第十三話 遠呂智、再臨へ (※色モノです)


 大喬が尚香と蜀へやって来たのは、あの決戦から一ヶ月経ってのことだった。
 尚香は、夫、劉備のそばに少しでもありたいという願いからの訪問である。政宗から見た限り、劉備は、尚香の真摯で熱烈な愛情に驚いているようだ。それも当然のことで、劉備と尚香の縁は政略であり、戦渦にあっては敵同士、年齢もひどく離れている。それゆえ、尚香にはもっと良い男がいる、と、劉備は身を引いたつもりになっていたのだろう。だが、尚香はめげなかった。三国間の諍いで分かたれた縁を再び結ぶべく、奮闘中である。もともと、劉備も尚香を厭うて遠ざけたわけではないのだ。よりが戻るのは時間の問題だろう。
 一方、その同伴者である大喬はといえば、満面の笑みで一言、「約束を果たしに、来てしまいました。」、である。当然、政宗はざっと青褪めた。大喬関連で、このような不穏な笑みを向けられる約束など一つしか思い当たらなかったのだ。政宗様に似合う衣装を用意して待ってます、というあれである。
 それ以降、尚香に脚光が当てられる水面下で、大喬は宣言どおり、政宗の衣装をとっかえひっかえする行為に没頭した。精神的な負担がなくとも続く趣味なのか、とぐったりしている政宗の腕を引き、今日はこれ明日はあれと言った具合だ。裏で密に連絡でも取っていたのか、司馬イまでやって来る始末に、政宗は呆れや困惑を通り越してひどく感心してしまうのだった。
 その日も、政宗はいつもどおり鏡台に座らされて、鏡に映る己の姿を眺めていた。しかし、今回に限っては、成都にある政宗の自室ではなく、いつか大喬とお忍びでやって来たあの街だ。政宗の女装に関して、これで最後これで最後と毎回言い続けていた大喬だったが、とうとう年貢を納めることにしたのだった。そして、集大成を晒すのが、初めて「猫さん」を披露したこの街というわけである。
 大喬は、司馬イが以前諸葛亮から送りつけられたという曰く付きの純白の衣装を選び取り、政宗に着るようにっこり命じた。細かな刺繍の施された衣装は、街で身にまとうにはあまりに華やかな印象があったが、これが最後なのだ、政宗は二人の意向に沿うことにして、押し付けられた衣装を手に取った。
 それにしても、このような衣装を送りつけるとは、と、政宗は司馬イから渡された衣装に目を落としながら、脳裏に諸葛亮の姿を思い描いた。また一つ、政宗は稀代の名軍師のことがわからなくなった。
 最後の仕上げで刷いた紅について一度だけ、それまで無言で静観していた司馬イが、赤すぎると口を挟み、大喬と口論になる場面もあった。政宗は己の事ながら、その口論を馬鹿馬鹿しいと思いながら聞き流していたのだが、あまりにも長く続くので、とうとう焦れて口を差し挟んだ。
 「…別にこれで良いわ、馬鹿め。」
 面倒臭さからそのようにこぼした政宗が一瞥すると、司馬イは悔しそうに扇の下で震えている。一体何がそこまで司馬イを駆らせるのか、政宗にはいっこう理解できなかった。そもそも、何故、司馬イがこの戯れに参加しているのかさえ見当がつかない。思わず、胡乱な目を向けると、自分の見立てに口を出されて腹を立てていたらしい大喬が、お得意の笑顔で政宗に告げ口した。
 「そういえば、…司馬イさま、奥さまはお元気でしょうか?遠呂智軍に捕らわれていたころは、頓にお世話になりました。愛らしい方ですね。まるで、政宗さまそっくり。」
 政宗としては正直反応に困る一言に、司馬イが噛み付いた。
 「ば、馬鹿め!」
 そうだ、もっと言ってやれと思ったのも束の間。
 「別に、私は政宗のことを、む、娘のように思っておらんわ!馬鹿めっ!」
 「……………。」
 そういえば、司馬イには息子こそいるものの、娘はいない。
 再び口論を始める二人から、ふいと政宗は視線を背けた。その後の口論から、政宗は、遠呂智に味方していたせいで司馬イが愛妻に別居させられていたことを知った。それも信長の軍に降ったことで解消されたそうだが、女装した同僚に妻の面影を見出し、脳内で実の娘に見立ててしまう程度には、辛いものがあったのだろう。
 しかし、そのようなことはどうでも良い。政宗はまた一つ、軍師という生き物の心が掴めなくなった。流石は、常人には計り知れない深謀の持ち主たちである。政宗は諸葛亮や司馬イのような変人にはなるまいと堅く心に誓うのだった。
 そんな政宗を脇目に口げんかを続けていた二人は、いつの間にか、意気投合したらしい。
 「ええ、まるで花嫁のようですね。」
 政宗は鏡越しに大喬を見やった。そう手を叩いて喜ぶ大喬は、はたして、どこまで知っているのだろう。視界に入る鏡像は、花のように微笑うばかりである。


 そのような過程を経て部屋から送り出された政宗は、一人、楡の木の下に立っていた。前回来訪した際は絶好の昼寝場所であったそこは、雪に近い雨が降る冬の盛りということもあって、立っているだけで芯から冷えてくる。青い傘を背景に白く立ち上る息をまるで雲のようだと思いながら見上げていた政宗は、ふと、小さく笑みをこぼすと後ろを振り仰いだ。差し広げた傘で、面が見えなかったのだろう。はっと息を呑んでいる男の様子に、政宗は心からの笑顔を浮かべた。
 「この格好で、ようわしだと気づいたな。幸村。」
 本心からの言葉を投げかければ、何故か目を逸らしたまま、幸村がはっきりしない答えを返した。赤を知覚できぬ政宗の眼に、赤が赤として映ることはない。しかし、経験上、それが赤だということは判別できる。幸村の頬が赤いのは、何も赤い傘を差しているせいばかりではないだろう。政宗は苦笑しながら、相変わらず挙動不審な幸村の元へ歩み寄ると、傘を折り畳んだ。
 「お主に褒美をやろう。」
 ともすれば肩を濡らしそうな雨を避けて身を寄せると、幸村が身を強張らせるのがまた政宗には可笑しかった。政宗は笑いを滲ませて、耳元で囁いた。
 「…寒うて敵わぬわ、馬鹿め。幸村、せいぜいお主の焔でわしを焦がせ。」
 そう言いながら、政宗は先刻目にした大喬の笑みを思い返していた。大喬は全て察した上で、この戯れを演出したに違いない。だが、大喬の助力があったとはいえ、政宗は幾多の人々の中から己を見出したことを評価してやりたい想いで、つと幸村の袖を引き、身体を預けた。




 政宗はゆっくりと瞼を開け、辺りを見回した。猫の瞳を得たことで、例えこのように夜の帳が落ちても、政宗は労せず周囲を窺い知ることができるのだった。赤を失った代償だ。隣では、政宗を抱きこむようにして幸村が眠りについている。政宗はその首元にわざと付けた紅の跡へ目を落とし、僅かに口元を綻ばせると、寝台から身を起こした。つい四半刻前まで睦みあっていた身体は重くだるい。それも道理で、これが二度目の政宗は、このような行為に身体が慣れていないのだ。しかし、身体の節々に走る痛みを忘れさせるほど、心は軽かった。
 今は、秀吉が死したことで混迷し、敵対せざるを得なかった過去とは事情が異なる。政宗が望めば、幸村とこうして和し続けることも不可能ではないだろう。だが、政宗は、数が支配する天下ではなく、伊達の天下を掴みたかった。それは、強者たちを平らげることで、最後にようやく生を願った遠呂智の夢を叶えたい、という願いからでもあった。大喬のおらぬ間に、司馬イとは話をつけてあった。小十郎たち三傑にも心積もりは全て話してある。明日にも、伊達は天下へ名乗りを挙げる次第だ。
 だが、幸村が政宗ではなく、信玄につくのは眼に見えている。そして政宗も、無理を推して道理を引っ込めさせようとは思わなかった。相手のためというより、政宗が、それしきのことで信念を曲げる幸村を見たくないのだ。それゆえ、次に見えるときは、戦場で敵としてであろう。
 だから、それまで、政宗は忘れることのないよう刻みつけておきたかった。己にも相手にも、互いの色というものを、赤裸々なまでに鮮明に刻印したかったのだ。そうでなければ、政宗はかような昼中から嬌態を演じなかった。
 降りしきっていた雨は、いつの間にか、雪に変じていたらしい。
 勝手に換えた赤い傘を差し広げた政宗は、空を分厚く覆う雲を見上げた後、一度だけ背後の宿を振り返った。置いてきた傘が脳裏を過ぎる。次は、あのような蒼に身をやつすのも面白いかもしれない。はたして再会したとき、幸村はどのような顔をするだろうか。政宗は込み上げる笑いを噛み殺して、宿に背を向けると歩き始めた。
 馬鹿め、何が花嫁衣裳じゃ。これは死に装束ではないか。


 「次に会うとき、わしは、お主の知らぬ色であろうな。幸村。」











初掲載 2009年7月4日
COLORS / Utada Hikaru