楽園 / 平井堅


 何時からだろう。あるいは、何時ぶりだろう、と考えるべきなのか。
 両手首を纏めて頭上に貼り付けられ、縋るものを失くした政宗はただ無力に頭を振った。敗軍の将として全てを失くした己の前にやって来たのがこの男であったことを、どう受け止めるべきなのか、政宗には解らない。混乱のあまり判断力が低下していた。それでも、残酷に自身を犯し、染め上げていく快楽の奥底で、まだ冷静に状況を受け止めることが出来たのは、久方の愛撫に身体が追いつき損ねているせいだろう。もう少しすれば、このように状況すら認識することも出来なくなるのだと思うと、政宗の身に震えが走った。先程噛み千切ろうとした幸村の熱い舌先が、彼方此方に火を点して膨れ上がらせていく。政宗は走る身体に、思考を流されまいと努めた。


 昔は当たり前のように眼前に提示され、そして、当然のものとして受け止めていたので、疑問など抱くはずなかった。
 伊達は真田の味方ではなかったかもしれないが、決して、敵という立場ではなかった。当然だ。真田の主家である武田にとって、上洛に関係のない奥羽など考慮に値しない土地であり、台頭し始めたとはいえ伊達は未だ手を煩わせる必要もない新興勢力だった。だから、政宗は幸村と他愛なく触れ合い、飯事のような情愛を育むことが出来たのだ。信玄に顧みられることのない立場を不満に思いながら、あまりにそれが日常だったので、その恩恵を理解することなどなかった。
 幸村に初めて口付けられたときのことを覚えている。陽がさんさんと降り注ぐ絶好の遠乗り日和で、政宗が引き摺るようにして幸村を城から追い立てたあの日。行為の意味するところがわからず間誤付く政宗の頭を撫で、幸村は快活に笑った。嗤われたのだと誤解した政宗が噛み付き返すと、それが切欠で歯止めが利かなくなった。あの日政宗は、口付けとは、乱雑に為せば良いものではないのだということを学んだ。
 それ以外にも、幸村からは様々なことを学ばされた。
 得難い肌の温もり、思いがけなく高い己の嬌声、麗らかな愛情の尊さ。
 そして、別れの――死別の身を切るような冷たさを。


 「幸村。」
 吐息のような声が政宗の口を吐いて出た。情欲に濡れるばかりかと思えば、思いがけなく愛情に満ちる声色に、頭上の幸村が嬉しそうに目を眇めた。初めて、政宗が幸村に真意を窺わせた瞬間だった。
 何時か失わざるを得ないものならば、政宗は最初から欲しくなかった。為す術もなくこの手からこぼれおちてしまうものであるならば、喜びも悲しみも撥ねつけたかった。自分とは関わりのない場所で、ただ、その生を全うして欲しかった。
 ただ、生きてもらいたかった。
 だが、それは、最早叶わない望みだ。
 雷鳴が耳をつんざいた。戦で流された血を雪ぐ清めの雨は、政宗の悲鳴すら呑み込み掻き消していった。
 政宗は解き放たれた両手でもって幸村を掻き抱き、額を擦り寄せた。強く掴まれ鬱血した手首は痛みに軋んだが、政宗は意に介さなかった。どうせ失われざるを得ないものならば、この身に、永劫残る傷を残せば良いのだ。幸村が幸村として存在した証を、刻みつければ良いのだ。
 政宗は性急に幸村を求めた。幸村の躊躇も振り切って身を通わせ、貫く熱塊がもたらした痛みと充足に犬のようにはしたなく喘ぎながら、口付けを強請った。自ら拱いた幸村の舌は、鋭い血の味がした。


 幸村は政宗のため、湯を汲みに行っている。障子を明け放つと、雷雨は雪に成り変っていた。
 政宗が身を起こし庭へ降り立つと、肌を伝い零れおちた暗褐色の血が潔癖な大地を穢した。何気なく踏み出した足は、冷たさに悴み赤くなっている。このまま此処に居れば足が腐り落ちることを理解していたが、政宗は一人孤独に浸っていた。
 あの拙くも愛情に満ち溢れた日々のように、何を憚ることなく、愛していると告げられればどんなに良いだろう。自分は一人ではないのだと知り、芯から冷え切った心身を温める愛に身を任せ翻弄されることは、きっと幸せだろう。
 しかし、政宗は何れ到来する別離を承知していた。
 幸村は知っているのだろうか。自らが、砂上の楼閣であると。蛤ではなく大蛇によって束の間生み出された蜃気楼なのだと。幸か不幸か、政宗は知っていた。だから、遠呂智の側についた。しかし、もう全てが手遅れだった。仙人たちの詭弁を信じた幸村らの手によって、遠呂智は滅ぼされてしまった。創造主を失った世界は、間も無く、崩壊の時を迎えることだろう。そう、仙人たちが望んだ通りに、この束の間の悪夢は終息するのだ。
 恐怖を撒き散らしながら渦を巻く思慕に絶望が込み上げて、今にも政宗は悲鳴を上げそうだった。胸元を掻き毟り、何処かへ逃げ出したかった。だが、何処へ行けば良いと言うのか。しんと静まり返った無音の世界は、そんな政宗の悲鳴を呑み込むには、あまりに清廉すぎた。
 政宗は独つ目を絶望に濡らし哀願に瞬かせ、世界の閉幕の時を待った。











初掲載 2010年2月14日