ファウスト / ゲーテ   悪魔パラレル


 元和五年十二月十九日、そのとき、江戸鯖屋敷で死を迎えようとする直江兼続の心にあったのは悔恨のみであった。上杉を盛り立て、どうにか江戸の世でも存続させた己の功績を誇るでもない。かつて山城守と呼ばれていた頃の栄誉を思うでもない。上杉のためとはいえ、関ヶ原や大坂で無二の友たちを裏切った己が許せなかった。今更の話ではある。あれから月日は流れ、遠く思うだけの記憶になってしまった。これから更に年月を重ねていく上で、それはやがて記憶から記録へと変貌を遂げるのだろう。誰も彼らを知る者は居なくなる。最期に兼続が彼らを思い返したのは、だからかもしれなかった。
 かたりと小さな音がしたのはそのときだった。
 布団から身を起こす体力も最早なく、視線だけをそちらへ向けると、男が立って兼続を見ていた。正四位下参議、伊達政宗だ。一瞬、兼続は伊達政宗とはこのように若い男だっただろうかと不思議に思った。柔らかい明るい色の髪は髷も結っておらず、肌は水を弾きそうなほど若々しい。犬猿と称された頃のままだ、まるで変わっていない。光の加減だろうか、兼続の記憶によれば深黄色であるはずの隻眼が真紅に見えた。
 しかし老い、死に瀕しているとはいえ兼続も馬鹿ではない。兼続より年若いとはいえ、政宗はそれでも五十路は過ぎているはずだ。何より身分が高いにもかかわらず供の一人もつけず、その上、兼続の部下の誰一人として政宗の到来を告げない。更に異様なことに、政宗は蜃気楼のように揺らいでいた。時折垣間見えるのは、遠い昔に目にした大きな黒犬の姿だ。ふっと脳裏を過ぎったのは物の怪や魔羅の類ではなく、かつて謙信から教わった人の血肉を喰らうという羅刹だった。
 「羅刹が…私を喰らうつもりか。」
 そう洩らすと政宗は低く笑い、兼続の方へ歩を進めた。
 「貴様のような老いぼれ、わしとて喰らうつもりなど更々ないわ。わしはな、山城。貴様に取引を持ちかけにやってきたのじゃ。」
 「山犬などと取り交わす契約など…私は持ち合わせておらん。去るがいい。」
 「ふん。でかい口を叩くではないか。」
 政宗は目を眇め、兼続の脇に腰を落とした。
 「大坂のことを覚えておるか?貴様が幸村を裏切り死なせた、あの戦じゃ。」
 兼続が、忘れられるはずがない。つい先ほども思い返していたところだ。答えず僅かに目を逸らした兼続の様子をそれが何よりの答えと思い、政宗は嗤った。
 「あの戦での貴様は見物じゃった。一体、何処まで堕ちてゆくのか、とな。もうあの頃の捨て鉢な言動は已めてしもうたのか?あれほど大きかった絶望も、もう、忘れてしもうたのか。物足りんとは思わぬか、このようなつまらぬ死を迎えて?死人は生き返らせられぬし、時空も超えられぬが、わしであれば貴様の望むものを与えることが出来る。地位、名誉、金、若さや健康。もう一度生を謳歌してみとうはないか?貴様だとて内心思うておるはずじゃ。己はこのような場所で終わるはずではない、もっとやれたはずだ、と。わしは貴様に何でも与えよう。与えられるだけの力がわしにはあるのじゃから。伴侶、召使、奴隷のように貴様に仕え、かつて誰もが欲しながら得る事が出来んかった享楽を提供してやろうではないか。」
 「…その報いは、何だ。」
 「貴様が生をもう満足じゃと思うたら、それ以降はわしに同じように仕えてもらう。「瞬間よ止まれ、汝はいかにも美しい!」!そう言えば良い、簡単なことであろう?楽しいときは長くは続かぬ。貴様はそれを誰よりも知っておるはずじゃ。しからば、そこで全てを終わらせてしまえば良い。貴様はまだ、この生に未練があるのか?貴様が望んだのは、全ての終わりであろう?違うか?」
 そして政宗は声をあげて笑った。
 「わしは羅刹などと人間の敵如きでは終わらぬ。わしは、誇り高き阿修羅――神々の敵じゃ!」
 政宗はそう言い、兼続の手を引いた。掴んだ手はまるで死人のように冷たかった。


 兼続は、この世界で変わらないものがあるのか知りたいと思い、そしてそれこそを政宗に願った。その果てに己の「死」があっても良い。どちらにせよ永遠に変らないもの、それがあれば、己は叫ばずにいられないだろう。願わくば、それが、美しいものであれば良かった。
 初め、政宗は地下の国へ兼続を連れて行った。根の国は薄暗く、原色に満ち満ちて、黄金や宝石で彩られていた。あまりの眩しさに、兼続は気が狂うかと思った。
 そこで出会った一人の妖女は、夜の国に相応しく怠惰な風情で、毒のように甘ったるい声でおかしそうに笑った。真っ赤な爪先が光を弾いた。
 「太陽と梵とについて神に教えたあなた(梵天)が、それに関して神に縋るなんてね。」
 政宗は答えず、素っ気ない顔で女に若返りの薬を求めた。女は心底楽しそうな様子で注文に応じた。
 「今度こそ成功すれば良いわね。」
 「…、貴様は?」
 「良いのよ。私は、地下で死人と遊ぶ方が性に合ってるわ。死者の女王。女王なんて素敵な響じゃない?私、今まで、そんな風に言われたことなかったもの。政宗さん。精々女狐、軍師どまりで。」
 女は己を恐れて人間は死者の爪を切るのだと、誇らしげに笑った。根の国へ降りた死者の爪は、女が神の国に攻める際の船の材料にされるのだと信じられている。それが、女には喩えようもなく可笑しいらしかった。
 「ここには輪廻から外れた落ちこぼれしかいないのに。それに、ああ、神様なんてね!私たちは、逆でしょ?ねえ、政宗さん。」
 そう言って女は再び狂ったように笑った。きらきらと濡れた血のような爪が光った。


 ただ、永遠が見てみたい。
 若返った兼続のそんな願いを叶えるべく、政宗は兼続に色々なことを教え、色々なことをさせ、色々な場所へと連れて行った。二人が訪れた場所は日ノ本や大陸はおろか、書物でさえ伝え聞いたことのない異境にまで及んだが、何処でも争いや憎しみは演じられ、人々は絶えず戦っていた。時には、兼続が己の眼を潰してしまいたいと切望するような場面もあった。それでも、兼続は前を見続けた。それが悪にしろ善にしろ、兼続は永遠を見てみたかった。
 めくるめく未知との遭遇すらも日常と化して来た頃、心に余裕の生まれた兼続は、政宗は何処の存在なのだろう、と不思議に思い始めた。日ノ本において、羅刹は人を喰らう鬼を意味する。だが、政宗は羅刹を人の敵、阿修羅を神々の敵と説明した。それは兼続の知る、日ノ本における意味とは違う。
 政宗は何処の存在なのだろう。
 やがて、兼続は、印度での阿修羅や羅刹の意味を知る。阿修羅は真実を避け、嘘を言い、姿を好きに変えることができる。彼らは神々の敵だった。同様に、政宗も真実を避け、詭弁で誤魔化した。兼続はどうすれば本当の政宗に接することが出来るのか知りたかった。だが、政宗がそれを拒んだ。
 伸ばした手は嘘を掴み、お為ごかしの交わりを生んだ。
 時折、兼続は政宗を抱いた。政宗は兼続が求めれば、真実以外の全てを与えた。それには体さえも含まれていた。政宗は兼続が求めるように振る舞い、兼続が無上の快楽に前後を覚えず、契約の言葉を口走ることを求めた。しかし、兼続は決してそれを口にしなかった。
 触れ合わせた身体は冷たかった。そんなとき腕の中の政宗の全てが嘘なのかと思うと、兼続は言いようもない空しさに襲われ、政宗を遠ざけた。だが、やがては飢え、再び求め来ることを知っていた政宗は、ただ黙って兼続に腕を伸ばされる時を待った。指先が触れてくる時を望んだ。
 政宗の目的は、兼続の充実あるいは絶望、それによる魂の輪廻の放棄だった。政宗はそれだけを望んでいた。兼続はそのことを承知していた。
 二人の間に温かい感情は生じず、ただ冷え冷えとしたものだけが介在した。


 ある夜、兼続は祭りに連れて来られた。そこでは農民と思しき異人が何か儀式を催していた。政宗はそれを、「ヴァルプルギスの夜」と呼んだ。
 ヴァルプルギスの夜は、元来、冬の魔を払う春告げの神々の祭りだった。しかしいつしかそれも異端とされ、悪魔ウーリアンに挨拶をするため魔女が列を成す儀式だと認識された。ここにも迫害は生じていた。
 多数の暴力。時の遍歴。理不尽に移り行き、戻らない全て。
 各地における太陽の認識、竜の認識、蛇の認識。時代、場所、それらの要因によって、人の認識は変化し続け、同一であったときはなかった。
 何もかもが移ろい留まることを知らないものだとする政宗に、それは本当なのだろうかと惑い続ける兼続は、政宗にかつてこれだけは不動だと信じたものがないのか、と尋ねた。それに、政宗は次の場所へ向かうぞと小さく呟き、兼続の問いを掻き消した。


 時を遡ること数千年前。あの決戦で、遠呂智は死んだ。
 あのとき、遠呂智の血を受け、魔族への仲間入りを果していた政宗は、どうにか遠呂智を取り戻そうとした。しかし、この世界には摂理があった。神でなければ死者を蘇生することは叶わなかった。
 そこに太陽がある限り、輪廻が生じる。太陽がある限り、死者は死者となった瞬間から輪廻の環に呑み込まれ、次の生を歩む。抗おうとしても無駄なことだった。たとえ月が太陽を喰らい、空から太陽が束の間消えようとも、政宗の力では蘇生はできない。それは神の仕儀に他ならない。政宗が理解したのは、それだけだった。
 当時、政宗は全てを手に入れたと思った。仕えるべき偉大な主君、絶対的な力。遠呂智の血を受け、死者の蘇生と時空の支配以外ならば、あらゆることを可能にするだけの力を政宗は得ていた。しかし、それでは遠呂智は取り戻せなかった。それまで、政宗が得たと信じてきた全てのものは、見せかけにすぎなかった。
 そのときから政宗は、真実を厭う阿修羅となった。言葉は吐く傍から嘘に成り代わり、身体は変転を繰り返し、定まらなかった。何より、政宗は神に縋る者でありながら、あくまでも神の敵であり続けた。
 遠呂智が死んでから百年経ったあの日、政宗は世界の維持を司る神の元へ直談判するため向かった。夢現にまどろんでいた神は、政宗に、仮に兼続を輪廻から脱却させることが出来れば、遠呂智も輪廻から外そうと約束した。過去の記憶を持つ、遠呂智だった存在を政宗に与えよう、と誓った。
 それは遠呂智ではないのかもしれない。単なる口約束なのかもしれない。だが、政宗は神のその口約束を盲目なまでに信じた。それだけが政宗の心の支えだった。遠呂智は甦る。遠呂智は戻ってくる。政宗と、妲妃のところへ。
 以来、遠呂智が甦ることを願いながら、政宗は兼続の転生者を誘惑し続けた。幾度となく兼続は生まれては死に、幾度となく政宗もその跡を追いかけた。そうして何千年もの時が過ぎいき、気付けば、政宗は己がかつていた時代に戻って来ていた。政宗はこのときから過去へ跳び、遠呂智に出会い、失ったのだ。
 初めて兼続という男にあったのも、丁度、この時代のことだった。


 真実、変わらないものとは何か。はたして、そのようなものはあるのだろうか。
 かつて政宗は永遠を信じた。魔に類するとはいえ、遠呂智は神だった。人は脆く、神は強い。人である政宗やその他の者たちが辿り着けない場所へ至れると信じた。幼さゆえの盲目だった。
 神は言霊に縛られる。それを知ったのは随分後のことだ。その日、神の屍は海へと沈み、政宗は焼け落ちていく船上で、口汚く呪いの言葉を吐いた。全てが、何もかもが、痛みに苛まれ、痛みを欲していた。
 遠呂智と呼ばれた魔王。おは峰、ろは接尾語、ちは霊力あるいは霊力を持つもの。それは大蛇を示す音だった。それに誰が遠呂智という漢字を当てはめたのか、政宗は知らない。だがそれは、強い力を持ち、それゆえにいずれ遠くへ行く存在の意だった。人の吐く言葉は言霊と呼ばれ、その力は偉大だった。脆い人が言葉で神を操り、神は強く人を支配する。世界はそのように作られている。それを政宗は知らなかった。彼は遠くへ去る神だった。政宗はそれを信じたくなかった。
 政宗は神を呪いながら、神を求めた。それは哀しい人の性ゆえだった。
 そんな政宗を、今は根の国に住む魔女は笑った。
 「可哀相な子。せめて、私だけでも味方でいてあげるわ、政宗さん。ずっと、政宗さんが消える最期の日まで。」
 伸ばされた腕は優しさに満ち溢れ、まるで、かつて失った母のようだった。


 かつて。
 政宗は兼続の手を引き、北へ向かいながら心中思った。
 言葉の持つ力は強いのだと兼続は言った。昔のことだ。兼続は愛や義ばかり盛んに口にした。
 その言葉を、当時、政宗は馬鹿にした。言葉の力など信じていなかった。信じたのはただ一つ、遠呂智だけだった。政宗は遠呂智以外の何ものも信じていなかった。否、信じたくなかった。
 だが、今は違う。
 政宗は皮肉な笑みを浮かべた。あのとき兼続が言ったとおりだ。言霊の力は、確かに強い。だからこそ遠呂智は政宗の元を去り、そしてそれゆえに、兼続はたった一言で己の魂を山犬と蔑んだ己に売り渡すのだ。
 「瞬間よ止まれ、汝はいかにも美しい!」
 その、たった一言で、永劫に彼は縛られるのだ。


 幾年か過ぎ、兼続はもう全てをこの目で見たと思った。政宗も、己の抱く真実以外、全てを兼続に晒したと思った。
 この世は汚れ、邪悪で満ちている。絶えず変転を繰り返して、留まることを知らないゆえに、善意も途端に悪意へ変る。政宗はそれを兼続に提示することで、輪廻という、再び生れ変り死ぬ選択肢を捨てさせようとした。
 美しいものなど、何ひとつとしてない。遠呂智亡き今、政宗の隻眼には全てが色を失い、霞んで見えた。匂い立つようなものは全て、遠呂智と共に立ち去ってしまった。
 じっと見守る政宗の前で、兼続は眼下で燃え立つ篝火を見ていた。夕焼けのような光が空を照らした。そこに差別や犠牲はなかったが、幾度目かわからない異境の祭りは、もう、兼続の心に感慨を呼び起こすことはなかった。
 全てが褪せて見え、兼続は物憂げに後ろを振り返った。そこには、橙に照らされ、自ら炎に身を投じたような政宗の美しい姿があった。
 ふっと兼続の脳裏を何かが掠めた。黒々とたゆたう水面。ごうごうと音を立て、炎上する船。頬を撫ぜる熱風。肺を焼き尽くすかのような灰塵。怒号、銃声。
 小さな、胸の内で大切に育んでいたものを失ったような悲痛な叫び声。胸の中へ倒れこんだ頼りない身体と、それを叱咤して掻き消えた青年。煤で汚れた頬。船上にこぼれ、線となった血の花。
 「…遠呂智、遠呂智!」
 あれは、と兼続は目を見開いた。
 あれは―――あれも、政宗だった。
 「瞬間よ止まれ、汝はいかにも美しい!」
 兼続の言葉に、政宗は、これで神に勝ったと思った。しかしそれは、兼続が真実を見出した瞬間でもあった。結果、真実、とりわけ真実の愛に弱い阿修羅の政宗は魔力を失い、ただの人間に戻ってしまった。
 久しぶりの人間の体はおぼつかず、触れれば折れそうに脆い作りだった。その上、遠呂智ももう取り戻す見込みはない。これで、希望は全て、絶えてしまった。
 政宗の目から涙が溢れて、とめどなくこぼれた。ただ流れるままにそれを落として、政宗は兼続に当り散らした。兼続の胸を打つ手は頼りなく、子供のように無力だった。
 サウィン祭り。収穫祭。それは冬の始まりを告げる、異界の門が開き自由に行き来できるとされる日である。
 冬だ。
 政宗は遠呂智がもう戻らないことをようやく悟って、泣いた。世界は輪廻流転を繰り返す。甦ることなど、ない。進み続ける時の流れに棹差しても、それが巻き戻ることは決してない。それを可能にしたのは、遠呂智だけだった。
 本当はわかっていた。それでも足掻いていた。せめて、目を閉ざして、拒みたかった。
 遠呂智が失われた世界――冬が来たことなど、政宗は決して悟りたくなかった。
 泣き崩れた政宗を兼続は抱きしめた。政宗の身体は以前と異なり、冷たくはない、温かい人の身体だった。目は萌えた緑の色をしていた。春の色だ、と兼続は思った。死を振り切ったそれは悲しいくらい美しくて、苦しいくらい生に溢れていた。
 兼続は強く政宗を抱きしめた。強く強く、ただ、抱きしめた。
 胸元からは、政宗の鳴き声が聞こえてくる。
 サウィン祭り。それは新年の始まりの日でもある。
 今日この日から、二人は新しい生を受けて生きていくのだ。











初掲載 2008年5月3日
参考
インド系(ブラフマン(梵天)・シヴァ・ヴィシュヌの三神 / アスラ(阿修羅)等 / ウパニシャド哲学(太陽や輪廻))
日本系(インドとの阿修羅等の解釈の違い / 言霊の力 / 愛染明王(愛が悟りに繋がる))
北欧系(ファウスト伝説(ゲーテをベース) / 北欧神話(ヘルや死者の爪) / サウィン祭りやヴァルプルギスの夜
 プラス、無双OROCHIや史実