山犬の災難


 幸村にその命が下ったのは、一昨日のことだった。命というより、頼みに近いのかもしれない。西軍の総大将三成からのそれは、長谷堂にいるはずの上杉軍に関ヶ原へ支援しに来るよう伝えろというものだった。上杉に長い間滞在していたことがあり、兼継とも個人的に親交がある幸村が使者に選ばれたのは一瞬尤もらしい気もしたが、しかし状況は東軍と対峙している緊迫したもので予断を許さない。それにもかかわらず何故、主力武将である幸村が使者に選ばれたのだろうと首を傾げる者は多々あった。そんな中、幸村は三成への信頼ゆえ特に考えもせず、何か策があるのだろうと長谷堂へと馬を走らせた。


 ところで一方、東軍に属する政宗が長谷堂に着いたのは、昨日のことだった。上杉と戦っている最上の援護など死んでも嫌だったが、恩を売るのも悪くあるまいと無理矢理損得勘定で本心をねじ伏せ、あのいけすかない山城のやつ人を山犬などと呼んだお礼でぼっこぼこに叩きのめしてやると指を鳴らしていた政宗は、着いた長谷堂で呆気にとられた。上杉軍は何を思ったのか、何処かへ撤退してしまったのだというのだ。それをまんまと逃した最上を散々叱り、ついでに戦評定でこれがどう評価されることやらと脅しつけ、からかってから山形城へ帰したのが今朝のことだった。
 「わざわざはるばるやって来たというのに、何なんじゃ。」
 ただで帰るのはつまらない。しかし、これは西軍の策なのかもしれない。政宗は自らが率いてきた軍に、岩手沢城が急襲されるかもしれないので警戒を怠らぬよう言って聞かせて追い返し、一人長谷堂付近に佇んでいた。そうして、正午を少し回った頃、流石に暇さ加減に閉口し、さあ帰ろうかと馬に乗りかけたそのときだ。獲物がはるばるやって来た。幸村だ。やはりこれは西軍の何かの策だったのだろうと一人ごちた政宗は、銃に手をかけ歩き出した。案外律儀でかつ自尊心の高い男なので、不意打ちではなく正々堂々真っ向から倒してやろうと思っていた。日の本一の兵を叩きのめすわし格好良い、そう思っていたのかは定かではない。


 そのとき孫市は馬を走らせ、長谷堂に向かっていた。放った密使が先に着いたらしく、関ヶ原に向かう上杉軍と長谷堂に向かった幸村で入れ違いになったようなのだ。白けた風でありながら実はがちがちに緊張していたらしく密使を出した事実すら忘れていた三成は、その事態に小さく咳払いをした。恥ずかしかったのだろう。ともあれ、もう総力戦になるのだからと孫市が長谷堂へ幸村を呼びに向かうこととなった。今度は命や頼みからではなく、孫市個人の善意からである。知らぬ間に戦が終わっていたなど、幸村は知れば嘆くだろう。
 「もう少し肩の力を抜いて構えりゃいいのにな。」
 出がけの三成の様子に、何事も楽しんでかかった亡き親友を思い出し、苦笑したそのときだ。がさがさっと大きな葉擦れの音が響いた。忍びあるいは鉄砲隊でも潜んでいたのだろうか。孫市が用心して馬を止め、地に降りたって音の正体を警戒していると、森の中からわっと何かが飛び出してきた。孫市はびっくりした。それは敵方で高い地位を占める伊達家当主の政宗だった。
 「ど、どうした?」
 来るなりぎゅうと抱きつかれ、流石の孫市も呆気にとられた。理由はわからないがよほど怖い目にあったのか震えているし、鼻を啜る音も嗚咽も漏らしてわあわあ泣いているし、その上一体何がと孫市が視線を向けてみれば、本当に何があったのか政宗は全体的にぼろっぼろだった。普段はきっちり鎧を着込んでいる印象があったので、孫市は更にびっくりした。ついうっかり、俺は女を泣かせる胸は持ってても男を泣かせる胸は持ってないんでね、と告げるのを躊躇ったくらいだ。これで政宗が女だったら、まず迷うことなく、孫市は「男に襲われた」という一つの結論に辿り着いただろう。
 状況がわからず、孫市が対応に困り頬を掻くと、更にがさがさ音がした。今度こそ敵だろうか。銃に手をかけ身構えてみれば、やって来たのは幸村だった。
 「政宗様お待ちください、まだお召しが…。…?孫市殿、こんなところで。どうかしたのですか?」
 「いや、上杉とお前が行き違えたみたいだから、お前を迎えに。って幸村もこんなとこでどうしたんだよ。」
 泣く政宗をあやしながら脱力してそう訊くと、幸村はにっこり笑って答えた。
 「私はただ、政宗様が首をくれてやると申されましたので、」
 それはどんな状況だろう。一騎打ちでもして、政宗がぼろ負けしたのだろうか。少し疑問に思い視線を落とすと、政宗が抱きつく力を強めた。大人しいやつほど切れると手に負えないと世間一般で言われているし、何となく嫌な予感がしたのも確かだ。孫市が内心感じている不安など露知らず、幸村はにこにこ笑って続けた。
 「ならばその首は私のものですね、私と一緒に来てもらいましょうと言って。」
 「…言って?」
 「…白昼に話すような話でもありませんし、関ヶ原へ向かいましょう。皆さん待っているのでしょう?」
 頬を赤く染めはにかむ様子は、おぼこな青年といったところだ。しかしその裏何があったのか察した孫市は、引きつった笑みを浮かべ、政宗を抱き抱える腕に力を込めた。気分はすっかり子を守る母だ。恋する気持ちがそうさせるのか、やはり、大人しいやつほど切れると手に負えないというのは事実なようである。


 関ヶ原において西軍が勝利を収めたのは、その四日後のことだった。当主が人質に取られた伊達勢が手を出しかねたという事実も、勝敗を決した一因なようである。幸村の結婚が執り行われたのはそれから間もないことだったのも、一応、記しておくことにしよう。












初掲載 2007年10月8日