今
「随分久しいのう、くのいち。少しは道理を弁えたか。」
「そういう政ちんだって。少しくらい道理を弁えたかあ、なーんて☆」
勇将と名高い部下を左右に付き従えた敵将の姿に、夏侯淵はゆっくり弓を番えた。距離は、矢を外すほど遠くもない。これほど簡単に弓の射程にやって来た政宗に対し、淵は豪胆なものだと内心感嘆すると同時に、愚かなやつと評価を下した。
くのいちは、そんな淵を視界の端に収めたのか、もどかしそうに笑って告げた。
「淵ちゃん、邪魔しないで。これは、私の戦いなの。」
それは笑い混じりの言葉ではあったが、淵は、間違いなく含まれた殺気に気付いた。くのいち相手に、と淵は密かに顔をしかめた。殺気に首筋がちくちく痛んだ。誰かの殺気で肌が粟立つなど、呂布に対峙して以来のことだ。淵は思わず悪態をついた。
「やれやれ、邪魔するなって。男と女の修羅場ってやつかよ。まいったなあ。くのいちが振られたのか?」
「違うよん。」
ひどくはしゃいだ様子のくのいちに、政宗が眼を眇めた。くのいちは笑った。
「振られたのは政ちん。もっとも、振ったのは、私じゃないけどねん☆」
そして、くのいちは得物を構えた。
いつかあった遠い過去
「馬鹿め馬鹿め馬鹿めーーーーーっ!」
ふわり、と何かが鼻先を掠めた。眼下ではひらひらと白が舞っている。その光景はまるで桜吹雪だ。
一足早い春の到来に、くのいちは面白がれば良いのか呆れれば良いのか判断に窮した。この光景の犠牲になったのは、くのいちの主が認めた文だ。くのいちがはるばる上田から届けた代物である。はたして何が記されていたのか、屋根の下の子供は内容を見るなり、癇癪のままそれを破り捨てた。
ちょっと面白くないな、と、くのいちは己の不満を認めた。けど、やっぱ、綺麗だし面白いよねん、と、くのいちは可笑しな状況も認めた。手の中で千々と引き割かれていき、終には宙を舞うことになったその文は、感動するくらい美しかった。
どう反応しようかな。くのいちは考えあぐねて再び眼下を見た。これは怒れば良いのか楽しめば良いのか。
僅かに雪の残った地面の上で、いまだ、風に吹かれて文だったものは舞っている。
どうして「雪」ではなく「桜」なのだろう、と、くのいちは思わず首をかしげた。さきほど見たときは、間違いなくその断片は「花」だった。
自分の直感に間違いはないはず。そう固く信じるくのいちは僅かに眉根を寄せ、そしてふっと、鼻先を掠めたあまやかな香りに、手を伸ばして文の断片を掴んだ。やはりそうだ。くのいちは鼻先をすんすん鳴らした。これには、桜の香りがつけられている。
恥辱か寒さから桜色に染まった子供の指先に、くのいちは一人納得して頷いた。
春風ではないけれど、春でもないけれど、舞ったのは間違いなく桜の花だった。くのいちは誰にともなく呟いた。
「…やっぱ綺麗だから、怒れないにゃー。」
そして、屋根瓦を蹴り、姿を消した。
いつかあったはずの未来
「こやつは…。」
数年ぶりに耳にしたその声は、怒りで僅かに震えていた。
怒るべきは自分の方だ。くのいちは殺気交じりに思った。怒るべきも、八つ当たるべきも、嘆くべきも、それは主を失くした自分の方だ。
ああ、殺せるものなら殺してやりたい。
まるで全てをなかったことにするかのように、ざあざあと雨が降っている。だが、地面に吸い取られた血は水溜りの中でたゆたい中々消えようとしない。それはくのいちの心のわだかまりも、怒りも、同じことだ。くのいちは改めて殺意を新たにし、くないを力いっぱい握り直した。
眼前では、濡れた前髪を額に張り付かせ、幼い顔立ちの青年が嘆いている。
「こやつは…己が信念を貫き…逝った…。勝利し、生き残ったわしは…。」
その足元には、くのいちの主の亡骸がある。くのいちが半蔵を振り切り駆けつけたときには、全ての出来事がもう終わっていた。くのいちにとっての生きるべき指針も、生きるべき言葉も、何もかも全てが失われてしまった。
「幾人もの武士があやつの槍の前に屈していった…。わしには、誰もが進んで、かような最期を迎えているように見えた…。」
彼はそこで言葉を詰まらせ、堪えるように唇を噛んだ。
「…教えよ、くのいち。教えてくれ。あやつにとって、わしには、殺す価値すらなかったということか?」
馬鹿な問いかけだ。くのいちは内心彼を嘲った。
「…違うよ、政ちん。幸村様にとって、政ちんは、」
もう呼ぶことのなかったはずの呼び名で呼び、くのいちはしかと政宗を睨んだ。改めて見た政宗の姿は迷い子のように頼りなかった。こんな風に変わってしまうなら、こんな風に終わってしまうなら、数年前の方が断然ましだった。くのいちの頭に血が上った。
どうして、幸村が政宗を倒せなかったのか。どうして、政宗は幸村によって死ねなかったのか。そのような問いは答えるまでもない。くのいちにしてみれば、その答えはあまりに決まりきっていて、答えるのはあまりに馬鹿馬鹿しかった。信玄亡き今、幸村にとって唯一殺すことの出来ない存在は、慈しみ守りたいと思うような存在は、家族でもくのいちでも秀忠でもなく、眼前で嘆く政宗なのだ。幸村の弱みは、政宗、ただ一人だけだったのだ。
ああ、殺せるものなら殺してやりたい。くのいちは得物を握り直した。だが、それは唯一無二の主が選び取った最期を否定することだった。くのいちは強く唇を噛んだ。何より悔しいことに、くのいちのくノ一として研ぎ澄まされた部分は、幸村の死を単なる情報として受け入れた。あれだけ慕った主の死すらも情報に貶める己が嫌だった。
くのいちは俯くと、顔を手で覆った。一粒、水溜りに涙が零れた。
一年前
伊達が遠呂智に下ったと耳にしたのは、半年前のことだった。
方々で遠呂智軍相手に小競り合いを起こす幸村を少しでも支援できたら、と、のみならず、それ以上の遠呂智軍に対する反発もあって、くのいちは自分らしくないと思いながらも、真田忍軍を率いて戦いに明け暮れていた。その方が、いつかあったはずの稲との交友を思い出せて、現実を認識するよりはよほど楽しかった。
らしくないな、と、くのいちは内心思わないでもなかった。くのいちは忍だ。現実を正しく受け止め、受け入れる才能が際立っていた。それは訓練の賜物ともいえたが、元々才能があったことを鑑みれば、人としてどこか欠けていたのだと思う。どれだけ辛く厳しい現実でも、くのいちの心は冷めた目でその現実を直視した。幸村が死んだときも、同様だった。あんなに辛く悲しかったことはないが、それでも、くのいちは心のどこかでその現実を淡々と受け入れた。
初めて目を逸らしたいと思った現実は、かつて交流のあった少年に関わるものだった。幸村の敵と手を組んだからといって、幸村が彼を殺めるはずがない。くのいちはそのことを重々知っていた。だからこそ、くのいちは、彼が未だに幸村の手にかかりたいと願っている事実を受け入れざるをえない事態に陥りたくなかった。彼の昏い熱望に光る眼を直視する心の準備ができていなかったし、できそうにもなかった。
そんな己を、くのいちは弱くなったと思った。くのいちはかつての、人間として大切な何かが欠けて壊れていた自分の方が好きだった。だが、くのいちはあの未来を生きた。そして、おそらく、彼も生きたのだ。だから、自覚があるかなきかは別として、あれほどまでに幸村に和することを厭い、ひたすら彼に憎まれるような敵であろうとするのだろう。
くのいちは苦しみと哀しみに掻き毟られる胸を押さえ、目の前に立つ男の背を見た。言ってはいけない、と心が叫んだ。今すぐ踵を返して、ここから逃げ去らなくては。
でも、目を逸らしても胸が痛むなら、あたしは現実を受け止めなきゃならない。この人と同じ、忍、として。
怖じ気づく咽喉を叱咤して、くのいちは呼びかけた。
「おっと!半蔵の旦那じゃござんせんかい。」
「…手伝え。」
どうにか整えた声色の理由を問いかけるでもなく、半蔵は背を向けたままくのいちに命じた。その傲慢で勝手な無関心が、今は、これ以上ないくらい嬉しかった。
「やっと…認めてくださったんですね…うるうる。」
くのいちは、どうにかそれだけ返した。それ以上話せば、泣いてしまいそうだった。
赤く爛れた空に白が舞っている。雪ではない、桜でもない。それは桃の花弁だった。
熱風に煽られ義元の掌から舞い散る花弁に、くのいちはかつての情景を思い起こした。まだあの頃の彼はひねくれていなくて、歪んでいなくて、可愛らしかった。そして自分も壊れたままで、喜びしか知らず幸せだった。
だが、それだけでは、やはり駄目なのだ。現実から逃げて、後ろばかり振り返っても、何も望みどおりに変わりはしないのだ。
そして再び、今
結局、と、くのいちは過去を振り返った。結局、二の足を踏んでばかりで、次の一歩を踏み出すまでに一年もの歳月が経ってしまった。
「振られたのは政ちん。もっとも、振ったのは、私じゃないけどねん☆」
言い切って、くのいちは得物を構えた。くのいちの場違いな笑みに、視界の端で淵が驚いたように僅かに目を見開き、政宗が嫌そうに顔をしかめたが、くのいちはまったく気にしなかった。久しぶりに見た政宗の政宗らしい表情がただひたすらに嬉しかった。
この一年でくのいちは多くを捨てた。それ以前の、あったはずの未来、で大事なものを失った。しかし、それ以上のものをくのいちは手に入れた。過去に踏み止まっていても、事態は変わる。それを認めないのは愚かしいことだ。そして、そんな風に変わった己を否定するのは、もっと愚かしくて哀しいことだ。
「政ちんにもそれをわからせてあげるね☆」
「…何がじゃ?いや、言うな。別に要らぬ!」
「それは駄目☆」
くのいちは、政宗が苦手だったねねを真似して、きっぱり告げた。
「悪い子にはおしおきだよ!」
それは腕力に訴える行為でしかないとくのいちは十分すぎるほど承知していたが、かつての自分と政宗の関係を思えば、そういう戯れも悪くないと思うのだ。途端、ひるんだ政宗にくのいちは飛び掛った。
「言うことを聞かない子はこうしてくれる〜!」
「だあああああ!止めんか、くのいち!」
「駄目、止めない☆」
元々此度の戦に乗り気ではなかったのか、伊達三傑の一人、小十郎は軍の撤収に向かってしまった。政宗は、残った成実に助けを求めた。
「成実!止めさせよ!」
成実はくのいちに抱きつかれてくすぐられている政宗を見やり、それから、笑い混じりに肩を竦めた。
「でも、殿。女相手に負けを認めるのは、殿としてもあれなんじゃねえの?だから俺、殿の邪魔にならないように見守ってるよ。」
「し、成実っ!この裏切り者!謀ったな!」
政宗の叫びに、そういうことか、と淵も事態を理解した。大将がのこのこ弓の射程範囲に入り込んだり、矢を番えた淵にくのいちが殺気立ったりしたのは、元々こういう算段があったからだろう。流石は、忍。間者として敵方を内応させるのもお手の物である。
「あーあ。敵武将を子ども扱いかよ…。お前、何者だ?くのいち!」
呆れたように淵が笑った。
殺人人形だったあたし、さよなら。愚かな人間のあたし、こんにちは。
根負けしたのか、くすぐったいのか。桜色の頬をしてとうとう噴出した子供に、さくらのあたしも笑い声を立てた。
初掲載 2008年8月31日