僅か下に位置する横顔は、幼い顔立ちに反して驚くほど大人びている。幸村はその冷たさに白くなった頬を陶器のようだとぼんやり思った。肌理細やかという比喩ではなく、それも含みはするが、無機的であるという意味で、だ。政宗は陶磁器のつるりとした、何かをおぼろげに映しそうで何も映さない表面に似ている。触れられそうなほど近くにいる彼に幸村が話しかけるのを躊躇うのは、それが原因かもしれなかった。何もかも受け入れそうでいながら、全てを拒絶しそうな雰囲気が今の政宗にはあった。それはもしかすると幸村の負い目なのかもしれない。長い白昼夢のようなあれが幸村の見た白昼夢でなければ、幸村は政宗の無二の存在を殺めたのだから、負い目があっても致し方ないように思えた。
現在、幸村たちが遠呂智の倒し元の世界に戻ってから数年が経っている。別れた他の者たちはわからないが、少なくとも、幸村の戻った時代はまだ皆が幸せだった秀吉の時代だった。中には狐につままれたような面持ちの人びともあったので、もしかしたらその者たちも幸村と似たような夢を見たのかもしれない。
当時存命だった秀吉は苦虫を噛み潰したような顔で朝鮮出兵を取り止め、その死後、家康も政宗も豊臣政権を脅かすような行動をせず大人しかった。それにはあの長い出来事が多分に影響を及ぼしているのだろう。三成はしばらく家康たちの言動に目を光らせていた様子だったが、元の平和な世界に戻ってきた当初のあの虚脱にも似た安堵感を知る者には、いくら天下人の座とはいえ無駄に相争って乱を起こす気にはなれないだろう。馬鹿らしい、そんな思いに迫られるのだ。実際幸村も、戦いに明け暮れた日常から急に平和な時へ戻され、自らの処遇に困った覚えがある。戦いを好む訳ではないが、戦う相手がいない情況は些か身の置き場に困った。虚脱にも似た安堵感。幸村にとってそれは、正しく虚脱感だったのかもしれない。
そして今尚幸村は、己の身の振り方を決めかねている。
隣で小さく政宗が身じろぎ、大きな瞳で幸村を見上げた。
「もう少し近う寄るが良い。」
一瞬、考え事に耽っていた幸村は何を言われたのか悟れず、政宗の言葉に当惑した。政宗はそんな幸村の様子にいぶかしむように眉根を寄せた。
「傘に入りきらんで肩が濡れておる。早うせんか。」
「しかしそれでは政宗様が、」
「馬鹿め。わしがはみ出るようであるなら、そもそも声などかけたりせんわ。」
政宗はそう言い主張するようにくるりと柄を手の中で回すと、大きな傘がぐるりと回り、油紙の上を雨粒が伝った。幸村は内心そんな政宗の態度に困惑した。そもそも町で出会った時、雨宿りする幸村に対しわざわざ政宗が声をかけた時点でおかしかった。常はいっそ見事なまでに接触のない関係なのだ。しかしこれ以上政宗を怒らせるのも得策でないとも思ったので、幸村は政宗の方へと身を寄せた。縮まった距離に比例して居心地の悪さは募ったが、それが嫌な訳でもなかった。ただ現在と同じく、身の置き場に困るだけだ。当惑といって良いかもしれない。そんな幸村の内心に気付いたものか、政宗は詰まらなさそうに幸村を見やって、再び正面へ向き直った。
それから暫く、足下で濡れた砂利が擦れる音と雨音だけが耳に届き、やがて真田の屋敷が見えてきた。屋敷へいたる道なりには、白い躑躅が生垣として植えられている。梅雨に入り花が落ち始めているが、白く咲き誇る花を眺めて政宗は小さく嘆息した。
「この寒さでは全部落ちてしまうかもしれんの。」
「しかし花はつつじだけという訳でもありません。庭にはこれからが旬の紫陽花もありますし、秋には金木犀、春なら連翹、白木蓮。冬には、政宗様が生垣に用いられていらっしゃる椿もありますから。」
「お主も、武士のくせに首が落ちる椿なぞよう植えたな。」
「祖父が、潔い花だと好んでいました。」
「潔い、か。」
政宗は自嘲めいた笑みを浮かべて、再び躑躅へ目線を向けた。鮮やかに咲いた躑躅に紛れて、梅雨の寒さに萎んだものも幾つか見えた。そのまま落ちて黒ずむのだろう。やがて踏み躙られゆく花に物悲しさと諦念を覚え、息苦しいほど胸が詰まった。
ふと目に入った水溜りで寒さに白く染まる自分を見つけ、政宗はふいと視線を逸らした。
「雨で、良い思いをした覚えがない。」
政宗が無意識に洩らした言葉を拾い上げ、幸村が問うように政宗を見た。その困惑したような表情に、改めて政宗は幸村が己の最期を知らない事実を思い知らされ、小さく笑った。雨に打たれた椿の花ようにぽとりと潔く散ってしまった最期など、幸せな時世に覚えていない方が良い。土砂降りの雨の中濡れて冷えた幸村の骸を抱きしめ涙した過去も、全部、水に流してしまった方が良いのだ。
それを遠呂智は望んでいた。
「わしの傘がもう少し大きかったなら、あやつも、匿えたかもしれぬな。」
呟く政宗に幸村が僅かに強張った。触れた肩からそれを察して、政宗は続けてはっきり告げた。
「全部雨に流すこと。それが幸せに生きていく上で、肝心要のことなのじゃろう。」
それが遠呂智の遺志であるなら、政宗は最期まで貫きたかった。幸村に政宗は立ち止まり笑いかけた。
「不安にならずともお主くらいなら、わしの傘には匿える。安心せい。」
弱い光が雲間から差し込み、政宗は気付いて空を見上げた。日差しは段々強くなり、水色の空がちらちらと小さく覗いた。政宗は目を眇め、苦笑した。
「話しておったら、雨も止んでしもうたようじゃな。」
つられて、幸村も笑った。
「そのようですね。」
「送ると言うておったのに、こんなに早く止むのならかえって悪いことをしたの。」
「いえ、ありがとうございました。宜しければ大したもてなしも出来ませんが、お茶でも一服していって下さい。」
「…、では貰おうか。」
答えた政宗が傘を閉じて雨粒を落とし、幸村へ向かって手を差し出した。それを逡巡することもなく、幸村は取って握り締めた。
初掲載 2007年10月13日
改訂 同年10月14日