さして遠くない過去、奥羽は、血縁者が寄り集まって誰が支配者であるかを問答している、それだけの土地だった。僅かに南下した場所では、武田信玄や織田信長を初めとした武将らが天下に覇を争っており、その事実を踏まえれば何とも呑気なものだった。井の中の蛙大海を知らず。しかし、井の中におるがゆえに隔離され安全な地。それが、奥羽だった。
政宗は、奥羽でも力ある伊達家の嫡子として生れ落ちた。幸い、子煩悩だった実父輝宗の根回しが報われて、政宗は優秀な部下を持つ優秀な武将となった。一悶着の末無理矢理勝ち取った初陣に際しては、無分別に双方が争っている戦場へ突入し、各々から謗りを受ける始末となったが、政宗は気にかけなかった。それよりも、気にかかることがあったのである。戦場で出会った男だ。名を、幸村と言ったか。政宗は小十郎の叱責を聞き流しながら、記憶の中の血筋名鑑を捲り、武田の項を探し当てた。武田と上杉の戦において赤揃えを身に着けていたから、幸村はまず間違いなく、武田に属す者だろう。そして、六文銭の家紋。六文銭といえば、武田で確固たる地位を築く真田家の家紋だ。その中で幸村に該当するものといえば、…真田家の次男坊だ。傍流ではなく、正真正銘直流にあたる存在である。
政宗は僅かに顔をしかめた。若さゆえ、抑えがたい衝動に流されることもあるかもしれない。だが、そのように立場ある家のものが、あのような短慮極まりない行動に走ったことに驚いたのだ。政宗はすっかり、己が、天下に名立たる両雄の戦に乱入したことを他人事として捉えている。
はたして、如何な理由で真田の次男坊は、政宗を稚児と間違えたのか。政宗は押し当てられた熱を思い返すように、唇に当てた。同性から寵を受けるのは、稚児か小姓だ。政宗の年齢から言えば、前者だろう。そして、稚児というものは見目良いものと相場が決まっている。だが、昔はそうであったものの、政宗は痘瘡を患い片目を損ねたことで実母義の寵愛を失って久しく、そのように形容されることがない。政宗のことを眼に入れても痛くないほど可愛がっている輝宗でさえ、痘瘡を患って以降、そのように表現したことはない。それを、あの男はぶっきらぼうに吐き捨てたのだ。一瞬、賢しい頭の回転も完全に停止し、政宗は呆けたように男を見つめてしまった。子供がふざけているのか、と怒鳴られたときは、貴様こそふざけているのかと問いたくなった。一見して見て取れる朴念仁気質ゆえ無自覚なのかもしれないが、戦場で見かけたからといって、童を口説いたりしないだろう。それも、明らかに無粋な乱入者と見て取れる小僧に対して口説き文句を吐くなど、愚の骨頂である。政宗は推奨しておらぬし、幼さゆえ理解も出来ないが、戦場で昂ぶった気というのは近場の村を襲い略奪の最中に女を奪ったり、あるいは、陣内に商売女を招きいれて鎮めたりするものではないのか。敵から連れ去った姫君を側室に迎えたり、無情にも殺めたりするのではないか。政宗があまりに絶句しているので見かねたものか、男は再び戦場へと戻るべく踵を返しながら、危険だから其処で待っていろ、と芸もなく怒鳴りつけた。これには、頭に来た。政宗は駆けて行く男の背に舌を出すと、そのまま帰陣してしまった。元々、伊達の戦ではない。その上、律儀に待っていたところで何をされるか分かったものではない。
帰路、政宗は馬上で揺られながら、小十郎の説教に茶々を入れ耳を引っ張られている従兄弟成実を一瞥した。どうせ、帰城すれば父にも同様のことをこぼされるのだ。同じ文句を二度聞きたいものではない。それよりも、今は、懊悩に没頭したかった。
それから、三年の月日が流れた。幸村とは戦場で鉢合わせすることも間々あり、その度に、政宗は上杉に籍を置く風来坊前田慶次や傭兵家業を営む雑賀孫市の影に隠れてやり過ごした。他人がいる場ならまだしも、二人きりでいる時に暗がりに連れ込まれようものなら何をされるものかわかったものでない。それは、慶次や孫市が冗談で流すような類ではなく、政宗当人にとっては、阿国と出雲へ詣でる以上に切実で身近な危機感だった。彼方此方に目移りしている阿国と違って、幸村の視線は真っ直ぐ政宗へ向いていた。猪突猛進で直情的なところのある青二才らしく、思わず政宗がたじろぐほど真っ直ぐな目で見ていた。政宗はそれを厭い煩わしく思うと同時に、内心、何処かで喜んでいた。実母でさえ顔を背け遠ざけた己を欲するものがいようとは、と、嬉しかったのだ。とはいえ、わざわざ貞操の危機に陥りたいはずもなく、政宗は度々敵前逃亡する羽目になったが。
だが、そのように曖昧模糊として過ごすことが出来たのは、一年ほどの間だった。父を亡くした。政宗の失態、甘さが招いた死だった。政宗は畠山という男を軽んじていたのだ。
政宗は父を人取り橋の戦いで失ってからというもの、悔恨と恩讐で腹を満たす鬼と化していた。本来であれば身内たる血縁者に容赦なく刃を向け、撫で斬りを行った。幸か不幸か、政宗の周囲には、竜が只の鬼と化すことを良しとしないもので溢れており、また、父によって行き届いた教育を施された政宗にも、良心と智慧が残されていた。政宗は周辺諸国を武力で脅かす一方で、類稀なる賢君として民に敬われた。この人誑しの才は、生来身についたものなのであろう。だが、政宗の二面性を育んだのは紛れもなく実母義であり、血縁であり、奥羽という土地柄だった。
それから時を置かず、政宗は奥羽を平らげた。秀吉から横槍を入れられ中断を余儀なくされたその事業も、小田原にて伊達の同盟国である北条が勝利を得たがために、成し遂げられることとなった。折角の時機を失するには惜しい。政宗は予断なく奥羽統一に着手した。秀吉が自軍の敗北に気を取られ、歯噛みしている最中のことだった。
北条が勝ったことで天下は何れの者の手にも収まっていないこと、伊達に対し脅しを突きつけた秀吉の鼻を明かせたこと、念願であった奥羽統一を果たしたこと。柄にもなく、政宗は有頂天になっていた。それが目的で致したことではないが、小十郎にも褒めちぎられ、成実にも喝采を送られ、政宗は良い気分に浸っていた。政宗がようやく正気に返ったのは、伊達三傑が一人鬼庭綱元に出した料理が華美すぎると窘められてのことだった。初心を忘れてはいけないと苦言を呈されたことで、政宗は我に返った。政宗の夢は天下統一であって、奥羽統一はその入り口に過ぎないのだ。政宗はそのような些細なことで喜びすぎた己を恥じた。
一月も経たないうちに、政宗は秀吉に召喚された。すでに太閤と呼ばれていた男は、政宗の勝手な行動に腹を立てていた風でもあったが、一方で面白がっている風でもあった。政宗は、己の成功が羨ましいのだろうと勝手な当たりをつけて、大坂へと出向いた。一帯の支配者として、猿如きに舐められては困る。そのとき、政宗は十六になっており、僅かながら貫禄のようなものも備わり始めていたが、童顔で成長期最中ということもあり、どうしても幼く見えてしまうのは否めない。政宗はその分も踏ん反り返ることで取り戻そうと、意気揚々と大阪城へ足を進めた。
そこで、幸村と再会を果たした。
上洛途中で信玄が落命し、長篠での敗戦が元で武田が瓦解してから、幸村は上杉の下に身を寄せていた。以降、如何にして彼が生計を立ててきたのか政宗は知る由もないが、小田原に際しては豊臣方として出軍したという。今は豊臣に属しているのだろう。何より雄弁に、大阪城にいることが事実を物語っていた。
当然のことながら、政宗はこの再会に際して些か緊張していた。政宗の背丈が伸びたように、落ち着いた態度や物柔らかな所作から、三年という月日が男にも同じように流れたことは見て取れる。はたして、その月日は幸村の些か常軌を逸した情さえも押し流してしまったのだろうか。別段、幸村を求めているわけではないが、政宗はそのことが気がかりだった。十六といえば、稚児というにはとうが立ちすぎている。また、元々女性的なところのなかった政宗からは幼さ特有の丸みが抜け始め、成長期に入った身体には僅かながら筋肉もつき始めている。幸村が未だ己を欲しているという考えは、政宗の杞憂に過ぎないのかもしれない。恐らくは、被害妄想だろう。政宗は驚きに打たれた様子で己を見つめている幸村に、昔と些かも変わらぬ不敵な笑みを浮かべて見せた。どれほど己が成長したものか、見せてくれようと思ったのだ。
それを、あの男は、愛らしいと言った。
衆目の面前で、政宗はぽかんと幸村を見つめた。杞憂は杞憂に終わらず、現実と化した。その事実がどうしようもなく政宗の動揺を誘った。やがて、政宗は衆目の面前でそう形容されたことを悟ると、足早にその場を逃げ出した。その後、幸村との遣り取りを耳にしたらしい太閤に散々からかわれたのは、言うまでもない。
そして、三年が経った。太閤秀吉は凋落し、豊臣の残党と徳川とで大戦が巻き起ころうとしていた。流石に十九となったことで、政宗も分別のつく大人となっており、無茶を仕出かそうとは思わなかった。天下が家康の手中に収まるのは悔しいが、代わりに、伊達は長きに渡る安泰を得る。政宗は腹の底で燻る野心を宥め、徳川の友軍として大戦に参加する腹積もりだった。
それを引き止めたのは、幸村だ。ここ二年余り、緊迫した情勢の中会うことの叶わなかった男は、何を思ったのか伊達へやって来た。政宗としても、家康の恨みを買っているような者を進んで城内へ招き入れたいものではないが、戦鬼の如き戦ぶりを見せる男を無為に追い返すことも躊躇われ、人払いを済ませた自室へと呼び寄せた。城下町、城内の至る所に黒はばきを潜ませてあった。決して楽ではないが、徳川や豊臣の草の目を紛らわせることは不可能ではない。以前の政宗であったならば、自身の貞操を危惧して、人払いを済ませた部屋で幸村と二人きりになる愚挙など犯さなかっただろう。だが、政宗は十九になっていた。妻こそ娶っておらぬもののそれなりの経験を経て、細身ながらも男ぶりも上がった今、まさか、自分が下位の男にそのような眼で未だに見られているとは思いも寄らなかった。政宗の中で、幸村の欲の対象は幼い稚児であり、決して、成熟した男ではなかった。
行灯の火が揺れる。政宗は幸村に酒を勧め、毒が仕込まれていないことを示すように自ら呷った。じりじりと腑を焔が焦がす。そっと脇に着かれた手。暗い炎が舐めるように背筋を走り、駆け上っていく。重ねあわされた唇から熱塊を呑み込まされたようだ。躯が燃え盛り、火花を散らしている。何故、そのような始末になったのか、政宗には分からなかった。全てが灰と化していく。徳川との同盟も、豊臣への反感も、全て黒き墨の如き灰燼と成り、散らされていった。
翌朝、政宗は未だ横たわりながら、男の睦言を耳にしていた。幸村のそれは誠実で甘さに欠けていたが、それ故に、どうしようもなく政宗にとって甘かった。政宗は昨晩もたらされた目の眩むほどの強烈な快楽に、このようなことならばさっさと体を明け渡しておけば良かった、と内心後悔にも似た無分別な反省を巡らせた。享楽的なところのある政宗にとって、幸村の与える熱情は、組み敷かれる屈辱感を退け裕に余るほど快いものだった。だが、伊達当主たる政宗と豊臣方の真田に属する幸村とでは、今以上のことはない。これきりで終いだ。政宗は小さく嘆息し、幸村に背を向けた。じりじりと焦がす視線を項に感じる。しばらくして、幸村は何を思ったのか、政宗の体に腕を回し引き寄せた。
「…ようやく手にした貴方を、誰にも明け渡したくないのです。」
熱っぽい声は掠れ、昨夜の痴態を思い起こさせる。我知らず言葉を失う政宗を離すまいとするように強く抱き締め、幸村が決然たる声調で告げた。
「政宗様、」
政宗、様、とこの男に呼ばれたのは初めてのことだった。
幸村は、言った。
「天下を、欲しくはありませんか?」
初掲載 2009年9月23日