太閤秀吉によって御前試合の話が切り出されたのは、酒宴もたけなわになった頃のことだった。秀吉は脚を崩すと人の悪い笑みを浮かべて、呼び寄せた武将二名を見やった。
一人は奥州の雄と誉れ高い政宗、隻眼が炯々と野望で燃えている。秀吉は政宗の、虎視眈々と天下を窺うその眼をいとおしんでいた。それは、人喰い虎を家の中で放し飼いにするようなもので、三成からは再三非難されてもいたが、秀吉に止めるつもりは毛頭なかった。虎を檻に閉じ込めれば、身の安全は保障されよう。しかし、それはいとおしんだ虎とは別の生き物に成り果てることを、秀吉は誰よりも理解していたのだった。
もう一人は、軍略で名高い真田の次男坊、幸村である。亡き甲斐の虎に仕えていたこの男は、正しく、武田の色とも言える真紅が似合う男であった。信長の生前に戦場で見えた頃のような、乱舞する焔の激しさは成りを潜め、盛りを過ぎた夏日を思わせる。だが、それは静かに眠る火山のようなもので、いつまた活火山に成るか解らない無気味さを秘めていた。
秀吉が信長に仕えていた頃から数えれば、三人は数年来の仲になる。現在は巧妙に伏せられている関係も、以前は明け透けのないものであったので、秀吉は二人が衆道の契りを交わしている事実を知っていた。軍功を挙げ、もて始めるや否や妻帯した秀吉からしてみれば、おそらく己以上に異性から気を引かれるであろう若者二人の関係は血迷いごととしか思えない愚行ではあった。秀吉としても、その関係が切欠で、幸村が伊達に降るようなことがあれば、豊臣の安寧のためにも苦言を呈さねばならなかっただろう。しかし、どういう理屈でか、そのような前触れはなかった。もしかすると、政宗が己の部下たちに、主が下郎に抱かれている不始末を知られることを厭うたのかもしれない。あるいは、幸村の方が、閨においては組み敷いている愛人に、顎で使われることを嫌ったのかもしれない。秀吉としても敢えて知りたいとは思わないので、真相は闇の中である。
その二人をどうして、秀吉が呼び寄せたのか。単に、興味を抱いたからだ。関係を仄めかせるような真似はしないものの、幸村は愛人のことを、掌中の珠よといとおしみ誉めそやしている。それは、幸村が常に親しくしている三成や兼続に違和感を覚えさせるには、十分すぎるほど行き過ぎた言動だった。そのような振る舞いを仕出かす幸村は、はたして、愛人を斬れるのか否か。酒も手伝っての愚かな疑問だった。
秀吉は人を試すことを生きがいのようにしておるので、政宗は太閤直々に呼び寄せられた当初から、何かしら、魂胆があるものと気構えていた風であった。傍に恋人幸村の姿があるとなれば、尚更のことである。そのようなときに、太閤による御前試合の命だ。政宗は口内で嘆息を噛み殺すと、口端に不適な笑みを浮かべた。
「殿下は、政宗とこやつに死合えと仰せになられまするか。」
政宗の賢しい返答に、秀吉は苦笑を浮かべた。秀吉は、実際に死合えと申しているわけではない。政宗もそれをわかっているであろうに、わざわざ人の揚げ足を取るのだ。しかし、秀吉は政宗の賢しげな点を好んでいたので、身を乗り出して政宗を挑発した。
「何じゃ、政宗。怖いんか?」
「殿下は政宗を見くびっていらっしゃる。この政宗が、真田の次男坊を斬れぬと御思いか。」
斬れぬ事はないだろう。それが解るからこそ、秀吉は酒精で赤らんだ額を掌で打った。
「いんや。まあ、お前さんは言ったからにはやるんじゃろうなあ。じゃが、…。」
ちらりと疑わしげな一瞥を幸村へ投げかけ、秀吉は再び政宗に相対した。どうやら、政宗は幸村と試合をしたくないと見える。この事実は少し意外だった。
「…秀吉様、折角の太平の世。わざわざ血を流し、御前を汚すこともないでしょう。」
友人が主君の趣味の悪い遊びに借り出されようとしている事態を把握したのだろう。傍に控えていた三成が、口添えしてきた。愛人に甘い幸村は言うまでもなく、困り果てた様子だ。一瞬、政宗の隻眼を過ぎった強い感情に、とうとう秀吉は白旗を揚げた。
「ま、わしの天下が続く限り、そうなることはないじゃろ…。そうならないように祈るんさ。」
わざわざ人喰い虎を突いて起こすこともなかろうと、己の興味を心中仕舞いこむことにした。
その朝方、幸村は政宗の腕の中で目覚めた。常ならば逆で、幸村がその腕でもって愛人を囲う立場である。だが、政宗から抱きついてくるとあらば、無論、幸村に否やはない。幸村にははたして愛人が己の先の言動に動揺しているのか、罪悪感を抱いているのか判然としなかったが、したいようにさせてやった。そのような機会など、滅多にないからだ。
『幸村。何があろうとお主だけは、わしを裏切るな。』
浮かされたように、魘されたように為された愛人の懇願が耳について離れない。幸村は軽く頭を振った。何度も何度も為されたそれは、やがて、喘ぎ声に取って代わられるまでの間続いた。何度も、何度も。浮かされたように、あるいは、魘されたように。
その真意が、幸村には解らなかった。
昨夜、太閤がどのような思いで最後の台詞を吐いたのか、幸村には解らなかった。太閤の体調は思わしくないと言う。昨夜も、顔を酒精で赤らめてこそいたが、以前のように浴びるほど呑んだようではなかった。横から為された三成の差し出口も、このことが切欠で、伊達に反旗を翻されては堪らないと思ったゆえのものだろう。豊臣の太平は崩れる。それは最早、紛うことない事実であった。
その後に為された政宗の発言の真意は、一体―――その真意が、幸村には解らなかった。
幸村は眼前に晒された白い首元をねめつけた。伊達は多勢に付くだろう。しかし、政宗は愛人にそれを良しとしないはずだ。否、それとも、あれはあくまでも愛人の味方であれということなのか。
幸村は咽喉元に唇を寄せ、刀傷の代わりに小さな紅を残した。はたして己は愛人を斬れるだろうか、幸村は散らした紅を見ながらそのことを思うた。
初掲載 2009年11月22日