雪の朝


 北国の冬は総じてそうだが、奥羽の冬はことさら寒い気がする。政宗は障子を開け放し、白銀の雪が陽光をはじく様をぼんやりと見つめた。それとも、一人身の寂しさゆえにそう思うだけだろうか。
 わいた欠伸をかみ殺し、政宗は重たい目をこすった。それにしても、春眠暁を覚えずというが、冬も暁など気にならないくらい眠い上に寒い。いや、冬は寒いから、眠い。我ながら細すぎると思う腕に鳥肌が浮いているのを目にして、政宗は苦い顔で腕を擦った。障子を開けるくらい、と横着しないで、何か羽織るべきだった。
 寒いから、さっさと火鉢に火をいれよう。そう決心して室内に戻ろうとしたとき、ふと、見覚えのある赤が白銀世界に見えた気がして、政宗は立ち止まった。そんなわけがない。睫毛を瞬かせて、政宗はとうとう寒さに頭までやられたかと溜め息混じりにゆるく頭を振った。そんなわけがない、あの赤揃えは、今、上田にいるはずだ。3日前、くのいち経由で幸村からは文が届いたばかりだった。たんに忍が使いとして来ただけなのだからそんなことを要求される云われはまったくないのだが、くのいちが土産に何か寄こせと帰り際にごねてさんざんだったので、政宗はよく覚えていた。3日前、だ。それは完全に間違いない。仕方なしに、幸村といっしょに食えと言って、政宗は菓子折りを持たせたのだった。だから、幸村がこんな場所にいるわけがない。
 当たり障りのない、それでいて真摯さがひしひしと伝わる幸村のまっすぐな文章、その末文での一言を思い出し、政宗は心が温まるのを感じ、目を閉じた。もう一眠りする前に手紙を再読しよう。政宗は誰にともなく頷き、再び足を部屋へと進めた。
 最後に記された、会いたい、ただその一言がこれほどまでに胸を打つのは、ありきたりだが恋人会いたさというやつだろう。政宗は自分がそんなありきたりな人間になるなど、実際恋に落ちるまで思ってもみなかった。我ながらありえないほど恋に現を抜かしていた。
 意外なことに、政宗はそんな自分が嫌ではなかった。
 「政宗様。」
 幸村のことを考えていたためか、とうとう幻聴まで聞こえてきた。政宗はこめかみに手をあて、苦笑した。幻視に引き続き、幻聴とは。寒さとはここまで頭を駄目にする効果があっただろうか。それとも、自分はここまで知らず内に、恋わずらいに犯されていたのだろうか。医者でも草津の湯でも治せぬというから治す気は毛頭ないが、それにしても、今日の執務が正常に行えるのか、正直不安だ。冬の寒さとは違う寒気を感じ、政宗は二の腕を擦った。できれば、恋に溺れきっている親友の孫市のようにはなりたくないものである。あれは見ていて痛々しい。
 いや、あれは呆気なく女どもに孫市のやつが振られるからじゃな。一人ごちた政宗の耳を、再び、呼び声が打った。
 「政宗様!」
 もう一度、さきほどよりもはっきり聞こえた声に、政宗は何か自分が思い違いをしているのではないかと思い、後ろを振り返った。
 「おはようございます。」
 人好きのする笑みを浮かべた赤揃えの男が、そこには立っていた。これが幻視でも幻聴でもなければ、政宗の知っている実在する存在であれば、上田にいるはずの幸村だった。政宗はいっしゅん返答に窮してから、とりあえず、礼には礼を尽くし挨拶を返すことにした。
 「…おはよう。幸村、か?」
 狐にでも化かされている気分だった。もしや、くのいちの悪戯ではあるまいな、そんな考えさえ起こった。幸村はにこにこ笑いながら、嬉しそうに頷いた。
 「はい。幸村にございます。」
 「どうした。こんな早朝に。」
 早朝以前の問題だ。我ながら間抜けな問いをしたものだと、政宗は心中で溜め息をついた。なぜ、上田にいるはずの幸村が奥羽にいるのか、まずそこから尋ねるべきであろう。眠さと寒さで、どうもまだ頭が寝惚けているようだ。
 政宗の問いかけに、幸村は照れたようにはにかんで頭をかいた。
 「その。一昨夜、三日月が実に見事だったのです。」
 「ふむ?」
 「それで、三日月を見ていましたら、政宗様に会いたくなり、いてもたってもいられず来てしまいました。」
 はっきりと満足そうに言いきり、にこにこと笑っている幸村はいつもどおりの幸村だった。あっけらかんとした回答に、政宗はさすがに少し呆れた。
 確かに、会いたい気持ちはわからないでもない。政宗自身、幸村のことを思うたびに、脳裏の回想よりも実際に会いたいと思う。会って、触れ合いたいと思う。それでも実行するに至らないのは、政宗が伊達当主としての責務に負われているからというのもあるが、それ以上に、今が冬だからだった。冬、奥羽は北国のさがで、雪に囲まれ、他国との接触が絶えるのである。
 政宗は、それにもかかわらず奥羽へやって来た幸村を眺めた。本当に思い立ってその足でまっすぐにやって来たのだろう。幸村の象徴たる赤揃えとはいえ、幸村は戦装束というわけではなく、政宗が呆気にとられるほどの薄着だった。馬を駆けて来たからそれでも十分だったと幸村は笑うかもしれないが、寒暖にすさまじく弱い政宗には、とうてい信じられない薄着だった。深夜降った雪が、ちらほらと幸村の髪を凍りつかせて張り付いていた。
 見ているだけで寒さを感じ、政宗は大きく溜め息をついて尋ねた。
 「それで、お主はどうするのじゃ?」
 「はい。政宗様のお顔も拝見できましたので、帰ろうかと。」
 「それで満足なのか。」
 「はい。」
 即答した幸村に、政宗はもう一度大きくわざとらしく溜め息をつき、幸村の髪へ手を延ばした。指先でぱらぱらと氷片が崩れて落ちた。
 政宗が一見した限り、幸村は凍傷を負っていないようだった。だが、下手をすれば凍死してもおかしくなかった。実際、奥羽では毎年多くの凍死者が出るのである。また、家屋が雪で潰されての圧死もたびたび起こる。この旅人の往来も絶える冬に、はたして幸村がどこを歩いてきたのかは定かではないが、一応、雪に埋もれもせず生きている。結果論になってしまうが、問題はないようだ。
 それでも政宗は、もしかしたら、の可能性を考えるだけで肝が冷えた。
 「…お主、馬鹿じゃろう。」
 そっとてのひらを這わせた幸村の肌は、凍りついたように冷たかった。政宗は今度は胸中でひっそり嘆息して、幸村の袖を引いた。袖は溶けた雪で濡れて、摘むだけで、指の芯まで冷たさが染みとおった。
 「こんな遠くまでわざわざ来ておいて、すぐさま引き返すこともあるまい。わしはこの程度の逢瀬ではまだ足りん。第一、このままではお主が風邪を引く。」
 幸村が目をまたたかせた。政宗は小さく笑い、寒さに白く冷え切ってしまった己の二の腕を擦った。幸村のおかげで、今日は朝から心身ともに冷えてしまった。
 「それに、わしは今とても寒い。懐石代わりにしばしこちらにいるくらいなら、ばちは当たるまい。どうせそのうち、二三日中にくのいちが様子を見に来るじゃろう。わしはこれから二度寝するゆえ、枕として隣におるがよい。」
 本当に、寒さに頭がやられてしまったようだ。政宗は、へそ曲がりな自分にしては素直すぎるほどの言葉だと心中驚きながら、ざっと幸村の全身に目を配らせ、小さく吹き出した。政宗の言葉に目を輝かせた幸村は、まるで、雪遊びではしゃぎすぎた子どものようだった。全身雪まみれなのが、そう思う根拠だろう。
 ふと頭の片隅で、くのいちに持たせた文と菓子折りはどうなったのだろう、と政宗は思ったが、すぐさまどうでもいいと判断した。菓子折りなど、どうせくのいちは幸村に心の中で謝罪しつつも勝手に食べるだろうし、文に書いた内容など、政宗が幸村に口頭で伝えればいいだけだ。
 はて、何を書いたのだったか。柄にもなく、すさまじく熱烈なことを書いてしまった気がする。政宗は口元に手をあて、それをあえて告げるのも面白そうだと笑みを浮かべた。知らせたときの、幸村の反応が見てみたい。
 幸村の手を引き、政宗はあまりの冷たさに顔をしかめて言った。
 「何にせよ、まずは風呂じゃな。」
 執務などいつでもできるが、幸村に会えるのはそうそうないのだ。
 その言葉に、幸村が嬉しそうに笑みをこぼして、はい、と大きく頷いた。











初掲載 2007年6月1日