ういうい


 鍛錬場脇に設けられた水場で、幸村は頭から水を被っていた。胸を借りるつもりで鍛錬に付き合ってもらった関羽は劉備に呼ばれ、一足先にその場を後にしている。空になった桶を井戸へと戻し、幸村は木にかけておいた手拭を取った。流石は、世に名高き軍神だ。幸村は本気のつもりだったが、結局一本も取れなかった。幸村は手拭で滴る水を拭き、大きく息を吐いた。
 無論、実践は鍛錬場のような広い場所でのみ行われるものではない。そこには戦術や戦況といった外的要因も絡んでくる。何より関羽の足が決して速いと呼べる代物ではないことを考慮にあげれば、今回の手合わせでの敗北はそれほど問題にならないと言っても良い。しかし生真面目な幸村は、関羽に劣らぬよう精進せねばと固く誓った。
 ふと、視線を感じ幸村は振り返った。棟と棟とを繋ぐ廊下の窓から、政宗がこちらを眺めていた。丁度通りかかったところに、幸村の姿を見止めたようだ。
 戦の殆どを遠呂智軍として参加していたとはいえ、孫市や配下の例を見るように、政宗は元々情に篤い人物だ。今ではすっかり蜀に馴染んでいる。諸葛亮にその高い能力を買われ、仕事で城を空けていることも多い。
 泥酔した張飛に引き摺られるようにして、政宗の邸を訪れたのはいつだっただろうか、と幸村は思った。張飛と島津どちらが酒豪かということで行われた酒盛りの夜のことだったから、それほど昔ではないはずだ。あの日はどうしたことか、話題が、幸村が政宗を懸想しているというものに転じてしまい、その恋をさっさと実らせようと張飛が幸村を掴んで放さず、幸村は散々肝を冷やした。一緒に義兄を助け出してくれた幸村に対する張飛なりの好意なのだろうが、想いを隠しておきたい身としては、あまりありがたくない好意である。島津は張飛に放っておくよう勧めたが、泥酔した張飛はまったく聞き入れなかった。結局政宗は不在で、留守を預かる綱元に出迎えられて終わったのだが、それで良かったとそのとき幸村は心底胸を撫で下ろした。
 しばらく記憶を漁ってもその日の日付は思い出せず、代わりに、翌日死にたくなるくらい二日酔いに苛まれたことを思い出し、幸村はわずかに顔をしかめた。酒に弱いはずはないのだが、絡み酒で酒豪の張飛にかかっては幸村も形無しだった。流石は、身を滅ぼすほど酒を呑んだ人物である。内心、次回は趙雲のように笑って酒の席は辞退しようと誓いつつ、幸村は政宗に会釈した。
 「お久しぶりです、政宗様。いつお戻りで?」
 「今しがた。丁度劉備に挨拶をして来て、今から邸に帰るところじゃ。留守が長かったからな。」
 会話を続けるため、幸村が壁に立てかけておいた得物を手に歩み寄る間にも、政宗は身軽に廊下の窓辺へ腰を下ろした。本来ならば無作法だと窘めるべき行動だが、相手が政宗ということもあって、注意する気にはならなかった。政宗が窓に座ったことにより、双方の目線がほとんど釣りあっている。その常よりわずかなものとなった身長さに幸村が新鮮さを感じているとは露知らず、彼方を見やり、政宗が言った。
 「信長のところは、わしらより一足先に復興に着手しておるようじゃった。信長、秀吉、信玄に謙信。董卓から盗んだ資金まで潤沢にあるのじゃから、当然じゃな。」
 「蜀はまだ、資金不足が否めませんからね。」
 「まったく、それでどこぞから援助をもらって来いと言われても、どこがほいほい出すというんじゃ。どこもかしこも、他に回せる金などなかろう。諸葛亮も勝手なことを言いよる。」
 「それは政宗様のことを信頼してのことでしょう。」
 告げる幸村に、政宗は満更でもないように「お主も勝手なことを言いおって。」と嘆息した。その仕草がまるで、結局わしがしてやらねば誰も何もせんのじゃなやれやれ、とでも言っているのかのようで、幸村は思わず笑みをこぼした。政宗の大仰な仕草が好きだった。
 「ともあれ、無事お戻りで良かったです。」
 はにかんだ幸村を目を眇めて見やり、ふと思い出したように、政宗は口を開いた。
 「それはそうと、鍛錬でもしておったのか。」
 「はい、関羽殿に手合わせ願いまして。完敗でした。」
 ついと指先が伸ばされた。突然の行為に戸惑い動きを止めると、政宗の指が幸村の髪の水滴を払った。
 「それで水を浴びて、その後ちゃんと拭かなかった、というわけか。水滴がまだついておる。」
 政宗が苦笑した。その白い指が髪から口元へ流れていき、幸村の唇へ触れた。何と言えば良いのかわからず、目を向ける先にすら困った様子で幸村が瞬きすると、その様子に政宗が小さく笑った。笑って、掠めるように唇を寄せた。ままごとのような口付けだった。ふわりと細く柔らかい猫っ毛が頬をくすぐり、鼻先を甘い香りが掠めた。
 思考が完全に白く染まり、何があったのかわからなかった。
 「ちゃんと拭かねば、風邪を引くぞ。風邪を引いては鍛錬も出来まい。」
 わざとらしいほど真面目な口調で言い捨てて、政宗は窓からひょいと飛び降りた。小さな背が遠ざかっていく。
 幸村は数度瞬きした。一瞬触れた唇に、政宗は言及しなかった。何事もなかったかのように、いたって普通に姿を消した。しかし、政宗の背が視界から消える寸前、今にも聞き漏らしてしまいそうな小さな笑い声が、幸村の耳に届いた。いたずらを成功させた童のような笑い声だった。政宗のそんな笑い声を、耳にしたのは実に数年ぶりのことだった。
 彼は笑いながら、何を思ったのだろうか。
 完全に政宗の姿が視界から消えてから、もう一度、幸村は瞬きをした。遅れて、今更のように実感が沸き起こり、頬がかあと熱くなった。無言で、幸村は踵を返した。井戸へ足早に歩を進めつつ、恐る恐る指先で触れた唇は緊張に乾いていた。ついさきほど、政宗の唇がここに触れたのだ。信じられない思いがした。
 とりあえず水をもう一度浴びて頭を冷やし、それから、ちゃんと水気を取ろう。誰にともなく、幸村は小さく頷いた。
 そうして邸を訪れた幸村を、政宗ははたして迎え入れてくれるだろうか。











初掲載 2007年9月1日