アゲハ蝶 / ポルノグラフィティ


 雨が降っている。まるで死した彼の志を惜しむかの如く、止むことなく降りしきっている。政宗は何事か紡ぐように冷たく渇き切った唇を震わせた後、一文字に引き伸ばし空を見上げた。
 今や、世界が灰と化し濁って見えた。白黒はっきりせず、清濁併せ持った不純な鉄の色である。その中、政宗の眼には紅だけが鮮烈に映る。錆の色。所々褐色に浮かぶそれは、彼の色であり、彼が生じさせたものだ。それも最早勢いを失くし、無情にも静かに地へと吸い込まれていく。
 政宗が彼に、何故死に急ぐのかと問うたのはそれほど昔の話ではない。
 わざわざ九度山に訪れ問いかけた政宗に、彼は本質を押し殺す笑みという仮面を被って、相対してみせた。何故、死に急ぐのか。何故、それほどまでに生き急ぐのか。これまで、政宗は彼に何度同じ問いを投げかけたことだろう。唯一の主君と崇める赤を亡くして以来、彼は抜け殻のように在り続けた。以前の彼の抜け殻の如く、しかし、実態は些かも変わらずそこに在り続けた。
 だが、はたして彼は自身の抱く焔に気付いていたのか。
 「いつになれば、主のその仮面は剥がれるのじゃ、    ?」
 政宗はそのように問いかけたこともある。だが、彼は黙して語らぬまま、敵方についている政宗を帰した。ただ、当主として責任ある立場のものがたびたび訪れて良い場所ではないから、とだけ告げて追い返したのだ。その態度こそが、もっとも、問いに対する答えでもあった。主君を失って以来光指すことのない彼の頑なな生き様に、終わりなどない。おそらく、終わらせることこそ可能であろうが。
 もしかすると、無常の世に翻弄され続けた彼は、終わりこそを望んでいたのだろうか。ふいにそのような考えが政宗の感慨を呼び起こした。
 無論、答えなどない。
 雨粒が入り込み、政宗の視界を滲ませる。不明瞭な世界に、とうとう、彼を惜しみながら罵倒した咽喉が、彼を欲しながら斃した腕が震えた。
 政宗は終ぞ、彼が未来に向ける眼差しを眼にする機会がなかった。政宗を伊達当主ではなく、政宗個人として向ける眼差しを得なかった。それこそを、政宗は求めていたにもかかわらず、手に入れることはなかった。失って、無くしたことで、政宗は初めて己の望むものに気付いた。以前のように、愚直なまでで良い、明るい展望を見つめる彼の眼が見たかった。身分を気にせず、互いに雑言を吐けるような、彼と己との親交を甦らせたかった。情という拙い糸で結ばれた関係を、一度だけ深く交わらせた関係を、取り戻せるものならば取り戻したかった。
 彼との所縁を自ら断ち切っておいて、何を、おこがましい。心の何処かで吐き捨てる己がいる。その非難も悲嘆の前に遠ざかり、やがて絶望に掻き消された。
 「    。」
 政宗は彼の名を呼びながら、地面に横たわり泥雨に塗れた彼を見下ろした。温もりを伝えることのない肌は、血と熱を失い白くなり始めている。政宗は命じるように、再度、彼の名をきつく呼ばわった。
 「    ッ!」
 起きろ。何処かで念じる。起きろ。起きろ起きろ起きろ、    !
 「…後生じゃから、起きてくれ。    …。」
 膝を屈し、彼の冷たい手を握り締め肩を震わせる政宗の傍を、天の流す涙の合間をすり抜けるようにして、蝶が舞い飛んだ。
 喜悦の総てを含む黄、憂いを帯びた蒼。世の果てに似た漆黒の羽。
 世の果て。仮にそれがこの世界に存在するとするならば、それは彼を無くした世界だ。泣くことも出来ず、僅かに潤んだ眼差しを亡羊と向けながら、政宗は頭の片隅で思った。そのような世界なら、失くして構わない。無くなってくれて、構わない。
 いっそ、総て、消えてくれ。
 己の夢が、価値観が根底から覆される瞬間を、政宗は何とはなしに認識していた。自分は天下を望んで、世界こそを欲して、生に持続を求めて彼を殺めたのではなかったか。脳天を揺さぶるような強い眩暈、吐き気を催すほどの喪失感。一際大きく、鼓動が響いた。
 知らなかったのだ。己の中で占める彼の比重など、彼を無くす瞬間まで―――だが、本当に?本当に自分は知らなかったと言い切れるのだろうか。
 ゆらりと体が傾いだ。思考が闇へ閉ざされる。泥の中倒れこむ政宗の肩に、燐光を発して蝶が留まった。
 やがて世界は鈍色に沈み、歪んで溶けた。




 胡蝶の夢、とひとは言う。




 見返りを求めていたわけではない。
 決して、政宗は愛されたいと望んだわけではない。実母に疎まれ拒まれた時点で、政宗は愛すること、愛されることに臆病になっていた。政宗が欲したのは、蜘蛛の糸の如く惰弱な彼とのせめてもの繋がり、ただそれだけだった。魂ごと絡め取られて亡くしてしまうほど強い所縁ではない。本当に、政宗は彼と共にあれればそれだけで良かったのだ。それは夢を失い道を違えたことで、自覚せぬまに、朝露の如く儚く散った夢であった。
 夢―――胡蝶の夢、とひとは言う。はたして、それは何に対してであろうか。蝶と呼ぶならば、それは、何れだ。
 脳天を揺さぶるような強い眩暈、吐き気を催すほどの喪失感。重い瞼を開けた瞬間、濡れた眦がやけに政宗の気を引いた。ゆっくりと首を巡らせ、そこが良く見知った戦場であることを悟る。かつて経験したことのある、大戦の一場面である、と。瞬時に状況を悟れぬ政宗の耳を、敵と味方の織り成す怒号が突いた。
 蝶の夢。それは、何れだ。今しがた見ているのか、先まで見ていたのか。
 瞬時に答えが脳裏を過ぎった。灰に覆われていた世界に色彩が戻り、光が満ちた。周囲には見知った顔がいる。既に亡きものたちの姿まである。彼は生きている、きっと。政宗は咄嗟に腰元の銃を手繰り寄せ、迫り来る敵へ向けて放った。
 先の死別など、蝶にくれてやる。彼があるのならば、そこが、政宗の世界だ。


 新世界、それは政宗にとって正しく新たなる世界だった。永劫のために彼を斃し破滅を欲す世界ではない。彼のために持続を放棄し彼すら失わざるを得ない世界ですらない。
 人は簡単に欲深になれるものだ。政宗は愛してしまった。否、彼を無くしたことで愛していた事実に気付いてしまった。貪欲に望みは湧いてくる。秘匿され続けることを良しとせず、最後の瞬間、ぱっと鮮やかな火の花を咲かせて永劫の眠りに就いた彼の焔同様、政宗の中にも眠る竜がいる。それは、彼の眼に生気が満ちるほど、彼の焔が轟々と燃え盛るほど、勢いづく生き物だった。貪欲に身の回りに黄金を侍らせ、欲深な眼で洞穴の外の様子を窺う野心だ。
 彼は一度炉辺に捨て、火の粉を散らし燃え尽き、もう二度と手に入ることはないと諦めていたものだった。彼の一片残された断片を握り締め、それだけをよすがに生きていかねばならぬはずだった、本来は。そんな彼が、あの赤に身を染め戦場を駆っている。同じ軍に属し、ふいにこぼす情熱でもって政宗の心身を苛烈に苛む。他愛ない冗談を吐いて、政宗に笑いかける。政宗を見ている。伊達当主ではない、政宗自身を見てくれている。
 政宗は情欲に煙る目を瞑り、彼の広い背へ腕を回し爪を立てた。唯一絶対の赤を亡くしたことで、失われた彼がいる。政宗の無くした彼がいてくれる。それが当然のこととして許される。
 幼少期の如く、それが当たり前のものとして眼前に提示されたことで、政宗はいよいよ我慢が難しくなった。静かに熱を蓄積する木炭のように、半ば忘れられた存在であった野心は、彼の焔に焦がされ煽られたことで、今や空を焦がす炎と化していた。
 彼のある世界が欲しい。彼を乞うことが許される、この新たな世界が欲しい。どうしても。
 一途に慕う遠呂智が斃れたことで、政宗は込み上げる欲に負けた。
 ただ、愛されたいと願ってしまった。


 だが、―――それも一時の夢に過ぎぬと、政宗は知ってしまった。
 維持者が無くなれば泡沫と化して消えてしまう。それが現在だ。この世界において、遠呂智こそが神だった。遠呂智がおらねば、この世界はなかった。再会を果たした彼さえも、遠呂智の見る夢なのだ。夢を見ているのは蝶ではない。魔王たる遠呂智なのだ。
 人は一度占めた味を、中々忘れられるものではない。かつて知らなかったものを知ってしまった上で、以前の己に戻れるものが果たしてどれほどこの世におるものであろう。
 政宗もまた、その内の一人であった。
 「まだ目覚めぬのか?」
 指先で撫ぜた肌は死人のそれを思わせるほど冷たい。政宗は僅かに眉をひそめ、後背の女を振り返った。焦りを滲ませる政宗の問いかけに、女の眼に憂いと微かな苛立ちが覗いた。
 「そうね。遠呂智様はまだ眠ってるわ。…完全に目覚めさせるには巫女が必要なのよ、わかるでしょ?相応の素質があって、それ相応の訓練を積んだ巫女がね。」
 「…わかっておる。」
 勿論、わかっている。政宗もわかってはいるのだ。だが、進むことも戻ることも出来ない現状が政宗を焦らせる。主役たる遠呂智は長い眠りに就き起きる気配もなく、政宗は妲妃が巫女を儀式に駆り立てるまで何も出来ることがない。
 「もう少しの辛抱じゃない。今まで、方々に散った遠呂智軍の残党を集めるのに一年も待ったのよ?それに比べたら、短いものでしょう?」
 妲妃の唇から自らに言い聞かせるように吐かれた台詞は、政宗にとって既に馴染み深いものだ。はたして、何度、この台詞を耳にしたことだろう。
 そのたびに、二人の横をふっと過ぎさる怖気があった。
 あと、何度この台詞を耳に出来るのだろう。現状を維持するだけの力が、まだ、世界には残されているのだろうか。遠呂智の空間と時間を歪める能力は、眠りに就いた今なおも持続していた。だが、それがこうして会話している最中にも切れないとは言い切れない。遠呂智の眠りが永劫のものにならぬと、誰が言い切れよう。
 彼はこんな風に怯える己を、らしくないと苦笑するだろうか。政宗は真摯に彼を求めるがゆえに、彼と共にある道を違えていることに気付かない。焦燥を払拭しきれぬまま自嘲の笑みを溢す政宗のところへ、喜悦を覗かせて妲妃が駆けて来た。
 「政宗さん、」
 妲妃が何を恐れてこの世界の永劫を願うのか、政宗は知らない。しかし、そんなことは構わなかった。政宗と妲妃は心同じくする、それだけが肝要な事実だ。妲妃は友にするようにして、政宗の首へ腕を回した。この歪な情を友と括るには抵抗がある。それでも、分かつ喜びに隔たりはない。
 「やっと…やっと見つけたわ。」
 くぐもった声で、妲妃が囁く。抱き締められる政宗には、妲妃の表情が窺い知れない。しかし、どれほど、その言葉を待ち侘びたことか。晴れやかな調子で妲妃は告げた。
 「卑弥呼というの。」
 卑弥呼。その名を口内で反芻し、政宗は破顔した。




 胡蝶の夢、とひとはいう。
 だが、これが遠呂智の夢であることを、政宗は知っている。終わらせてなるものか。その頑迷な決意だけが、政宗を別離へと走らせていた。彼を失って以来光指すことのない政宗の頑なな生き様に、終わりなどない。―――おそらく、終わらせることこそ可能であろうが。











初掲載 2009年11月22日