それは憐みに似ていた。
絶対的な強者に対して憐みを覚えるなど可笑しな話かもしれない。
実際、政宗が抱くこの感情に対して「憐み」という名で説明したなら、政宗同様遠呂智の腹心という立場を得ている妲妃や清盛は声を立て笑っただろう。
それがわかるがため、政宗も憐みと名付けていいものか長らく決めかねていた。
遠呂智は不幸な存在だった。
強すぎるため、弱さを知らない。強すぎるため、絶望を知っている。完結しているため先を望めず、ゆえに、そこに希望も生じず、ただ蔓延たる終幕を願う。
遠呂智はそのような存在だった。
遠呂智の「完全」に惹かれた政宗は、それゆえ、その「不幸」も知らねばならなかった。目を逸らしても瞼を瞑っても、その不幸は以前存在し続けた。不幸は絶対の二律背反で、決して、抗えぬ運命だった。
絶対を欲し続けた政宗は、そのことも、遠呂智から学ぶこととなった。できうれば、知りたくないことだった。
人間は不完全だ。不完全ゆえに完全を願い、不完全ゆえに補完を欲する。
結局、それが刹那の仕官であると知りながら、政宗は遠呂智に力を貸した。利用されている己を知りながら、政宗は遠呂智に夢を託した。
ために、政宗は己同様利用されている卑弥呼に憐憫の情を抱いた。
卑弥呼は妲妃を慕う少女であるが、自身が遠呂智を復活させるという役割ゆえに愛される事実を知らない哀れな小娘だった。知っていてその現実から目を背けていると信じるにはあまりに無邪気な娘で、それゆえに、政宗はいっそう卑弥呼のことを憐憫の目で眺めていた。
この娘は役目を終えた後どうするのだろう。
政宗はそのように思い煩うこともあった。しかし、政宗の現状は、他を気にしていられるような甘い状況でもなかった。
遠呂智は死ぬ。
遠呂智が死を欲する限り、それは逃れられない運命だ。どれだけ政宗が奔走しようと、どれだけ政宗が懇願しようと、遠呂智はそれを止めないだろう。哀しいかな、政宗はそのことを重々承知していた。
仮に、遠呂智と共に没することができれば、それは幸せなことかもしれない。
だが、政宗自身知っているように、政宗はどこまでも生に執着する性にあった。死んでは何にもならぬ。それは政宗の哲学だった。
政宗が思い惑う間にも、終焉の足音は大きくなっていき、とうとう現在に追いついてしまった。
あれほど忌避した遠呂智との最後があまりに呆気なく現実味がなかったのは、二度目の喪失だからかもしれない。それは政宗から絶望すら剥奪させて、ただ、化かされた後の目覚めのような、良し悪しは別として夢を見たような、何とも言いようのない思いに駆らせた。
それは、憐みに似ていた。
遠呂智に対する強すぎる感情を政宗は少なくとも憐みと信じたし、また、そう信じたことが正しいと思った。政宗は憐みを抱いたはずだった。
それは、憐みに似ていただけだった。
失ってから、恋だと気付いた。
初掲載 2008年7月6日