政宗は夏というものが嫌いだ。何故これほどまでに暑くなるのか意味がわからない。おまけに蝉は煩いし、蚊に食われる。少し気を抜けばすぐさま黴が生える時期を、政宗は疎ましく思っていた。勿論、風流を解する政宗のことである。四季は大切だと思うし、それがある日本を好もしく思っている。だが、やはり夏は駄目だ。北国生まれの政宗にとって、生きるには辛すぎた。
その日も政宗は講義室の、後ろから数えた方が早い中ほどの席に腰を落ち着け、机に突っ伏していた。席は前すぎても後ろすぎても教師の目につきやすいため、そこは政宗の定位置だった。いつもは隣に従兄弟の成実が着くのだが、幸か不幸か、昨日からサークルの小旅行でいない。それも当然の話で、今日は八月三日、レポートがない学生は早々に夏休みに突入しているのである。この講義は、休講の分補講が行われているだけなのだ。とはいえテストが終了した後であるだけに、学生の姿はまばらだった。
政宗は補講を受けるためわざわざ学校に出てきた己を物好きな者だと思いながら、エアコンを睨みつけた。何ということはない、出席数が足りなかったのだ。この講義を取れないと後期にまた何か教養を取る羽目になるだけあって、政宗はそれなりに真剣だった。卒業がかかっているのである。
授業まであと5分。今年は稀に見る猛暑だというのに、何故、教師が来るそのときまでエアコンが利用されないのだろう。政宗は盛大に舌打ちしたい気分だったが、生憎、暑さにそれすらも行う気力が出ず、小さく鼻を鳴らしてエアコンから視線を外した。
そのとき、教室がすかすかであるにもかかわらず、わざわざ隣に座る者がいた。兼続だ。兼続は普段であれば教壇の目の前の席に着き、教師の一言一言に一々相槌を打つような真面目な男である。このような席に着くのはひじょうに珍しいことだ。その上、専攻では犬猿の仲と有名な政宗の隣に、である。何故その兼続が己の隣に座るのだろう、と、政宗はぐったりしながら兼続の方を見やった。兼続は暑さなど知らぬかのような涼しげな顔で、真っ直ぐにホワイトボードの方を見ている。その様子から察するに、どうも、暑さにやられて隙ができている政宗を、良い機会だとからかいに来たわけでもないらしい。では何故と内心首を傾げつつ、政宗は再び頬を机に押し付け、兼続と正反対にある窓の外を見詰めた。あまりの暑さに、それだけのことを問う気力もわかなかった。
授業が終って間もなく、脇から差し出された用紙の束に、やはり依然として机に突っ伏していた政宗は面を上げて隣を見た。そこには兼続が、やはり夏など関係ないという風な涼しげな顔で立っていた。突っ伏している最中、半ば意識を失うようにして眠りに落ちていた政宗は、正直、いまだ兼続が隣にいたことに驚きを隠しきれなかった。そういえば兼続は最初から隣にいた。それには理由があったらしい。政宗は束を無言で受け取った。どうやら、専攻関係のレジュメや書類が重なっているようだった。
「判子はあるか。」
問われ、いぶかしみつつ常から持ち歩くようにしている実印を筆箱から出すと、兼続が書類を指し示した。大学分校の図書館から卒論の参考書を貸し出しするための書類に、卒業後の進路予定書。他にも何やら細かい字で記された書類が数枚あった。寝惚け眼も相まって政宗が最後まで目を通さず判を押し、サインをすると、兼続は不備がないか目を通した後、それらの書類をファイルに仕舞った。おそらく、政宗や兼続の師事する上杉教授に提出しに行くのだろう。上杉教授に気に入られており、また彼の下で助手もしている院生ゆえの庶務ではあるが、政宗ならば耐え切れない雑務だ。生真面目な兼続だからできる芸当だ、と政宗は心中一人ごちた。
「ご苦労じゃな。かような暑い中、わざわざ。」
政宗は彼にしては珍しく、兼続をねぎらう言葉をかけた。暑さに脳がやられていたのかもしれない。兼続はその言葉に、小さく笑った。
犬猿の仲と評される政宗と兼続であるが、それは、喧嘩するほど仲が良いとも言える関係である。そのことを知っているものは極僅か、片手の指で足りるほどの人数だ。政宗は誰にもその事実を教えたくなかったのだが、恋する人間というものはどう隠そうと躍起になってみても知らず雰囲気が変わるもので、敏い慶次や孫市たちにばれたのだった。
そう、政宗は恋をしている。同性であるが、実は兼続と付き合っている。所謂恋仲というやつだ。政宗が高校時代教わっていた家庭教師、幸村の伝手で兼続と出会い何だかんだでできあがって以来、密かに関係は続いているわけだが、外聞が良いことではないため、やはり、進んで知られたいとは思えない。先日、日本でも同性同士の婚姻法が承認された。しかし、世間の目はいまだ厳しいのが現状である。だから、政宗は極力人目のある場所ではそのような言動は避けてきた。家にいても艶めいた雰囲気になることなど滅多にない二人であったのが幸いして、妙に敏い者たち以外にはばれていないが、それが犬猿と称されるのも正直微妙な心地である。
政宗は小さく嘆息して、のろのろと起き上がった。鞄を手に取り、エアコンの効いた生協へ向かう。
外では、理学部校舎立替作業の騒音に紛れぬ声で、蝉が騒がしく鳴いていた。
その半月後のことだ。上杉教授の付き添いで学会に出かけていた兼続と、政宗は久しぶりに会った。場所は、兼続が両親と同居しているため、唯一人目を気にせず会うことのできる政宗のマンションだった。二人並んでソファに座り、テレビをやじりながら見ていた、そのときだ。
「そうだ。忘れていた。」
ふと兼続は思い出したように、ソファ脇に置いていた鞄からファイルを取り出した。そのファイルから取り出され、目の前に差し出された一枚の紙に、政宗は驚いて目を見張った。
承認された婚姻届のコピーがそこにはあった。
兼続は「記念にコピーを取っておいたのだ。我ながら良い案だろう。」と惚れ惚れしながらコピーを眺め、政宗に視線を向けた。
「折角の夏休みだ、新婚旅行にでも行こう。何処か避暑にでも行くか?今年は北海道まで暑いらしいから、何処か国外が良いだろうな。今からでは今月旅行は無理だろうが、私たちは10月まで休みなのだから大丈夫だろう。」
「そうじゃな今年の日本の夏は暑苦しいし…ってちょっと待たんか!違うわ!なんじゃこれは!」
政宗はきっと兼続を睨み、婚姻届を眼前に突きつけた。そのときの政宗は、エアコンが効いた部屋にいたため、反論するだけの元気はあった。その政宗の様子に、兼続は「元気があるなら、他のところでもいいな。国内なら車で行けるし、大阪はどうだ。去年卒業した三成がそこで勤めてるらしい。」と答えた。問いの返答になっていない。政宗は眦を釣り上げ、いつの間に準備してあったのか、いそいそと旅行代理店のパンフレットを並べ始めた兼続のすねを蹴りつけた。第一、口では何と言いながら、しっかり大阪のる@ぶを手にしているのが気に障った。政宗にも政宗の予定というものがあるのである。
「何を怒っている。それにサインをしたのはお前だろう。」
「わしはした覚えなどない。大体、それはいつの話だ。」
「先週の、政宗の誕生日に講義があっただろう。あのときだ。二十歳になったのだし、親の許可もいらなくなったからな。貸せ。そのように強く掴んではしわになる。」
兼続は婚姻届を取り上げると、大切そうにファイルに仕舞いこんだ。それがまた腹立たしい。心中、ちゃんと全ての書類に目を通さず適当にサインをした過去の己を呪う政宗に、兼続は首を傾げて政宗を見やった。
「もしかして、嫌だったのか?」
その問いかけに、政宗は押し黙った。仮にそうだと肯定して何になる。だからといってクーリングオフが使えるわけでもない。当人にその気がなかったと申告すれば裁判で勝てるだろうが、そんな風にして同性同士の愁嘆場を国中に晒したいわけではない。同性婚成立直後の裁判劇だの何だのと特集されるであろうことは目に見えていた。何より、これが一番重要な理由なのだが、恥ずかしいし嫌でもあるが本当に嫌なわけでもなかった。
何とも表現しがたい強い感情に襲われて、政宗は顔を歪めた。とてつもなく泣きそうだった。そうこうしながらも、脳内では、これで家督は母の期待通り弟へと譲れるだろうなどと考えている自分がたまらなく情けなかった。もしかしたら、かねてから家のことで悩み続けていた政宗を見かねての兼続の、兼続なりの思いやりなのかもしれないと思うと、それもたまらなく嫌だった。そんな優しさは、理不尽で迷惑で勝手なだけだ。しかし、そんな兼続の優しさが嬉しくてたまらない自分がこれまた泣けた。そのくせ、心はもう大阪に向かっている。食道楽とは言っても夏バテで食欲はないし、兼続と違って三成とそれほど仲が良かったわけでもない。大阪の夏など暑いだけで、政宗には何ら魅力がなかった。兼続がいればどこでもいいのかベタすぎるぞわし、と口には出さず自らに吐き捨て、政宗は熱い目許を擦った。もう、駄目だった。
テレビの中のニュース番組では、過去最高の猛暑を記録した県の昼過ぎの模様が流れていた。凄まじい熱気に萎びた街路樹や太陽から顔を背けた向日葵に混じって、微かな蝉の音が聞こえる。そういえばあれは求愛の歌だったのだと思いながら、諦め、政宗はソファのクッションを手に取り顔を強く押し付けた。息も胸も詰まり、苦しくて苦しくてたまらなかった。長い間焦がれてきた、自分を愛してくれる家族。それを手にしたのかと思うと、嬉しさと悲しみに、涙が止まらなかった。
8月3日。二十歳の誕生日。蝉が声高に歌っていたあの日。知らずそれは、政宗の最後の伊達姓の日だった。亡き父上、わしは結婚しても伊達の人間です、などと言えるような結婚でも性格でもない政宗は、ただ黙って頭を撫でてくる隣の男を自分は夫と呼べるのだろうか、というか夫夫だが夫であってるのだろうか、と思っていた。
初掲載 2007年8月21日