ひとでなしの恋


 くのいちが初めて引き合わされた主君の嫁は、その想い人とは似ても似つかぬ娘だった。
 嫁とは、字の如く、家の女である。それは戦乱の世にあってはなおさらのことで、娘は真田という家に仕えるべきであるのに、自らの属することなった家ではなく幸村個人を慕う点から見ても、家に固執する彼とは異なっていた。夫より一歩身を引いた娘が、伏し目がちにその背中を見つめる眼が、真摯で直向な愛に満ちていたので、愛や情といったものに疎いくのいちでさえ気付いたのだった。
 くのいちはその事実にどう接して良いのか、判断のつきかねるところがあった。ただ、主にとっては好都合なのだろうという隠された真実だけは悟って、心中、呆れを覚えた。
 娘は家柄、馬の扱いには慣れているのだという。少しでも夫の役に立てればと綺麗な歯並びを見せてはにかむ娘を前に、くのいちは忠告を発することもなく、その場を辞退した。退室する間際、くのいちの敏い目は部屋の片隅に置かれた煙管を発見したが、そのことに関してもくのいちは無言を貫いた。
 くのいちには、娘に対してかけるべき言葉をかけることを許されていなかった。また、くのいち自身も、愚かしい娘に、残酷な事実を告げることが躊躇われたのだった。それは一抹の優しさであったが、無いよりは幾分ましだった。


 くのいちが主君によって内密に呼び出されたのは、その晩のことだった。隣室では娘が眠りについているのだという。未だ部屋に色濃く残る密な空気から、何事があったのか察するのは容易いことで、くのいちは娘の居る部屋を一瞥してから、手渡された文に目を落とした。
 筆まめな想い人に合わせて記される文の往来は、十年に及ぼうかという長い歳月に渡って繰り返されていた。その間、くのいちは奥羽へ足繁く通い、返事を求めた。時には、やんごとない身分である想い人と主君の身分違いの逢瀬を手助けすることもあった。羞恥心というまともな感情を持つものであれば目のやり場に困るような、しどけない姿が晒される現場に居合わせることもあった。
 くのいちは白昼見た娘の姿を脳裏に思い浮かべ、どうするべきか己の中の爪の先ほどの良識に問いかけた。娘を目にした瞬間、くのいちには主君が想い人との関係を清算させる腹積もりのないことがわかった。それは主君が嫁を娶る前から、わかりきっていた事実ではあった。しかし、自らの心に生じた僅かばかりの落胆から見るに、万が一の事態を期待していたのかもしれない。


 かつて、主君にその想い人が抱かれたと知ったとき、くのいちはささやかながら驚きを示した。中には同性によって得られる色自体を好むものたちもいるが、武将にとってのそれは敬服を示す行為である。犬のように這い蹲り、受け入れざる身内に肉塊を受け入れることで、正に犬の如く、相手に屈服し頭として認めたことを表すのだ。
 その性質上、男同士の色は必然的に、立場の高いものが低いものを抱く傾向が強かった。それがどうしたことか、奥州の雄と呼ばれるあの男が、しがない将兵如きに足を開き、身を委ねたのだ。くのいちは生業柄耳の早い女であったが、奥州の雄が抱かれる立場に回った話など終ぞ聞いたことがなかった。色好みなのか、あるいはそうあろうとしているのか、判断につきかねるところのある男であるにしても、主君の想い人は他者を抱くことはあってもその逆はなかった。それも当然で、最早、彼を抱くことの出来る立場にある人間など、日ノ本には太閤しかおらぬのだ。その太閤が男色を毛嫌いしているとなれば、理論上は、不敬にも彼を抱くものなど存在しないことになる。
 一体どれほど複雑な心の動きがあって、主君に抱かようと思うに至ったのか。感情が欠落しているくのいちの理解が及ぶ話ではない。だが、そのくのいちにも、想い人が主君に同性として敬服している事実だけは悟ることが出来た。
 主君も、彼と同じであれば良かったのだ。家を反映させるため女を抱く傍ら、服従の証として心酔した男に身を任せる。そのように同性を屈服させる一環で主君が想い人を抱いているのであれば、どれだけくのいちの労は少なかったことか。しかし、主君の抱く想いは恋情であり、求めるものもまた敬服ではなかった。
 第三者として全てを知る立場にあるくのいちからは、両者の意図の差異は浮き立つほど顕著だった。家を率いるものとしての立場がある想い人にとって、女との営みと異なりもたらされるもののない交合にあくまで固執する必要性はない。自らの劣等感の象徴である痘痕の散らされた肌や、損なわれ洞と化している右目を晒した段階で、彼の愛人に対する敬服は十二分に示されているのだ。一方、主君の求めるものは、想い人の専有である。
 何時のことか。逢瀬の後、上田への帰路でそれを知らされたくのいちは、主君に提言した。
 「独り占めしたいんだったら、囲うとか。それか、さっさと殺しちゃえば良いじゃないですか。」
 くのいちは心が希薄ゆえ、自覚は無いが、短絡的な思考こそ簡潔な答えをもたらすものと思い込んでいる節がある。主君は部下の物騒な提案を耳にして、薄く笑みを浮かべた。それを酷薄と感じたのは、決して、くのいちの錯覚ではない。
 「お前にはわからぬかもしれないが、それではあの方を永遠に失うだけだ。」
 一瞬、昏い劣情を走らせた目を伏せて、主君が微かに笑みを深くした。
 「あの方を永遠に私のものにするとすれば、方法は一つ。それは、―――…。」


 手渡された文を折らぬよう気をつけて懐に仕舞いこんだくのいちは、再び、嫁の眠る部屋へ一瞥投げかけた。
 「…何でまた、全然似てない子を選んだんですか?」
 主君の娶った嫁は、想い人とは似ても似つかぬ娘だ。ただ煙草を吸うという一点のみが辛うじて重なり、想い人を髣髴とさせる。あれほど執着しているのだから、もっと想い人に似たところのある良く出来た贋作のような娘を娶るものとばかり思い込んでいたくのいちの疑念が、主君には理解出来なかったのだろう。主君は部下に目をくれることすらせず、噛んで含めるように説明した。
 「出来の悪い紛い物など、鼻につき癇に障るだけではないか。」
 「じゃあ、わざわざ、煙草を吸う子を選んだ理由は?」
 平然と、主君は嘯く。
 「目を閉じていれば、あの方を抱いているのだと錯覚出来るかもしれないだろう。」
 それが真実であろうことが理解出来るだけに、くのいちは二言が無かった。
 嫁取りなど、交配用の馬を選び取るのと変わらない。歯並びや毛並みが良く、気性が穏やかで逆らうことを知らず、胎盤がしっかりしていて丈夫そうな娘であれば良い。来る戦のため、馬の扱いに長けているようならば、なおのこと良い。
 嫁を取る最前に漏らした自らの失言に違うことなく、その通りの娘を娶った主君に、くのいちは僅かばかりの呆れを滲ませた笑みを浮かべて、言った。
 「幸村様って、ほんと、人でなしですね。」
 くのいちは答えを待たずに、天井裏へ姿を消した。その人でなしに喜んで仕えている己もまた、人でなしなのだという自覚はあった。これから、何も知らぬ妻の眠る寝室へ戻るのだろう。微かに開かれた板の隙間から、主君の手が灯りに伸びる様を見て取ったくのいちは、小声で呟いた。
 「幸村様は死ぬのが怖くないんですか?…あたしだって、ちょっとは怖いのに。」
 太閤の生色は日に日に衰えを見せている。その灯火が間もなく掻き消えることは、既に周知の事実であった。引き続き大戦が巻き起こるのも、確実だろう。それから、どれほどの年月を要するのか、正直、くのいちには想像もつかない。半年か、十数年か。しかし、くのいちは主君の望む結末を知っていた。布石も十分すぎるほどに為されていた。主君が次の天下人におもねることはない。新たな時代の礎となり、想い人の手による掛け替えのない死を望みどおり手に入れるのだ。
 躊躇い一つ見せない主君の手によって、灯火が消された。
 「三千世界を探してみても、あの方以上に惜しむべきものがあるものか。」
 暗闇が支配する部屋に落とされた台詞に、くのいちは肩を竦めるとその場を後にした。
 確かに、それこそが主君にとっては理なのであろう、と、くのいちにも解ったのだった。











初掲載 2009年11月14日