甘い罠


 蜀で、酒を呑もう、という話になるとまず乗り気になるのが張飛である。次に呆れた様子で星彩が巻き込まれ、関平も居ればともども参加させられることになる。酒の席での無礼講を賞賛している訳ではないが、酒が入って、口が軽くなる。先陣切っているのが、そもそもからして猪突猛進で直情型の傾向がある張飛だからだろう。
 遠呂智が世界を統合してから、ここに、日ノ本の者も加わることになった。元来は蜀の敵であるホウ徳や、親交のあった孟獲夫妻も呑める口だ。
 そういう訳でどんちゃん騒ぎの始まった広間に、政宗は呑気なものだと思った。しかし、自分もどちらかといえば呑みたい。国許の清酒でないのは残念なことだが、大陸の酒もなかなかに美味で、金木犀を漬けた酒など甘ったるいが風流である。政宗は好んでそれを呑んでいた。
 隣では趙雲と幸村が当たり障りのない談話をしている。
 こんなときでさえ我を忘れず、詰まらない奴らじゃ。
 そう思い、政宗は酒を呷った。もっとも、そんな生真面目なところが政宗の気にいるところだ。第一、自分も輪から一歩引き饗宴を冷めた目で見ている辺り、決して人様のことを言えない。
 ふっと脳裏を過ぎったのは、幸村と呑んだときのことだった。
 今の世界ではなく、本来の世界だ。あのときは笑うばかりで腹の読めない男だと思ったが、立場上致し方なかったのだろう。考えてみれば、政宗も昔は笑顔の裏で天下を虎視眈々と狙っていた。
 今は天下などあってなきようなもので、狙うつもりもなくしてしまった。自分もぼけたな、と政宗は再び酒を呷った。街亭で孫市にほだされ蜀に下り、蜀の面子と接する中ですっかり丸くさせられてしまった。その最たる人物が、眼前の幸村だ。
 立場があったとはいえ、昔と今と。こやつ、変わりすぎではないか?
 以前はもっと死んだような目をしていた気がする。そうして内心馬鹿にしていたところ、大坂で突然変貌を遂げた。そのあまりの変わりように、政宗は手元で銃が暴発したような薄ら寒さと恐怖を味わったのだ。そしてその死に様に魅せられた。一瞬で散る花火のように見事な死だった。衝撃だった。
 それが今はどうしたことか。幸村がお館様と慕う信玄が存命しているせいだろうか、若干直情型の気がある。策士であった過去とは違い、どちらかといえば、最期に見せた兵の姿だ。死にたがる気配は微塵たりもない。
 そうじっと見つめていると、視線がかち合い、困ったように幸村が笑んだ。頬が赤い。それに政宗は眉をひそめると、内心大きく溜め息を吐いた。妙なところで臆する男だ。昔なら、躊躇したりはしなかっただろう。一夜限りの夢を存分に楽しんだはずに違いないのだ。しかし、今は先があるから踏み込まない。否、先があるから、踏み込めない。
 これが、こやつも共にある太平か。
 そう思っていると、趙雲が星彩に絡まれ始めた。幼い頃を思い出すのか、星彩は酔うと趙雲に甘える癖があった。無論それだけが原因ではなく、女としての本心が表出するのだろう。その腕には魏延が襟首掴まれ捕獲されている。星彩は酔うと、どうも魏延にも絡む癖がある。
 …窒息死するのではあるまいな。
 女の細腕とはいえ、鍛え上げた戦士の腕だ。その上、あの張飛の娘だけあって、腕力は政宗よりも強い。ぎりぎり首を絞められている魏延に懸念の視線を向けてから、景気づけにもう一杯呷ると、政宗は立ち上がり幸村の前に立った。
 「酔った。」
 不思議そうに幸村が瞬きした。その手を無理矢理掴んで、引いた。
 「部屋まで送れ。」
 実はこっそり聞いていたらしい。隣で、政宗の姉を気取る星彩が珍しく顔をしかめた。
 「政宗、男は狼なのよ。幸村殿なら心配ないと思うけど。送り狼されたらどうするの。」
 その狼の首を締め上げ、一方で絡んでいる年頃の娘が言う台詞ではない。
 これでは父親も大変だと首を巡らせれば、当の張飛も姜維に絡んでいる。遺伝かと嘆息し、政宗は答えた。
 「そもそもわしは男じゃ。何の心配しとる。」
 「そうかしら。幸村殿はどう思う?」
 星彩の問いかけに、居心地悪そうに幸村が笑った。
 「…私は、」
 みなまで言わせず、政宗は腕を引き歩き出した。


 先ほどの星彩の言葉が引っ掛かっているのだろう。政宗の自室に至るまでの道中、幸村は終始目を泳がせて挙動不審な有様だった。無理矢理政宗が繋いだ手も緊張に強張っている。
 部屋の前に着くとあからさまにほっとされて、政宗は内心腹が立った。禁欲も自制も馬鹿らしい。目の前の誘惑に流されろ、と罵声が口をついて出そうになった。
 しかし、言ってしまえば逃げられてしまう。政宗はどうにか怒りを抑えた。
 「では、私はこれで…。」
 「待て。」
 いそいそと踵を返そうとする幸村の腕を再び政宗が掴むと、びくりと幸村が肩を揺らした。
 何をそんなに怖がっておる。
 今度は一転笑いそうになるのを必死に堪えて、政宗は僅かに顎を引き上目遣いに幸村を見つめた。
 自分の魅力の出し方も知らないようでは、大国の主の役は務まらない。当然、政宗もどうすれば自分が可愛らしく見えるのか、そしてそれが普段の姿とどのような差異を生み、結果としてどのような効果をもたらすか、黒はばき監修の下練習済みだ。その上、今は酒も入って肌がしっとり上気している。男にしては大きすぎるためどちらかといえば疎ましい瞳も、酒精に潤んでいるはずだ。
 我ながら、良くぞここまで待ってやったものだと感心すらした。抱きたい、とその目が言っていなければ、さっさと押し倒していたかもしれない。押し倒したところで、自分に幸村が抱けるなどとは思えなかったが、圧し掛かるくらいのことはしただろう。
 「…お休みの接吻もしてはくれぬのか?」
 返答に詰まった幸村が逃げ道を探し当ててしまう前に、政宗は畳み掛けた。そもそもそういう関係ではないと思い出されてしまう前に、ことは進めなければならない。
 ようやくここまで来たのだ。追いつめて、追いこんで、絶対逃がさない。
 「幸村。」
 名を呼ばれて、幸村はようやく重い腰を上げた。そうでなくては詰まらない。しかし躊躇いがちに触れた唇は、政宗にはふざけているとしか思えなかった。子供のそれだ。
 くそっ、馬鹿め。
 内心舌打ちをしてしまったが、まだ勝機はある。顔を離して安堵した様子の幸村の肩を掴み、政宗は自分から唇を寄せた。幸村より少し深く、しかし合わせるだけの接吻だ。政宗の好みから言えばかなり物足りない。
 それは、目の前の男も同じだと泳ぐ視線が告げている。
 「…もう一度。」
 ねだる声は思いのほか甘ったるい。政宗は内心顔をしかめた。恋はより深く惚れた方が負けだ。自分が幸村に執着しているなど、なるべくならば見せたくなかった。
 しかし、感情が理性の邪魔をする。再び口付けが降ってきたが、やはりあっさりと引き返されて、政宗は幸村を追いかけた。戯れるように二度三度啄ばみ、もたれかかるように頼りなく抱きついた。
 覚悟を決めたのか、幸村が言った。
 「…政宗様、」
 「うむ?」
 「送り狼しても宜しいでしょうか?」
 男は狼に、送り狼。ともすれば笑い出してしまいそうになる。山犬(おおかみ)の名で呼ばれたのは政宗の方だ。みんなそれを失念している。第一、これは――。
 「馬鹿め。」
 甘ったるい声だ。
 吐息も甘い、視線も甘い。罠にかけて優位に立つつもりが、これではどちらが罠にはまったのか。とはいえ、もうこの腕から逃れるつもりもないので、どちらが優位でも状況に変わりはないのかもしれない。
 屈託なく政宗は笑った。
 「これはお持ち帰りと言うのじゃ。」
 言って政宗は、幸村の首に腕を回し、口を吸った。











初掲載 2008年1月12日