何かあったら連絡しろ。
政宗の携帯の短縮ダイヤルに三成が自分の番号を入れたのは、もう五年も前の話だ。まだ政宗が高校生で、付き合い始めた当初のことになる。出会いは良くあるパターンなのだが、これも人生勉強の一環だとねねに知り合いの家庭教師を押し付けられて訪れた先が、政宗の実家だったのだ。こましゃくれた子供で、辟易したのを覚えている。
政宗は無理矢理施されたその設定に、戸惑うように携帯を見つめた。文句を言いたかったのかもしれない。あるいは、無駄だと思ったのかもしれない。そのとき政宗の胸に去来したことは謎だが、ともあれ、その後の五年、政宗が短縮ボタンを利用することは決してなかった。
流行に弱い政宗が携帯を買い換えるたびに、三成はせっせと設定を変えたが、それでも押されることはなかった。原因は明らかだ。付き合い始めることになった契機が、政宗の大学合格だった。それから政宗は確執のあった実家を離れ、三成と同棲し始めた。朝夕会うのだ。連絡を取る必要がそれほどない。
その上、さして事件も起こらなかった。仮にあったとすれば、それは、秀吉の浮気がねねに発覚したことだろう。しかし、所詮は豊臣家のこと。それが三成の恩人とはいえ、よそ様のことだと口出しするには至らなかった。ねねに睨まれた影響もある。あるいは、阿国にモーションをかけられたことか。だが、それは双方にかけられたこともあり、誤解するには至らなかった。仮に誤解されても、それは嫉妬だと三成は嬉しくなっただろう。物を投げられて、殴られ蹴られ、マンションから叩き出されるぞ、と提言したのは政宗の年の離れた親友の孫市だったが、三成は頑として信じなかった。
そういう事情で使われることなく眠り続けた短縮ダイヤル。知らぬ間に携帯の設定をいじられる政宗は、三成に対して直接文句を言うこともないので迷惑がってはいないのだろうが、喜んでいないのは明らかだった。勝手に携帯をいじられるからだ。あるいは、束縛が面倒くさいのかもしれない。三成は嫉妬深い性質で、思い込みも多かった。また、色々口出しも多かった。敵を大量に作る要因にもなっているそれらを、政宗は常々面倒くさいと思っていた。
それに一応気付いてはいたが、三成は設定を変え続けた。何かあってからでは、後悔しても遅いからだ。
『…三成、』
だから、五年目にして初めて利用されたとき、三成は内心喜んだ。勤務中に連絡を寄こすことのない恋人が、昼休みを過ぎた辺りで唐突に連絡を寄こしてきたのだ。左近と会議の打ち合わせの最中だったが、三成はそっちのけで携帯に出た。向こうから弱い声が届いた。
『…死ぬ…。』
いつも意地を張って生きている政宗のことだ。これは、本当に、異常事態だ。
実際に利用されてしまうと、三成はどうすれば良いのかわからなかった。便りのないのは良い便り。それを三成は失念していた。大体、とっさの機転は政宗の方が利くのである。マニュアル対応の三成の方は、どちらかといえば不得手だった。道理で政宗が連絡してこないはずだ。
しかしだからこそ、いよいよ異常事態だと知れる。
「左近。」
うろたえて三成は左近を見やった。左近は既に、内部の会議だし欠席しても俺が出りゃ大丈夫かな、とその後の予定を考えていた。
帰宅すると、政宗はベッドで丸くなっていた。
先週から今週にかけて、政宗は越後に出払っていた。良くわからないが、フィールドワークなそうなのだ。卒論に関係するらしい。
そういうわけで久しぶりに見た政宗があまりに弱弱しかったので、三成は内心慌てふためいた。昔からこましゃくれで成長してもそれは変わらず、いつも溌剌、気の強いことで有名な政宗がこの様子なのだ。一体何が、と三成は唖然とした。左近に代われ、と電話越しに命じられて、その左近から持たされたビニール袋が急に重く感じられた。風邪だと聞いたが、風邪ごときで俺の政宗がこんなことになるわけがない、と妙な確信が三成にはあった。それだけ、三成は政宗の意地っ張りに信を置いているのだ。
まさか、越後で教授にセクハラ…いや、乱暴でもされたのか?!立場上嫌とも言えず、貞操を…。
政宗の担当教官は信玄だ。そもそも、フィールドワークと称して、旧友謙信と酒でも呑みつつ語らって、温泉に浸かりたかっただけだ。心配するだけ無駄な話だが、三成は恋に盲目だった。三成はベッドへ駆け寄った。
「政宗、無事か…?」
しかし、まさか三成の妄想がそこまで及んでいるとは思いもしない。政宗は、無事、が貞操の無事を意味するのだとは微塵たりとも思わないまま、曖昧な態度で三成を見つめた。熱に浮かされ意識が朦朧としていたのだ。
無論、三成が懸念するようなことが原因であるわけがない。もともと越後に向かう前から、政宗は少し風邪気味だった。風邪になるかならないか、微妙な頃合だ。それが、犬猿の仲である兼続との応酬で一気に悪化した。敵に不調を見せられるか、と意地で隠し通していたのだが、帰宅した途端疲れが出た。
かつて病で右目を失い、母の寵を失った過去がある。そのため、政宗は体調管理に誰より注意を払ってきた。病に罹るのが怖かったのだ。五年間、一度も政宗は体調を崩さず過ごしてきた。しかし、へそ曲がりと強がりを優先した結果、今回風邪になってしまった。ただの風邪なのだが、実際患ってしまうとそれが高熱だったこともあり、政宗の不安は一気に加速した。
もしかしたら、残された左目も見えなくなるのではないだろうか。三成も母のように、傍から離れていくのではないか。
もう、独りは嫌だ。
「薬を持ってきた。その前に何か食べられるか?」
ビニール袋の中身を並べると、用意の良いことにゼリーやプリンといったものから、固形食糧、レトルトパックの粥、アイスクリームに桃缶まであった。流石は左近だ。もっとも三成の家事能力のなさは有名な話で、料理というジャンルでは、卵を電子レンジにかけようとしたこともある。その人物に病人食を望むなど、それこそ高望みというものだろう。
言って良いものかと少しの躊躇いを見せた後、政宗が小声で呟いた。
「桃缶…食べたい。」
「桃缶だな?わかった、任せろ。」
そう勢い良く頷いたのだが、早速難題に突き当たった。缶切りのありかがわからないのだ。同棲しているため、三成の不器用は知っているので、政宗は家事全般三成に決して介入させず、台所にも入れさせなかった。しかし、任せろと大見得切った手前もある。ここですごすご戻るわけには行かない。戻ればきっと、政宗は落胆して自分で台所へ向かうだろう。男、としてそれだけはさせるわけにはいかない。
缶切りをどうにか見つけてからも、またそれが一苦労だった。使い方がわからない。こうだああだと試行して使い方がわかったものの、不器用なので指を切る。桃を皿に盛った頃には、三成の手は絆創膏だらけになっていた。不器用なので、その巻き方もしごく下手糞だ。こんな無様な指を政宗に見せるわけにはいかない、と内心三成は冷や汗を掻いた。やっぱり三成には任せられない、と言われそうだ。
しかし、隠そうとしても隠し切れない指の惨状に当然のように政宗は気付き、唇を開いた。どんな言葉が飛び出てくるのかと、三成は心底恐れおののいた。とはいえ、そこまで政宗も薄情ではない。第一、幼少期同様これが原因で厭われるのではないかと不安に苛まれているところに、三成の誠意を見てしまったのだ。その愛情が普段以上に身に沁みた。
「…三成、」
「な、何だ。」
「ありがとう。」
すまない、ではない。ありがとう、だ。あの、意地っ張りでへそ曲がりで矜持の高い政宗が、自分に対して。その事実に、三成は妙なくらいどぎまぎした。
「気にするな。…ほら、食べられるか?」
政宗の状態が状態だったので夢見た、あーん、も艶めいたものにはならなかった。しかし、政宗が甘えてくれたという事実で三成の胸はいっぱいだった。強がっていても、政宗は実際のところ寂しがり屋だ。三成はそれを理解していた。理解した上で、へそ曲がりなため政宗が自分に頼らないことを、内心残念に思っていた。
きゅーんと三成が胸を詰まらせるその傍で、唐突に玄関のチャイムが鳴った。
嫌な予感がして三成は無視を決め込んだ。しかし、表の声は三成に言った。
「こらっ!三成居留守しないの!居るんでしょー!」
とうとう政宗が三成の袖を弱く引いた。
「…三成。」
三成はともすれば漏れ出そうになる溜め息をどうにか堰き止めると、仕方なしに重い腰を上げた。
「政宗が風邪引いたんだって?左近から聞いたよ。うちの人も心配してね。」
ちゃっちゃと手際良く為される家事に、三成は若干憮然としていた。ねねは三成にとって母のような女性である。その母代わりが恋人の空間に乱入したのだ。居た堪れない。
しかし、そこは肝っ玉かあちゃんでかかあ天下の現人神のような御仁だ。息子の心情など露知らず、ただ純粋に政宗の体調を心配した。ねねにとっては、政宗も息子のような存在なのだ。それは政宗にとっても同じで、母のようなねねが見舞いに訪れてくれたことで一気に安堵したようだった。幼少の記憶が多分に影響しているのだろう。今は、すうすうと寝息を立てて静かに寝ている。
政宗の髪が張り付いた額の寝汗をタオルで拭うと、やっと人心地ついた気がした。流石はねねだ。居るだけで自分の空気に他者を取り込み、どんな大事件も日常に溶かし込んでしまう。三成も今ばかりは、ねねに感謝しないわけにはいかない。
まどろむ政宗に、強くそう思った。
「もう!政宗が旅行で居ない間、何もしなかったでしょ!ちゃんと換気して。あ、洗濯物もこんなに溜め込んでるじゃないの!」
しかし、流石に母代わりとはいえ、下着は見られたいものではない。
感謝はしますが、それはやりすぎでしょう!
心中抗議の叫びを上げて、声のする方に三成は走った。
初掲載 2008年1月10日