「我が子よ、ジャバウォックに心を許すな!」
荒々しい声に、幸村は目覚めた。頭が重い。一瞬、先ほどまでの行動はおろか、己の名前すら思い出せないほどだった。どこからか鳥の声のような、甲高い音がした。あれは何だろう。いや、そもそも、先ほどの聞きなれぬ名前は?
考えることは多々あったが、幸村は軽く頭を振り、腰を上げた。見慣れぬ森でいつまでも惚けていて良いはずはない。戦中なのだ。
だが、どうしたことか、肝心の相手が思い出せない。幸村は困惑したまま、その場を後にした。名も思い出せぬ誰か女の部下が、幸村を探しに来る予感もあった。しかし、一体、どこにそのような女の部下がいるというのだろう。真田忍隊に女はいない。いないはずである。幸村は己の記憶の錯誤に惑った。これは、ますますいけない。
ともあれ、股肱の臣として、主君の姿は見つけ次第護り、敵は倒さねばならない。その想いだけが、幸村の足を動かした。
小川と生垣で仕切られた森を二つ抜けると、そこでは、紅白の異国の衣類を纏った女たちが遊びに興じていた。囲碁、将棋。そこまではわかったが、他の遊びは幸村の見たことがない代物だった。囲碁のような代物があった。馬や何かを模った像を動かす遊びもあった。
白い豪奢な衣装を纏った女が、つややかな唇に笑みを乗せて、盤に白い石を載せた。すると、見る間に、挟まれた黒い石が白く変わった。対峙する赤い衣装を纏った女は、能面のように感情の浮かばない端正な顔立ちに、僅かに苛立ちを覗かせて盤上を睨みつけていた。まるで、そうすることで白も黒に変わるとでも言う風だった。
勝負の邪魔を恐れ、様子を伺っていた幸村の横を、一人の青年が通り過ぎた。ふっと、椿の香りが鼻先をくすぐった。はたと、幸村は青年の後を視線で追った。
赤い服を纏った青年は手に持っていた小さな紙を盤上に投げ出し、それから、周囲にあった遊び道具もそこへ一緒くたに合わせた。決まりかかっていた勝負の行方は、その強行でわからなくなった。当然、勝負に勝っていた方の白い女は眦を吊り上げた。
「トランプ!まあ、これで盤上がぐちゃぐちゃですわ!勝負の邪魔をするなんて、一体、何様のつもりですの?もう少しであがりでしたのに!」
「そういきり立つものでもないわ、アージン。でも確かにナンセンスよ、ジュディス。」
安堵を滲ませて赤い女がそう続ければ、その前の勝負で負けて退けたのか、一人隣で像を動かし遊びに興じる白い衣装の可憐な少女も、女二人に同意を示した。
「こんな滅茶苦茶にしてしまって。また勝負は初めからですね。でも、貴方は、これでどうやって勝つつもりなのですか?三国、日ノ本、全部混ぜ込んで…レイチェルの言うとおり、私にもナンセンスに思えます。」
ジュディスと呼ばれた青年は、少女の問いかけに口端だけで笑った。
「数が多ければ良い。そう、オセロのように。パラス、お主にはわからぬか。」
「嘘です。」
兵士の駒を手に、きっぱりとパラスは否定した。
「寡兵でも、勝つことはできます。」
花のような笑顔を浮かべるパラスの一手に対し、ジュディスは瞳の奥に何か強い感情を滾らせた。だが、それだけだった。ジュディスは何も言わず、裾をなびかせて風のように立ち去った。ころころとパラスの笑い声が響いた。
そこへ、大きな唸り声が響き渡った。
女たちは一様に顔をしかめ、そして、初めて存在に気づいたとでもいう風に幸村へ視線を集中させた。
「まあ、大変。今のを聞きましたでしょう?ジャバウォックの声を!ねえ、どういたしますの?」
アージンの恐れ交じりの発言に、レイチェルは面倒臭そうに投げやりに答えた。
「任せてみるしかないんじゃないのかしら。何せ、相手はあのジャバウォックよ。ポーンなら、ビショップ、ナイト、ルック、それにクイーン。何でもなれるもの。」
二人の判断を仰いだ後に、パラスが幸村に告げた。
「貴方も聞いたでしょう、あの、ジャバウォックの声を!肝心なのはここからなのです。でも、ここに一つ問題が。私のリリィはまだ小さくて、一人で戦に出すのは不安だということです。代わりに貴方を戦に出して差し上げましょう、幸村殿。さあ、再び挑戦なさい、日の本一の兵よ。」
そう言うと、パラスは手の中で弄んでいた兵士の駒を盤上に置いた。同時に、くるりと、幸村の視界も反転した。
眩暈から覚めやらぬ幸村の耳元に、微かな歌声が届いた。その声に目覚め、幸村が仰ぎ見ると、堀の上で、赤い髪をした緑色の服をまとう少女が手持ち無沙汰に足を振りながら、楽しげに歌を口ずさんでいた。
「…そこで何をしているのです?」
「王と軍隊が助けに来てくれるのを待っておるのじゃ!知らぬのか?ハンプティ・ダンプティは堀の上♪ハンプティ・ダンプティは落っこちた♪王様の馬や兵隊さん、みんな力を合わせたが、ハンプティ・ダンプティを元には戻せないんだ♪」
ハンプティ・ダンプティは朗らかに笑いながら、幸村に答えた。その目は、物欲しそうに幸村を見ていた。その視線に戸惑い、はたと隣の地面を見てから、幸村は再びハンプティ・ダンプティに問いかけた。
「…もしかして、降りられないのですか?」
「ち、違う!妾は降りたくないから降りてないだけじゃ!本当なのじゃ!」
「しかし、先ほどの歌では落ちるとまで…。」
「ええい!気にするでない!妾は大丈夫じゃ!ここが好きなのじゃ!妾のダチも手を貸してくれたが、妾はここが好きだから途中で降りたくないのじゃ!たとえ、落ちることになるとも、こここそが妾の生きる場所…その決意に対して、誰にも口出しさせぬのじゃ!」
爛々と目を輝かせ叫ぶハンプティ・ダンプテイの姿に、燃え盛り焼け落ちていく屋敷の姿が重なった。幸村は驚きに、瞬きをした。しかしその幻覚も、瞬き一つで消え失せてしまった。そんな幸村の態度にじれてきたのか、ハンプティ・ダンプティはばたばたと手足を動かした。
「それより、さっさと先に進むが良い!時間は逆に進む。ジャバウォックは死せるために今を生きておる。一度二度!二度一度!するどき剣を骨まで通れと突き刺して、敵を取るが良い。バンダースナッチの怒りは避けよ。そちが潰えるのも、妾には見えるのじゃ。寡兵、突撃、そして、ああ…!花鳥、みんな散って行く、それこそがいのち…十分、気をつけることじゃな。死の香りを嗅ぎつけ、チェシャ・ネコが笑っているのじゃ!」
捉えどころのない台詞を叫ぶハンプティ・ダンプティに、幸村は笑いかけた。
寡兵、突撃。それはまさに自分の姿だ。そして、その後には何が続くのだろう。わからないながらも、幸村はハンプティ・ダンプティの忠告を胸に、その指の示す先へと歩み始めた。その後を、ハンプティ・ダンプティの声が追いかけた。
「そう、最後に、覚えておくが良い。死せるそち、潰えたジュディスの野望、落ちて割れた妾を直せるものがおるとしたら、それは、時空を操る―――。」
その声はあっという間に幸村を追い抜き、そのまま通り過ぎてしまった。驚いて振り向いてみるが、ハンプティ・ダンプティも堀も消えている。代わりにそこには、くすくすと笑い続ける笑みだけが宙に浮いていた。幸村には、それが死を嗅ぎつけたチェシャ・ネコだとわかった。
「ああ、みんな頭がおかしい!君も、僕もそう!だってそうさ、この世自体が狂っているんだ!この世は可哀想な人ばっかりだ!」
そうして、ハンプティ・ダンプティの姿が見えないことに気づいたのか、チェシャ・ネコは悲しそうに溜め息を吐いてから、不思議そうに幸村を見やった。そのせいか、黒く縁取られた眼差しがぼんやり空中に見えた。その目の虚ろといえば、底なしの井戸に似ていた。思わず槍に手をかけた幸村の行動に、チェシャ・ネコは嬉しそうに笑い声をあげた。
「やるっていうのかい?何故って、問うのかい?この世を、まさか君が、受け入れるのかい?よりによって、時代に見捨てられ、死へ邁進した君が…?真田だから、武士の一分だから、愚鈍だから…そんな理由でこの世を見限り死んでいった君が、この世で生きるために戦う?」
優しい声色は、かえって、そこに含まれた狂気を曝け出し、うつろな目に宿る闇をよりいっそう深いものにした。ぎらぎらと血脂に塗れた白刃のように、その目は光った。
幸村はその目を目掛けて、槍を振り下ろした。だが、槍は空のみ切り裂いた。
「くすくす。なら借りにしといてあげるよ、今戦ったってつまらないもの。でも、もう戦えることもないかもね…大丈夫さ、あの子は、たとえ君がいなくても、僕が綺麗に眠らせてあげるよ…。」
チェシャ・ネコはそう囁くと、真昼の月のように白んで消えた。
一つ小川を跨いで進むと、幸村の耳につんざくような金属音が響いた。それは幸村が良く知る、高く強く、鋼を打ち合わせる音だった。読めぬ現状と、それでもしかと認識することのできる戦いの予感に、幸村は槍を手にその方へ駆けていった。チェシャ・ネコがいるのではないかという思いもあって、表情は硬かった。
そこでは、久方打ち合いくたびれたのか、白い鎧を身に纏った小柄な青年の騎士と赤い鎧を身に纏った巨大な老人の騎士が休憩をしていた。幸村は赤い騎士の額に角が生えているのを見て取り、恐る恐る、白い騎士の方へ近づいていき、小声で尋ねた。
「何故、戦っているのですか?」
「ずっと、戦い続けているからだ。」
「では、何故、戦うのです?」
幸村の問いかけに、白い騎士は不思議そうに首を傾げた。
「それが以前から決まっていることだからだ。俺が生まれる前から、ずっと、確かに、な。時代は戦乱だった。俺たちは敵だった。まさか、お前は疑うのか?そうあるべき関係、を?お前は迷うのか?戦闘のさなか、今まさに討ち取られんとする時も?その切っ先が咽喉元を切り裂いても、お前はまだ、そんなことを言えるのか?そんなことはナンセンスだ。」
そして白い騎士は汗を拭うと立ち上がり、すたすたと森の奥へ進んで行った。幸村は、慌ててその後をついていった。そこには、青い肌を持つ魔族が木に背を預け眠りについていた。
「これが、この世界を形作る赤の王だ。」
「はあ。」
「決して、赤の王を起こすな。これも以前から決まっていることだ。目覚めを目論む赤のクイーンは言うに及ばず、ビショップ、ナイト、ルック、問わず近づけるな。それが俺たちの使命だ。」
「何故、決まっているのですか?何故、起こしてはならないのです?」
後を追ってきた赤い騎士が低く笑った。
「この世は赤の王の見る夢。王が目覚めれば消える儚い世界だ。お主も、春の夜の夢の如き世界の登場人物にすぎぬ。だから、我輩たち赤の徒は、王の目覚めに焦がれながら、怯えるのだ。夢の、存在の、消失にのう。」
「しかし、私は確かに存在しています。私も、貴方方も、確かにいるではありませんか。」
「そんなことは、赤の王を目覚めさせてから言ってみるのだな。俺は知らぬし、そんな愚行を犯すつもりも、犯させるつもりもない。さあ、赤い騎士よ、また勝負の続きだ!」
再び打ち合いを始めてしまった二人に、幸村は思案の末、その場を後にした。
再び浅い小川を越えると、視界が変わった。先ほどまでの森は一体何処へ消え去ったのか、一面、城壁が延々と続いていた。どこまでもどこまでも続く黒い壁に、幸村は、先ほどの森とどのような兼ね合いをつけているのか内心いぶかしんだ。
はは、と笑い声がしてそちらを見やると、銃を引っさげた兵士たちが城の黒い壁を白く塗り潰していた。それが幸村には永遠に終わらない徒労に思えて、思わず、声をかけていた。
「どうして、白く塗り直しているのですか?」
「まったく、嫌んなっちまうよな。俺もそう思うよ。終わるはずがねえって。でも、駄目なんだ。俺らが間違って、黒い城なんて作っちまったもんだから、俺らのジュディスはお冠さ。さっさと直さないと、黒どころか朱に染められちまう。まったく、人使いが荒くて。おっと、今の俺らはトランプの兵だったか。」
「…ジュディス?それは、あの眼帯をした青年のことですか?」
「おや、何処かで会ったのかい?そうさ。それが俺らのジュディス、ハートの女王さ。眠り続ける旦那の変わりに天下を狙う、俺のダチさ。」
「女…王?女性だというのですか?!いえ、それ以前に、夫君が…?!!」
泡を食って尋ねる幸村に、トランプの兵士が作業を放棄して、へらりと笑い返した。
「なんだ、ジュディスに惚れてんのか?幸村。だったら、さっさと行動しねえと。赤の王を討ち取るなら、更に一マス進まなけりゃ駄目だぜ。そしたらお前は、チェックメイト!寝こけてる赤の王の息の根を今度こそ止められるさ。一度二度、二度一度!赤の王は再臨するんだ。気を抜くなよ、幸村!」
トランプの兵士の励ましに、幸村は頷いた。どうしてか、胸が焦がれてたまらなかった。赤の王を倒すという使命感に、だろうか、それともジュディスへの想いに、だろうか。
緊張に強く拳を握る幸村へ、別れ際、トランプの兵士は神妙な顔で助言した。
「ただ、そのときは、この世界が赤の王じゃなくてお前が見てる夢だって願うことだな。さもなきゃ、ジュディスと会うこともない。お前はそこで死んじまうんだ、また!一度二度、二度一度!そして、また、あいつの野望を挫く糧になる!あいつも、また、涙の滝に呑まれて水底に沈んだきり、鯉にすらなれない!」
そう告げると、トランプの兵士は吸い込まれるように植木鉢の中へと消えていった。
門をくぐり抜けた先の庭園では、ジュディスが半狂乱の呈で歩き回っていた。
「いない、いない、いない!何処にもいない!誰一人としておらん!何故じゃ!わしの軍隊は何処へ行ってしまった?わしの全ては?ああ、ジャバウォックよ!わしの王よ!何故、何処にもいない!何故、何故っ!」
ジュディスは悲痛な悲鳴を上げては、その度に、彫像の影や木陰に誰か隠れているのではないかと見て回った。だが、誰もいなかった。ジュディスの嘆きはますます大きく、高く、つんざくばかりになっていく。
「一度二度!二度一度!鋭き剣を骨まで通れと突き刺して、敵討ち取りし息子は、その首引っさげて意気揚々と帰りきぬ!「汝、ジャバウォックを打ち取りしか?栄えある我が子よ、」ああ、ああ、どうして!わしの王よ!王は消えた!目覚めた王は消えてしまった!王の見る夢も消えてしまった!わしも消える!ああ、あやつも、露となって消えてしまう!わしは…!」
「落ち着いてください!」
見かねて、幸村がジュディスの肩を強く掴むと、わっとジュディスがその胸に飛び込んできた。あまりの勢いに、幸村の体を衝撃が襲った。しかしそれ以上に強く香った椿の香りに、幸村はひどい眩暈を覚えた。
「どうして消えてしまう、どうして、どうして!お主はわしを置いて、また大阪へ、行ってしまう!夏に散ってしまう!外様なぞ、外様なぞ…!」
泣きながら胸元を打つジュディスを幸村は強く、安堵させるように抱き締めた。その言葉の意味は判然としなかったが、それでも、手放してはならぬことだけはわかった。
「幸村、幸村!」
強く、強く、椿が香った。
「幸村、幸村…幸村!」
顎の下辺りから呼びかける声に、幸村は目が覚めた。何やら、胸元が重い。ぼんやり胸元を見やると、ジュディスが――成長した伊達政宗が呆れた様子で幸村を見上げていた。
「折角摘んだ椿を持ってきてやったのに、見ることもせず、散らしおって…何なんじゃ!そも、執務中に寝こけることからしてなっとらん!起こしてやろうとすれば、人を無理やり押し倒しよるし!」
口調とは裏腹に、目は何処までも甘さに満ちている。いつの間にか成長を果たしている敵国の少年は、どういう経緯か良くわからないが、幸村と愛人関係に収まったらしい。これは夢なのだろうか、夢ではないのだろうか。
少なくとも、赤の王の見る夢ではないのだろう、きっと。幸村はまだかすむ頭を振り、ひとまず、口先だけの怒りを宥めるべく、政宗の唇に己のそれを重ねた。途端に、政宗の文句は途絶えた。もしかしたら拒まれるかもしれない、という不安も十二分にあった寝ぼけ眼のそれに、政宗は積極的に応えた。まるで夢のようだった。
夢のような口付けの後、幸村は政宗を抱きしめ、髪に顔を埋めた。髪からは椿の芳しい香りがした。
「…それで、私が何をしてしまったのでしょうか?」
「だから、わしの善意を全て無にして、それどころかわしを床に引き寄せて転ばせ、あまつさえ唇を奪ったんじゃ。この不届きもの!…転んだ際にずいぶん勢いよく腹に倒れこんだから、起きると思うたのに起きぬしのう…。」
「そうだったんですか。」
「そうとも。わかったら、退かぬか。例え参謀のお主が暇でも、国主たるわしにはまだ仕事がある!天下を成した今、整備することでいっぱいじゃ。お主の相手はそれが終わってからしてやるから、ちょっと、待っておれ。」
政宗が国主だという話はまだ理解できるが、参謀に天下とは、一体何の話だろう。あの子供が天下を成したのだろうか?あの生意気盛りでよそ様の戦に乱入ばかりしていた子供が、まさかの、天下人?
訊きたいこと、訊かねばならぬことは沢山あった。薄っすらと脳裏を横切る魔王や狐や夏の陣の影も、覚えがないながら、不思議に胸を詰まらせた。それでも、幸村はにこりと笑った。
「しかし、そんな御方の労をねぎらうのも、私の役目ですよね?」
とりあえず、今は、これが誰の見る夢であろうと、己の知覚でしかと認識したい。腕の中に閉じ込めたままなされた幸村の発言に、政宗は君主らしくをしかめ面を作ったようだった。
「まあ、それも、参謀の役割であるな。」
「では、精一杯、この幸村。頑張らせていただきます。」
そう言って視界を反転させれば、腕の下で政宗が嬉しそうに笑い声を立てた。
初掲載 2008年11月2日