにこの地は夏らしい暑さに満ちているのか。
 この暑さは、夏に弱い北国生まれの政宗には耐え切れない。


 コンビニで冷たい飲み物やアイスを買い込んだ政宗が、ホテルのロビーへ向かうと、長身の男たちがフロントに屯していた。大学生だろうか。汗をかいてビニール袋に張り付くペットボトルの蓋を開け、中身を咽喉に流し込みながら、こっそり観察する。嫌に垢抜けた都会風の美しい男が一人、端正な顔立ちの男臭い男が一人、それから、フロントで対応を任されている体育会系の男が一人。全部で三人だ。
 これは、もしかすると、良い気晴らしが出来るかもしれない。ナンパさせて、からかって弄ぶとか。
 ペットボトルから口を離した瞬間、政宗は、部屋の鍵を受け取ったらしい体育会系とばっちり目が合ってしまった。いけない。興味津々で眺めていたのがばれてしまう。
 政宗はにっこり笑って返した。
 フロントと交渉していた体育会系は、正面から見ると爽やかな好男子だった。夏の暑さ対策か、乱雑に後ろで括った髪は僅かにこぼれて、日に焼けた精悍な首にかかっている。こういうタイプは、神経質そうなクールビューティーや、口煩そうな野郎よりも、その真面目さから周囲に人気があるのが常である。さぞ、異性にももてるに違いない。純情そうなところが、また、乙かもしれない。
 政宗の中で、この旅の標的が決まった瞬間だった。


 政宗が男と再会したのは、入浴後のコンビニでのことだった。夜になり幾分涼しくなってきたし、また街にでも繰り出してみようかと悩みながら、コンビニで政宗がアイスを眺めていると、扉の開く音がした。入り口のすぐ脇がアイスコーナーだ。自然と扉に目を向ける政宗と、入ってきた人物の眼が克ち合った。それが、あの男だったというわけである。
 入浴後、と一口にいっても、女を装うという旅の目的ゆえに部屋の浴槽に浸かった政宗と、そのように気兼ねすることもなく大浴場を利用した男とでは、随分違う。自宅から持ってきた女装時専用の入浴剤の香りをさせる政宗とは対照的に、後ろを通りかかった男からは、潮の匂いがした。入浴後、三人でどこかをぶらついてでも来たのだろうか。少し汗の臭いもした。
 ちらりと投げかけられた視線が項を掠めた。政宗には、それが母譲りの美しい項であるという自信がある。一秒、二秒。わざとらしくない程度に間を空けて、政宗は細い首を傾けて後ろを仰いだ。
 色情を削ぐほど愛らしい部位が溢れている中、首を捻った拍子に浮かび上がる鎖骨が、思いがけなく扇情的であることを政宗は知っている。女らしい丸みこそないものの、手折れそうなほど華奢な肢体は、幼少期からコルセットで締め付けていた影響で細くくびれている。胸がないのは愛嬌だ。そういう嗜好の輩もいるし、見えそうで見えない胸元が男の好奇心を刺激することは経験則からわかっている。もっとも、見えたところで何もないことは、誰よりも政宗が知っているのだが。
 「あなたもアイスを買いに?暑いですものね。」
 そう言って、そつなく笑いかける。
 思えば、これが、悪夢の始まりだった。


藤色のひらめき 褐色のしぶき
道化と王様 悪鬼と間抜け
緑と黒 女王と司祭
口紅の跡 獣の顔 顔
あなたの番だ お乗りなさい
恐ろしい速さでまわるメリーゴーランドに
金色の目 青い太もも
本当が間違い 誰が誰?
唇がゆがむ ドレスの裾がくるくる回る
ハートのエース 道化の顔 顔
思い切り浸り 楽しんで
光に 音に 溺れてしまうまで


 鮮やかな色彩を振りまいて、人々が歌う。四・五年前に公開された映画の一幕だ。
 それまで点けたままだったテレビを、男が消した。
 びくびくと爪先が跳ねる。強烈な快感に、世界が眩む。押し開かれた足の奥深く咥え込んだ太いものが行き来するたび、揺すりあげられる肢体からは力が抜けていった。諦め悪く立ち上がったものだけが、男の意地の悪い手の中で、緊張を漲らせているのがわかる。塞き止められて、いきたいのにいけないもどかしさから、口からは止め処なく悪趣味な懇願が漏れ出て、涙で滲む視界は朦朧としている。
 そんな政宗の視界に、可憐な唇をだらしなく開けたまま涎を垂らして喘いでいる少女の姿が入った。鏡に映った自分の姿だ。皺だらけのワンピースは、後ろを腰の辺りまでたくし上げられている。フロントはスカート部分の関係で見えないが、下着が股までずり下げられた様が見て取れる。背をしならせて、高々と掲げた尻に男を迎える姿は女そのものだ。
 その事実が、尚更、プライドの高い政宗には堪えた。政宗は女の格好をするのが好きなのであって、決して、女そのものになりたいわけではない。男が皮肉るように、同性に良いように嬲られて喜ぶ性癖があるわけでもない…ない、はずなのだ。
 ぐりと先端に爪を立てられて、一瞬、意識が飛んだ。待ち望んでいた解放と、中に放たれる熱に、政宗の膝が崩れる。しかし、崩れ落ちる体を引き寄せて、男が乱暴に熱の引ききらぬ内を穿つ。凶悪に根こそぎ理性を薙ぎ払う快感が背筋を駆け抜け、政宗は身を震わせて泣きじゃくった。
 仮面をかけているのは己だけだと信じた政宗が悪いのか、人の良さそうな仮面の下に性質の悪い本性を隠していた男が悪いのか。
 涙の流れる右目の義眼を、男がそうであることを知っていたかのように、舌で舐め上げる。頭の中がぐちゃぐちゃで、もう、何も考えられない。
 享楽の狂乱は、夜を徹して続いた。


マスカレード 仮面舞踏会
紙の仮面のパレード
マスカレード 顔を隠せ
誰にも見つからないように!

マスカレード
どの顔にも さまざまな彩り
マスカレード 見回してごらん
あなたの後ろに 別の仮面がある


 翌朝、全てが現実だったと突きつけられた政宗は、当然のようにそこから逃げ出した。ホテルの宿泊をキャンセルして、キャンセル待ちで飛行機に飛び乗って、東京にとって引き返したのだ。
 一度男を知った身体は、しばらくの間、疼いて仕方なかった。あれだけ乱暴に好き勝手されたというのに、温室育ちの身にはあれくらいが丁度良かったらしい。乱暴といっても、言葉や行為が過ぎたくらいで、血を見たり痔になったりするような目には会わなかったのだから、それなりに幸運な方だったのかもしれない。いや、だからこそ、不運だったのか。
 慣れない体勢を長時間取ったことで痛む節々を呪いながら、ビジネスクラスに席を確保できた政宗は、女性の一人旅の危険性と我が身に降りかかった思いがけない不幸とに、受験も待ち受けていることだし、しばらくは女装をするまいと心に固く誓った。
 本当に、固く誓ったのだ。自分が仮面の下に隠し持っていた本性をもう二度と見たくなかったから。
 このときの政宗は、男が元親の知り合いであったこと、それゆえすでに正体を知られていたこと、入学先の大学に男が在籍していたこと、ゆくゆくは恋人にまで関係が発展してしまうことを、幸か不幸か全く知らずにいた。











初掲載 2009年8月8日