天下を争い混迷を極める時代にあって、政宗が父から継いだ国は、天下取りに身を乗り出すにはあまりに遠方に位置した。その上、周辺諸国が血族で固められたこの地には諍いが絶えず、その攻撃の的は今や政宗の治める国に集中していた。それらは、若さゆえぎらつくような野望を抱く身であるとはいえ、政宗に天下を諦めさせるに足るほどの悪条件だった。
だが、冬の寒さは骨に凍みるほど辛く、人々を疲弊させ、国を閉ざした。重なるようにして起こった冷害も、深刻な被害を国にもたらした。
政宗が京に辿りつくためには、血族間で争いが耐えないこの北の地の土台を固め、その上で、行く手を塞ぐ数々の国を平定しなければならない。それは国を、ひいてはこの地に根ざす人々にも大きな犠牲を強いることだ。徴兵、徴税、戦乱。気の休まるところはないだろう。だが最早、この国は、日ノ本の戦乱が明けるのを待つだけでは、立ち行かなくなった。このままでは、他国に侵略されるか、他国を侵略するか。二つに一つしかなかった。無論、ただ、他国からの略奪を許す身であってはならない。しかし、自国の防備を固めながら、軍を進めることを考えると、政宗には殆ど不可能のように思えた。
だが、どれだけの犠牲を払おうと、血の轍を築こうと、政宗は南下政策を取らねばなければならない。民のためにも、次代を担う子らのためにも、それが国主の勤めである。そう進言したのは、政宗が誰より心を許す存在である参謀幸村だった。
幸村は天下にその名を知らしめた旧武田軍真田の次男坊であり、今は伊達に仕える身である。政宗は、これまで最上や佐竹の攻撃から国を守ることができたのは、この幸村のお陰だと固く信じていた。政宗自身、戦や政の才と人を惹きつける魅力を十二分備えている。また、父の教育が行き届いていたこともあって、政宗の配下には才智あるものが多い。しかし、それだけで、今までを切り抜けることができたと信じるほど、政宗は目出度い頭の作りをしていなかった。幸村は時に甘言を用いて敵を内応させ、あるいは敵味方問わず知らしめるために見せつけとして撫で斬りを行い、勝利という結末に辿りつくためには、清も濁も決して厭わなかった。それは、若さゆえいまだ理想に燃え、ともすれば夢見がちになりがちな政宗には不可能な実際的な仕事だった。ゆえに、政宗は己では練ることのできない策を弄し、着実に戦勝を上げる幸村を誰よりも頼もしく思っていた。
その晩の幸村の献策は、民に労苦を担わせるものだった。重税、徴兵。しかし、幸村の言はしかとしたもので、政宗としても、その策を選ぶ他ないと思わざるを得なかった。戦が、そして冬が近いのだ。その前に、少しでも南に領土を広げねばならなかった。
「また、民に苦労をかけることになるのか。」
来る闘争と民の疲弊を憂い、僅かに目を伏せた政宗を安堵させるように、幸村はいつもの柔らかい笑みを浮かべ、肩口に触れた。
「大丈夫ですとも。政宗様の苦悩はこの幸村が、全て承知しております。今はわからずとも、何れ、民もそのことを知る日が来るでしょう。」
「何れ…な。」
「ええ、何れ…、それまでは、この幸村だけで我慢してください。政宗様の悲痛も苦悩も、全て、幸村が預かりましょう。御心も―――そう、政宗様の全てを。」
そう言って、幸村は主の口元に微かに浮かんでいる自嘲の笑みを封じ込めるため、唇を寄せた。肩口に軽く触れていた手を下ろし、袂に差し入れても、政宗は入り込んだ夜気に睫を振るわせただけだった。
やがて互いの肌が汗ばんできた頃、白い首元を晒して熱に身を任せていた政宗は、参謀の己のものよりずいぶん逞しい肩口に手を走らせながら、幸村を見上げた。
「そういえば…、先日攻め来た越後の将はどうしておる?直江といったか。幸村の既知ということであったが、もう、我が軍に馴染んだか?」
ゆるゆると手が肩甲骨に至り、政宗の白い指先が赤く蚯蚓腫れの走った箇所をなぞった。先の直江軍との戦で、政宗を庇った際に追った傷だ。引き攣れた表面を案ずるように撫ぜると、幸村が欲情のこもった目を眇めて笑った。それだけで、政宗は全てを承知して、再び快楽の波に攫われていった。幸村に任せれば何事も間違いないことを政宗は知っていた。戦も政も、そして、色事でさえも。
昨夜幸村の献じた策と来る戦に備え何れも慌しい様子で行き交う人々の間を、ゆったり歩きながら、伊達四傑の一人である三成は幸村に命じられた責を果たすべく、これから同僚になる兼続を連れて城の内部を案内していた。伊達軍に降ることに難色を示し、つい先日まで牢に入れられていた新参者は、いまだ納得しかねる様子で顔を曇らせている。そんな兼続に、三成は苛立ちを含んだ視線を投げかけた。
「煩わしい。俺もそうだったように、貴様は負け、伊達に降ったのだ。それを認めろ。」
「しかし…いくら幸村がいるからとはいえ、このような愛のない不義を許すわけには。」
「不義?」
その言葉に三成は片眉を上げた。口端には侮蔑の笑みが浮かんでいた。
「貴様、…確か、幸村の既知といったか?それで、幸村の何を知っている?」
そこで、眼前の回廊を歩く主君と参謀の姿に気づき、三成は災いの元である口を噤み、足を止めた。思案顔で眉をひそめていた兼続が、三成の異変に気づき束の間訝った。
三成には、背後の兼続がはっと息を呑んだのがわかった。一見邪念の余地もない笑みを浮かべている幸村が政宗へ気遣うように差し伸べた手が、二人の関係を匂わせている。だが、兼続が驚いたのはそこではなく、おそらくは、政宗と幸村が交わしている会話だろう。民を憂える政宗の言と、民を虐げる幸村の献策。それは、既知である幸村はどれほど心を痛めてこの国の主に使役されているのだろう、と案じてこの国に攻め入った兼続の想像のまるで正反対だった。
「どうやら、貴様も、俺と同じようにこの国の実態を知らずに来たらしい。見ろ、これがこの国の内政の真相だ。不義?はっ。どれもこれも、全て、貴様の既知の成し遂げたことだ。」
幸村に見咎められないよう開いた扇の陰で、三成は小さな声で吐き捨てた。
「貴様はこの国の悪政を見かねて正しに来た、と言っていたな。政宗でも誅するつもりだったのか?そんなこと、己の命を投げ出してでも、幸村は許すまいよ。」
実際、幸村は先の戦で、政宗に傷一つ許さなかった。掌中の珠よといとおしんでいるのだ、許すはずもなかった。もし、政宗が怪我でも負ったら――、その仮定の未来を考えるだけで、三成の肝は冷えた。衝撃覚めやらぬ様子の兼続を意に介さず、三成は自嘲の浮かんだ眼差しを主従へと向けたまま、小さく囁いた。
「義?そんなもの、何処にある?愛?そんなもの、不要なだけだ。見てみろ。そんな甘ったるい感傷的なもののお陰で、この国も、俺も、そして貴様も、破滅の一路だ。」
幸村の政宗に対する偏愛は、強い執着という形で現れた。己への信頼を逆手に取り、幸村は政宗に恐怖政治を敷かせた。結果、孤独感の増す政宗の心を手に入れるためだけに、他の者たちが己の手折った花に目をかけないように、幸村は最新の注意を払って着実にこの国と軍備を整理していった。
幸村は勝利という結末に辿りつくためには、清も濁も決して厭わない性格だった。それは、戦や政に関してのみではない。否、戦や政は後から派生したもので、政宗を獲得することこそが本願なのだろう。幸村が将棋の駒を動かすように淡々とこなすそれらは、邪恋に身を焦がすもの特有の嫉妬と確固たる意思がなければ不可能な実際的な仕事だった。密やかに闇に葬られたもの、公然と抹消されたものたちは数知れない。だが、周囲が政宗へ進言することは不可能だった。吹き荒れる粛清の嵐に臆したためではない。幸村の目の届かぬ時がないためだ。幸村は絶えず政宗の隣に侍り、その目を光らせた。
かつて一度だけ、政宗の股肱の臣が、政宗と幸村の目前でその命を以って忠言を遂げた。だが、幸村は虚実織り交ぜ、それを讒言であると断じた。そして、政宗は呆気なくその言葉を信じた。迷う素振りを見せることすらせず、臣より幸村を選び取ったのだ。幸村の命でその臣の遺骸は打ち捨てられて、一族郎党は斬り殺された。
政宗は幸村のことを、己の失った右目の代わりだと思っているのかもしれない、と三成は思う。しかし実態は、政宗の左目すら曇らせるのが幸村だ。政宗は知っているのだろうか。己が父弟を亡くし、母を失った事の真相を。三成は苦い胸中に顔をしかめたが、吐露する勇気は皆目なかった。三成は勇気と無謀が紙一重であり、この国の案件に関しては後者に傾く割合が高いことを十分すぎるほど承知していた。
政宗に出会う以前の幸村はこのような男ではなかったのだろう。民を愛し、部下を重んじ、己を律する性だったに違いない。それは、兼続の様子を見れば三成にもわかった。しかし、全て過ぎ去った過去の事象だ。今の幸村、そして、政宗は―――。
「幸村の心を狂わせた政宗、政宗の瞳を閉ざす幸村。」
三成は後方の兼続を振り向き、噛んで含めるようにゆっくり問いかけた。
「なあ。お前の目には、どちらが、魔物に映る?」
初掲載 2008年11月2日