もうすぐ造船が終わる。
船の設計図を片手にそう報告したのは、政宗だった。政宗の目は希望に輝き、妲妃は内心それを哀れだと思った。航海に出るための造船ではない。政宗の夢を託すためではなく、それは、戦のための作業だった。いつ沈むとも、燃え尽きるともわからない。人殺しの道具だ。
(可哀相なお馬鹿さん。)
「あら、そう。じゃあ、これで呉軍相手もどうにかなりそう、政宗さん?周りをうろちょろ、水軍が自慢だかなんだかわからないけど、邪魔で仕方がないのよねえ。」
妲妃は赤く彩っていた爪にふっと息を吹きかけてから、差し出された報告書を手に取りあげた。
「遠呂智様は何て?」
「好きにしろと言うておった。」
遠呂智に一任されたことが嬉しいのだろう。ふふんと自慢そうに胸を張る政宗に、はっと妲妃は鼻先で笑った。
「それって、どうでも良いってことでしょ?自惚れないでよ。遠呂智様の信が篤いのは、この私、なんですからねえ!」
「どうだかな!先の失敗でそれも失われたのではないか?諸葛亮にしてやられおって。」
「そう言う政宗さんこそどうなのよ!部下が、ちょっと迂闊だったんじゃないの?捕虜を逃がしちゃって。」
そう返してけたけた笑えば、政宗が嫌そうに眉根を寄せたので、妲妃は少し気が紛れた。
確かに、諸葛亮の件は迂闊だった。諸葛亮が二心あることなど誰もが知っていることではあったが、妲妃はそれをわかっていなかった。知っているのとわかっているのは、別物なのだ。
だが、だからといって諸葛亮を罰することも出来ず、妲妃は翻弄されるがままだ。今は、まだ。
(そうよ。今は、ね。今はまだ、してやられててあげるわ。諸葛亮さん。でも、最後に笑うのは私の方よ。それをひどく思い知るでしょうよ。)
それとも、諸葛亮は知っていて踊らされているのだろうか。ふと湧いた疑問を呑み込み、妲妃は報告書を政宗の方へ突き返した。
「これで呉の水軍や村上水軍に対抗できるわ。遠呂智様の天下、楽しみね。政宗さん。」
「そうじゃな。遠呂智の隣におるわしが今から目に浮かぶわ。」
「馬鹿言わないでよ。遠呂智様の隣には私がいるのよ。政宗さんは精々、…、…。後ろって言おうと思ったけど、そうね。抱っこでもしてもらえば良いじゃない?肩車。」
「馬鹿なことを言うでないわ、馬鹿め!わしはそこまで小さくないわ!」
再びけたけたと笑い声を立てながら、でも、と内心妲妃は思った。
(でも、そんなの、遠呂智様は気にしないと思うわよ。政宗さん。そもそも、遠呂智様は天下なんて望んでいるのかしらね?私はそうは思ってないけど。)
結局、遠呂智にとって、隣に誰が立とうと同じことなのだ。誰でも構わない。それが妖であっても、人であっても、大差ない。所詮、代用の利く紛い物だ。遠呂智が望むのはただ一人、己を滅ぼす存在なのだ。
その位置に至るには、妲妃も政宗も力が足りない。慶次や呂布ですら、なれるかわからない。
(遠呂智様の「本物」に、私たちじゃなれないっていうのに、ずいぶん真摯に慕うものじゃない?政宗さんなら、他の誰かの「本物」になれたのに。)
その権利を投げ出し逃げてきた政宗を、妲妃は胸中嗤いながら哀れんだ。何と言おうと、所詮、己も同類だ。恋は恐ろしい。その事実を、妲妃も政宗も身を持って味わっていた。
もう味わいたくないと思った。思ったから、ここにいる。
(でも、ここにいても私と違って、政宗さんはもう一度手痛く思い知るかもしれないわね。)
「もし、あの犬が、」
「…犬?」
ふと洩らしてしまった呟きに、政宗が怪訝そうに眉をひそめた。
「何でもないわ。ほら、遠吠えが五月蝿いってだけよ。私、犬って嫌いなのよねえ。」
「狐が犬を嫌うのは本当なのか?」
「さあ?少なくとも、私は大っ嫌いだけど。」
妲妃は誤魔化すように笑った。
犬が嫌いなことは事実だ。あの、犬、限定の話ではあるが、政宗を奪い去るような犬は殺してしまいたいと願っていた。こんな強烈な殺意を覚えていることを自覚する前に、あのとき蜀で殺せば良かった、と、内心妲妃は後悔していた。その想いを、政宗はまったく知らされていないが、これこそが妲妃の本音である。
同じ立場だから、離したくなかった。同じ立場だから、逃がしたくなかった。
だが、結局のところ、妲妃の身の振りようだけが大切なのだ。妲妃はそれを自覚してもいた。そして、政宗が去っても、妲妃が変ることだけはないということも、重々わかっていた。
妲妃が遠呂智の傍を離れるなど、ありえようはずがない。
「ま、良いわ。呉なんてけちょんけちょんにしてやりましょうね。話はそれからよ。魏にかまけてる呂布さんにも、通達しておかないといけないわねえ。」
話は終わったと手のひらを振り、妲妃は再び爪へ目を落とした。妲妃、と呼ぶ声が耳に甦る。かつて愛した男の声だ。この想いが風化するには、後、どれくらいかかるのだろう。
(まあ、たぶんその前に死んじゃうから、考えてみても意味がないわね。)
ふいに目を上げると、すでに政宗の姿はなかった。
いつかきっとまたこうなるのだろう。そう思い、妲妃は声を立てて笑った。
政宗が去っても、妲妃は変らない。この命が尽きるまで、遠呂智のそばにある。遠呂智と死ぬために、今、ここにいる。妲妃は遠呂智へ参じたときに、そう固く決意したのだ。
(男って馬鹿よね。夢ばっか追い求めて、溜め込んで。馬鹿っていうか、獏なのかしら。)
爪は血の色に輝いている。それともこれは、炎の色だろうか。
「でも、結局、遠呂智様と夢に死ぬのは私の方で、あなたは現実を選ぶんでしょ、政宗さん?」
いつか来る日を脳裏に描き、もはや誰の「本物」でもなくなった妲妃は、小さな声でそう嘯いた。
初掲載 2008年4年19日