北風と太陽 / 伊曾保物語


 仕事の邪魔でもしてやろう。そう思って押しかけた政宗の執務室に、部屋の主はいなかった。
 代わりに、机の上に思いも寄らないものを見つけて、妲妃は思わず目を瞬かせた。伊曾保物語、だ。そういえば、政宗さんは丁度これが出てきた頃の人だったわ、などと思いつつ手にとって見ると、随分熱心に読み返したようで、頁は若干嵩張っていた。
 政宗がやって来るまでの暇潰しにと、妲妃はそれをぱらぱら捲くった。北風と太陽、狼が来た、狐と葡萄、鼠の相談、欲張りな犬、兎と亀。何れも、利口者と愚か者が立ち回っている。
 「馬鹿ねえ。もっと巧く立ち回れないのかしら。」
 数話目を通したところで、物語の登場人物に可笑しさよりも腹立ちを覚えて、妲妃は本を机上に投げ出し、大きく嘆息した。
 まったく。こんなくだらない本、読んだせいで肩が凝っちゃったじゃない。
 そう思いながら、椅子に踏ん反り返り大きく伸びをしたところで、妲妃は、扉のところからこちらを呆れ混じりに睨んでいる部屋の主に気付いた。政宗は、仮にしかめ面の見本が必要とされる事態があれば他薦として提示したいほど、渋面だった。
 「随分遅かったじゃない。人を待たせるなんて良い趣味じゃないわよ、政宗さん。」
 「勝手に人の執務室に踏み込んでおいて、何を言うか。約束も何もなかったであろう。ほら、退かんか。そこはわしの席じゃ!」
 「けち。」
 「煩いわ、馬鹿め!」
 政宗の発言は尤もなのだが、それに応えるような妲妃ではない。妲妃は唇を尖らせて思案した後、無視を決め込むことに決めて、伊曾保物語に目線を向けた。
 「これって、政宗さんの愛読書?随分趣味が悪いんじゃないの?すごーい詰まらなかったわ。全然。何の足しにもなんない。馬鹿ばっかなんだもの。」
 そう言って、妲妃は政宗にあざとい笑みをこぼした。
 「優しい私は訊いてあげるけど、政宗さんの好きな話ってどれなの?これだけ読み込んでるんだから、何か一つくらいお気に入りがあるんでしょ?」
 政宗は答えず、妲妃を椅子から退かせるべく実力行使に出た。もしかしたら、先の問いに答えたくないのかもしれない。良い暇潰しが出来るわ、と、よりいっそう興味を惹かれて、妲妃は立ち上がり椅子を掴んだ。人質ならぬ椅子質だ。
 執務室には他に長椅子などがあるが、政宗の定位置はこの椅子である。若干足が高めに作られているので、背が高く見えるこの椅子が、政宗のお気に入りであることを妲妃は勿論知っていた。そして、それでは政宗の足が地面につかないので、さり気なく足置きが机の影に隠されていることも、机に前張りがあるのは足元を隠すためであることも、妲妃は当然知っていた。
 「好きな話の題名と理由を答えてくれたら、返してあげないこともないけど?どうする、政宗さん?」
 政宗は歯を食いしばった。それは、わざわざ顔を作るほどのことでもない事態に対し、怒鳴りそうになるのを必死に押さえつけるときの政宗の癖で、大抵は妲妃相手に使われた。
 遠呂智以外には誰にも言わないが、実は、妲妃は政宗のこの表情が好きだった。無理矢理屈服させて従わせている気持ち、いわゆる優越感に浸れるのだ。それに、背筋がぞくぞくする。加虐嗜好がある妲妃のことなので、そういう顔をされるとちょっと快感が走る。
 変態だと白眼視されても、「一流の策士なんてそんなもんでしょ?諸葛亮さんとか信長さんを見てみなさいよ。」と、個人的嗜好ではなく職業的嗜好なのだと問題をすり替えることで、妲妃は逃げ切ることにしている。実際問題として、あながち、間違いではない。
 うっとり目を細めた妲妃に政宗は表情を改めた。最近、政宗も妲妃の趣味に気付いて、妲妃を悦ばせるような事態を招くことを忌避しているのだ。
 「わしは好きな話なぞない。気に障る話ばかりじゃ。わかったら、早うその手を退かせ!」
 「気に喰わないのに読むってわけ?矛盾してるんじゃない?」
 もしかして己の思い違いで、これは政宗の所持品ではないのだろうか。
 妲妃は内心首を傾げながら本へ目を向け、それならば誰がこのような本を持つに相応しいのか考えてみた。時代的に、そして軍の編成的に、この本の持ち主は明らかに伊達軍だ。
 そこで、はたとあることに気付き、妲妃は政宗を睨んだ。
 「政宗さんがはぐらかす気なら、私も言い方を変えるわ。何が、一番印象に残ってこの本を手元に置いてるの?気に障っても捨てられないくらいなんだから、何か理由くらいあるんでしょう?」
 「…。」
 政宗は答えない。妲妃は痺れを切らして、椅子を妖力で宙に振り回した。椅子は妲妃の武器よりよほど重かったが、まだ、持ち上げられる範囲内だった。
 「じゃあ、この椅子には空を飛んでもらうしかなさそうねえ。窓から放り出したら、見事に溶岩の中に飛び込んで、溶けて消えちゃうでしょうねえ。」
 あちらこちらに椅子が傾くたびに、政宗の目の色が変った。椅子ごときに何を、と妲妃にしてみれば思うが、身長のことで悩んでいる思春期の少年には死活問題なのだろう。
 不安と怒りの間で揺れる瞳に、これはこれですっごい美味しいじゃない、と妲妃が垂涎している間に、政宗は覚悟を決めたのか答えた。
 「…北風と太陽じゃ。」
 何というか、意外だった。妲妃は驚きに目を瞬かせた。
 「北風と太陽?嘘吐きで欲張りのせいで失敗したこともある政宗さんのことだから、狼が来た、か、欲張りな犬、辺りだと思ってたのに。何でなの?理由は?」
 「直接的な攻撃よりも、にこにこと笑って流した方が有利などおかしいであろう。理不尽じゃ。」
 どうも腹に据えかねるらしい。本気で殺気を撒き散らす政宗に、妲妃は嘆息して椅子を返した。
 「まさか、政宗さんたら、努力したら報われる、なんて思ってるの?あれは北風が馬鹿だったんじゃない。そんなの、考えるまでもないでしょ?結果なんてわかりきった服を脱がせる勝負に乗った時点で。挑発に乗った北風が馬鹿なのよ。直情的すぎ。第一、そうじゃなくても、夜になれば勝てたじゃない。何で昼間にわざわざ戦うの?地の利がわかってないのよ。」
 夜はぐっと寒さが増す。北風の力もきっと強まるだろう。
 旅人なんて凍死させちゃえば良いのよ、死人には暑さなんて感じられないでしょ?服だって脱げないわ。などと、物騒極まりないことを示唆した妲妃の発言を、政宗は別に解釈したらしい。
 「夜、か。確かに、最初から太陽がいなければ良かったのかもしれん。そもそも勝負も始まらぬしのう。じゃが、知り合ってしまった今、太陽がいなくなった世界に北風は耐え切れなかったのではないか。」
 政宗にしてはずいぶんと感傷的なことを言う。何かあったのかしら、といぶかしみつつ、妲妃は反論を口にした。
 「じゃ、北風さんが勝敗の見え透いた賭けに乗ったのも、太陽さんと遊ぶのが楽しいから?昼のうちに戦ったのも、太陽さんと離れるのが嫌で?ありえないわ。だったら、あれほどまでに北風さんは勝負に躍起にならないでしょ?それとも、「それでも、精一杯頑張ったから僕は満足です。」っていう自己満足な理屈のため?それこそ無意味で馬鹿らしいわよ。」
 一笑に付した妲妃に、政宗はぐっと言葉を飲み込んだ。その様子を見て、妲妃は続けた。
 「それとも、北風さんは、自分が負けるがわかりきってたけど、矜持があまりにも高いものだから、太陽さんに挑発された手前、受けざるをえなかったのかしらね。それで、その高い矜持を満足させるために、自分が負けない夜になるのを待ってたのに、実際夜になってみたら遊び相手がいなくて寂しくなっちゃった。それって、馬鹿にもほどがあるわねえ。」
 そこでいったん言葉を切った妲妃は、机に頬杖をついて尋ねた。
 「それで、政宗さんの太陽さんって誰で、一体何を賭けたのかなあ?」
 そう言って妲妃がにっこり笑うと、案の定、政宗が顔をしかめた。











初掲載 2008年3月5日