麗かな春の日の夜、場所は蜀における伊達の邸宅。政宗は機嫌が悪かった。胸中を背景効果で示すなら、雷が飛び交うベタといったところか。政宗の様子に、小十郎はおろおろ対処に困り、成実は近付くまいと強く誓った。
しかし、そのように明らかに状況がおかしいときにも、空気を読まないあるいは読めない輩は存在するもので、前者か後者かは謎であったが、慶次という男がそうだった。慶次は突然やって来るなり、政宗の部屋に直行した。普段ならばまったく止めるような必要などないのだが、いかんせん、今はあまりに危ない。爆弾にマッチを近づけるようなものだ。もっと適切な例を挙げるならば、核兵器のボタンに五歳児を近付かせるようなものだろう。
もっとも、この時代にそのように危険な武器はなかった。そして、五歳児の愚行を止めてくれるような保護者もいなかった。後に聞いた話では、保護者役の孫市は深く酔い潰れ、伊達にいたる道中で寝ていたらしい。その身元は面倒見の良い趙雲によって仕方なしに保護され、風邪を引くのは免れたそうである。
何にせよ、今、重要なのは慶次の一挙一動だ。見ていられない、とさしもの綱元もいずこかへ去った。それくらい、危険な状況だった。
「いよう、政宗。元気かい!」
「…。」
黙殺である。
だが慶次は一向気にした素振りもなく、政宗の肩を抱きこんだ。顔が赤いので、どうも酔っているらしい。ざるの慶次がこれとは、一体どれだけ深酒したのだろう。むわっと立ち込めたあまりの酒臭さに、よりいっそう政宗の眉間のしわは深まった。
「いやあ、お前さんも呑みに来れば良かったのに!幸村が寂しがってたぜ?何でドタキャンしたんだよ?」
そう言って慶次は笑い、おかしそうに政宗の肩を叩いた。その後ろで小十郎はいつ政宗が爆発するかと本気になっておろおろしていた。これほどうろたえたのは、小田原遅参以来のことである。あとは、政宗が遠呂智と親友になって味方してしまったとき以来だろうか。何にせよ、そう滅多にあるうろたえぶりでもない。胃に穴でも空きそうである。
ばんばん叩かれていた政宗だったが、まるで地鳴りのような低い声で何やら小さく呟いた。傍にいる酔っ払いの慶次も、遠く離れている小十郎にも、その声が届くことはなかった。
「ん?何て言ったんだい、政宗?」
が、良くも悪くも、ここで聞き返すのが慶次という男だ。背後で小十郎はざっと青褪めていた。
政宗は叫んだ。
「あやつが寂しがるか馬鹿めええええっ!」
閃光が走った。
久しぶりの独眼竜ビームに政宗の自室からは一時屋根が消え去る騒ぎとなってしまったが、それで一応はすっきりしたのか、政宗はふんと鼻を鳴らした。げらげらと慶次は大声で笑った。ただ一人小十郎のみが普請代を考え、胃痛を覚えていた。
この騒動はここから始まった。はじまりはもっと以前にあったのだが、幸村が事態を深刻に受け止めたのはこのときだったのだから、「ここから」で良いだろう。
どたばたと廊下に騒音が走る。幸村だ。幸村らしくないその慌て振りに、虎戦車の整備を行っていた月英とその助手の姜維は廊下を覗いた。
「幸村殿、いかがなさいました?そんなに慌ててあなたらしくもない。」
「そそそそそそそ、それが!その、ど、どうしたら良いのでしょうか!」
「ともかく落ち着いてください!はい、深呼吸!ひっひっふー!」
「ひ、ひっひっふー。」
姜維殿、それはラマーズ法という出産の呼吸法ですよ、と月英は内心思ったりしたが、可哀相なので指摘しなかった。
「それで、どうなさったのです?」
「それが、その。申し訳ないことに私に原因が良くわからないのですが、政宗様がたいそう怒っていらっしゃるらしく…あの、私、何を仕出かしてしまったのでしょうか?!」
「どうどう。落ち着いてください、幸村殿。何か、言動に心当たりはないのですか?」
「それが、一昨日は確かにご機嫌でしたし、昨日は一度も会っていないというのに、酒宴に来ないほど不機嫌で…。」
「酒宴…ああ、張飛殿や義弘殿が何かやっていましたね。最後、諸葛亮様の部屋に押しかけて、お仕置きを受けていらっしゃいましたけど。」
「お、お仕置き?」
聞き捨てならない言葉を問うと、己のことでもなかろうに、姜維が胸を張って答えた。
「丞相の部屋にエロ本をわざとらしく置いていこうなどという、あまりに幼稚な行動に打って出たのです!しかしそこは丞相!お二方はバケツを持たされて、廊下に立たされていました!」
「そ、そうですか…。昨日は途中で退場してしまったので、まさか、そんなことになっていたとは…。」
「愚か、の一言に尽きます。諸葛亮様に一計案じようなど。」
やっぱりこの夫婦とその愛弟子は、一筋縄には行かないようである。主役格にしてはあまりに平凡で地味な幸村はつうと冷たい汗を垂らした。赤、くらいが自慢の自分では、とうてい勝てる見込みのない個性だ。無論、勝ってしまっても困るのだが、そこは幸村、真面目に反省したのだった。
「まあ、話を聞いてみた限りでは、私にはてんで理由が思いつきません。力になれず申し訳ありませんね、幸村殿。」
「幸村殿、私もわかりません!でも確か、昨日の夕方に突然帰宅なされてしまったのですが、そのときには政宗殿の機嫌は悪かったです!あと、一緒にお八つを食べたときは普段どおりでした!」
「あら、お八つ。それは良かったですね、姜維殿。」
「はい、月英殿!」
何やら話が脱線してきている。しかし、お八つまでは普通で夕方に機嫌が悪くなっていたというのは、なかなかの有力な情報である。そこに政宗の不機嫌の原因があるかもしれない。幸村は篤く礼を告げると、その場を辞退したのだった。
場所は打って変わって伊達の屋敷。普請のため業者でごった返す政宗の自室から、少し離れた執務室である。
「それで、何であんなにかっかしてたんだい。政宗らしくもない。」
二日酔いには向かい酒だ、と酒を呷りながら問いかける慶次に、政宗は胡乱な視線を向けた。若干、その目には殺気が含まれていないこともなかった。
「知らん。」
「知らないってことはないだろうさ。だって、自分のことだろ?それに、政宗は幸村がどうのと喚いてたじゃあないかい。」
「知らんと言ったら知らん!何なのじゃあいつ!なにゆえ、わしだけ除け者にしおる!そんなにわしのことが嫌いなのか!」
「?知らんって、何、怒ってる原因じゃあなくて、その原因に対する感想かい?」
「そうじゃ、馬鹿めっ!」
ばん、と政宗が机を叩いた。これ以上屋根を飛ばされては困る。慌てて小十郎が止めに入った。半ば決死の覚悟だったが、流石に、片腕を怪我させるほど政宗も見境はなくなっていない。鼻息は荒かったが、どうどうと言われてどうにか落ち着いた。
「それで、何が知らないって?何か、仲間外れにでもされてんのかい。俺は、んなこたあ、ないと思うけどねえ。」
当人より先にばらすのは無粋なので、天下一の傾き者を自称する慶次はやらないが、幸村は政宗のことが大好きだ。大好きすぎて、もはや恋の域だ。そして、幸村は、好いた人間にわざわざ嫌われるようなことをするほど捻くれた男というわけでもない。思いつめると些か危険だが、いたって平凡で純朴なやつである。悪く言えば愚鈍だが、そんな感じだ。
首を傾げる慶次に向かって、政宗は拳を振り上げ、叫んだ。
「いっつもこそこそしおってあやつ!何なのじゃろうとは思っておったが、わしはいっこう気にしておらんかった!じゃが、わしは、知ったのじゃ!昨日、星彩の部屋に遊びに行ったとき、幸村が…!」
「幸村が?」
愛や友に関して、不遇すぎた政宗のことである。星彩との性別を超えた友情も是非とも大切にして欲しいものだ。が、小十郎としては、執務はどうしたと尋ねたい気もする。しかし小十郎は耐えて、続きを待った。
「『星彩、どうしようもなく好きすぎてどうしたら良いのかわからないんだ!私は一体、どうしたら…。こんな、身分違いの恋…!』『幸村殿…、身分なんて不毛なもの、気にしないで。あなたのその気持ちが、私は嬉しいわ。』 …何故、何故、二人とも付き合っておるのをわしに話さんのだ!秘密裏に!星彩も星彩じゃが、あやつはまがりなりにも一国の姫君。その上、婚約者がおるではないか。それに、わしは男。女のあやつでは色々言いにくいものがあるやもしれん…。じゃが…、じゃが、幸村は言うてくれても良かったではないか!」
知ったときむやみやたらと何かがショックで、思わず部屋に踏み込む事も忘れて、帰宅してしまったことは言わなかった。まだその点については、政宗の中でも整理がついていないのだった。とりあえず現状として整理できたことといえば、除け者にしてくれた二人がむかつく、ということだけである。生来、友達というものがいなかったので、政宗はこのようなことには耐性がなかった。
じりじりと焦げ付き始めた眼帯に慌て、小十郎が再び宥めに回った。ここでビームを発射されようものなら、またいくら普請代がかかるかわからない。見栄があるのか、政宗の執務室は自室以上に高級だった。
政宗の言葉に、事情を察した慶次は困ってしまって頭をかいた。
「こりゃ見込みがあるんだか、ないんだか。わからないねえ。」
「む、何がじゃ!」
「いや?何でもないさあ。それで、どうすんだい?幸村に訊きに行くのかい?直接行動に打って出ないなんて、政宗らしくないじゃあなかい。」
そんなまさか直接訊いて、幸村が星彩と付き合っていることを知らされるのも嫌だとは言えない。政宗はむすっとだんまりを決め込んだ。
ところで、空気を読まないあるいは読めない輩が存在するように、間が悪い者もいるものである。概して、幸村がそうだった。
「も、申し訳ありません…。こちらに、政宗様はいらっしゃるでしょうか?」
廊下から恐る恐る聞こえた声に、政宗はガタンと椅子を倒して慌てて窓から外へ逃げようとした。しかし、ここは国有の執務室ではなく、政宗個人の執務室である。国有ならば一階だったが、伊達の方は三階だった。いくら身体が丈夫だとしても、飛び降りるのはちょっと危険だ。
そして、政宗ははっと気が付いた。何故、わしが逃げる必要がある!非難されるべきは幸村ではないか!人はこれを「開き直り」と言ったり言わなかったりする。
「お、おるぞ!何の用じゃ!」
「いえ、あの、その…。えーと。」
扉越しの会話も不毛だ、と、優しい小十郎が扉を開けた。どちらも焦って互いの顔を合わせないので、初々しいねえ、と慶次は思った。
「何で政宗の機嫌が悪いのか、尋ねに来たんじゃあないのかい?そうだとしたら、幸村が訊くのも大変なことだろうさ。面倒臭いし、政宗が説明してやったらどうだい。俺と片倉さんはちょっくら消えるから。」
「はい。後は、政宗様と幸村殿でお話下さい。」
心中、小十郎は執務室が破壊されないか心配で心配でたまらなかった。しかし、それ以上に大切なのは主君なのである。どれだけ政宗馬鹿と貶されようと非難されようと呆れられようと、小十郎の一番は政宗なのだ。金のことは後で考えよう、と現実逃避をすることにして、小十郎も退去を選んだ。
「こ、小十郎!」
「それでは、失礼させていただきます。」
主のためだ、と胸中血涙を流しながらも、小十郎はその場を離れたのだった。
さて、こうなると、残された方は些か辛い。政宗はしばらく恨めしそうに扉を睨み付け、それから、腹を括って幸村を見つめた。
「幸村!何かわしに言うことがあるであろう!」
腹立ち紛れに吐き捨てる辺り、政宗らしいといえば政宗らしい。だが、通常、このような状況でぴりぴりされても、相手としては困るものである。案の定、幸村も焦り、汗を飛ばした。
「あ、あの。その。も、申し訳ありません!…何のことでしょうか?」
「ええい、馬鹿め!昨日、星彩の部屋で、と言えばわかるのか?!」
瞬間、ぼっと幸村の顔が赤く染まった。頬どころか耳、首まで赤くなった幸村に、政宗はなんだか泣きたくなった。しかしそこはへそ曲がり。自分の心には気付かないながら、泣いてたまるかと涙を呑んだ。
「ああああああああああのそのののののの、えええええと、あ、あの。ななな、何を、ききき聞いて。」
「知らぬとは言わせぬぞ!せ、せい、星彩に、好きだと言うておったではないかっ!わ、わ、わ、わしは確かにこの耳で、聞いたのじゃからな!」
あまりの事態に幸村は混乱して気付いていないが、問い詰める政宗、すでに何か泣きそうである。鼻も目許も赤くなっていた。
「あ、あの。あの。その。あの。えっと。あの。では、聞いてしまったのですか?」
「そうじゃ!馬鹿めっ!」
しどろもどろで周囲に人がいないか覗った後、幸村は恥ずかしさのあまり憤死しそうな顔で、政宗に正面きって捧げた。何を、って、愛の言葉を、である。
「その後、今の関係が壊れてしまうのではないかと思えば恐ろしく、そのせいで、きちんと私の口から告げることができないまま、今回のような結果となりましたが…お慕い申し上げております、政宗様!」
「……………………は?何がじゃ?」
「で、ですからっ、政宗様のことをお慕い申し上げておりますと。」
「…星彩ではのうて、わしなのか?幸村が好きなのは。」
「えっ?!あ、あの?!」
どうも二人揃って、勘違いしっぱなしだったらしい。目を白黒させている幸村の様子に、政宗はははっと笑い声を立てると、幸村の胸元へ飛び込んだ。
「何じゃ、そうなのか。わしは、…、良かった。」
「ま、政宗様?!ああああああああああのののの。」
困った挙句、幸村は恐る恐る政宗の背に腕を回し返した。二人はしばらくそのままでいた。
なお、政宗は本気になって否定しているが、この日、独眼竜の目からはビームではなく涙がこぼれたという噂である。
初掲載 2008年5月5日