浅き夢見し


 その手を振り解かねば良かった。
 突き放すように振り解き、彼を見上げた目には恐怖が浮かんでいたのだと思う。ただ、怖かったのだ。手に入れた後、手に入れたものを失うのが、怖かった。手に入れた幸せは、いつも、この小さな手のひらからこぼれ落ちて消えてしまった。
 彼もまたその一途を辿るのではないかと、ただ、怖かった。
 彼は何も言わなかった。悲しそうな顔をして、いつものように微笑んだ。




 放すべきではなかった。




 つきりと痛みを感じて、政宗は目覚めた。束の間寝ていたようだ。
 外では雨が降っていた。
 偏頭痛持ちの身としては、こうして絶えず雨の降りしきる梅雨の時期は辛い。重い頭を軽く振り、政宗は身を起こした。身体も心もだるい。目覚めはあまり良くなかった。
 この時期、政宗は寝る前、偏頭痛の薬と水を盆に並べておくようにしている。わざわざ薬を探しに行く手間を惜しんでのことだ。施錠された棚ではなく、眠る政宗の手元であることは、頭痛薬が毒薬とすり替えられる危険性を十分に孕んでいた。だが、それを知りつつも政宗が現在のような措置を取っているのは、隠密に気付く自信があったわけではない。内心、自身の生死などどうでもいいと思っているからだ。
 むしろ、この世界に来るまでは死を望んでさえいた。伊達という枷がなければ、政宗はさっさと銃を手にとっていただろう。世間一般の武士のように、切腹する気は毛頭なかった。死ぬならば銃でと決めていた。幸村の命の炎を吹き飛ばした銃で、終らせたいと思っていた。
 痛む頭を軽く押さえ、政宗は暗闇の中薬を探った。月明かりに銃の金の部分が光り、政宗は目を眇めた。かたり、と手が何かに触れる。
 薬はずいぶんと遠い場所にあった。
 立ち上がるのも億劫で、政宗は指先をどうにか縁に引っ掛けて盆を引き寄せた。僅かに水音が立った。
 いつもと勝手が違うのは、珍しく布団を敷いて寝たためだ。政宗は他人と肌を重ね合わせない限り、布団では寝ないようにしている。それは、師の教えだった。しかし、それにしてはずいぶん盆が遠い。政宗にはこれほど遠くに盆を配した覚えがなかった。政宗はふっと隣に視線を向け、隣で動かない男を見詰めた。向けられた厚い背が浅く上下しているが、政宗にはこの男が寝ているのか否かわからなかった。
 盆を動かしたのは、慶次だろう。おそらく、政宗の手元が狂って触れ水をこぼさないようにという配慮から。人様をあれだけ煽っておいて自分はそんなことを考えていたのかと、政宗は苦い顔をして、薬の封を開けた。慶次に気を遣われるのが嫌だった。そしてそれ以上に、気を遣わせる己が堪らなく嫌だった。


 大阪夏の陣が幸村の死を以って終結されてから、数年が経った。数年が経ち、政宗は夢を見ることも求めることも諦め、大人になってしまった。つまらない大人だ。そんな大人には生涯なりたくないと告げていた昔の自分はどこに消えたのかと、政宗は歯がゆくてたまらなかった。大言壮語を吐いていた昔の自分は命知らずで世というものを知らなかったが、それでも、輝いていた。自信を持って幸村と相対できるような人間だった。
 そんなつまらない大人の仲間入りをして、偏頭痛に苛まれるようになってから、突然数年が巻き戻された。
 遠呂智の作り出した世界は、過去と未来と現在が入り交じった世界だった。この身を苛む頭痛よりもいっそ死を取ろうとした政宗の手を止めたのは、血のように紅い空と、そこから降りてきた遠呂智だった。死するにはまだ早いと、政宗は漠然ではあったがそのとき思った。己で幕引くのは早計だと、銃を置き遠呂智の方へ歩き出しながら、政宗は思った。
 それから数日経った日、政宗は慶次に再会した。遠呂智に惚れたとぬけぬけと話す男を前に、政宗はそうかと答えながら、昔のことを思った。自分では振り向かせることのできなかった慶次が、遠呂智に心酔している。
 遠呂智ならば、きっと―――。
 そのとき何を思ったのかは、正直覚えていない。もとより考えていなかったのかもしれない。政宗は薬を飲み干し、乾き苦りきった喉を水で潤した。苦いのは、何も薬のせいばかりでないことを知っていたが、認めたくなかった。
 慶次や幸村には、かつての記憶がなかった。いや正しくは、まだ政宗の到達した未来まで生きていない、過去の慶次や幸村だった。政宗のよく知る彼らでありながら、政宗のまるで知らない、政宗を知らない彼らだった。
 だから遠呂智が政宗の求めていたものを与えられるはずがないのだ。幸運の女神には前髪しかない。機会はこの手からすり抜け、永遠に失われてしまった。幸村は政宗のことを、かつてを、覚えていない。政宗は大人になってしまった。子どもだったあの頃には、もう、戻れない。
 遠呂智ならば、きっと―――。
 この後に何が続いたのだろうか。


 視線の先では慶次が静かに寝ていた。本当はこの男は起きているのではないか。再び疑惑がもたげたが、政宗は確認しようとは思わなかった。冒されている今の自分はきっとひどい顔をしているだろう。寝ているのであれば、起こしたくはなかった。
 ゆるく頭を振り、政宗は掌に視線を落とした。この手に重ねられた手を、政宗は振り解いた。差し伸べたこの手は、慶次によって拒まれた。この手が引いた引き金が、幸村の命を奪った。そして、この血に濡れた手を取り、最後の瞬間、幸村は笑ったのだ。命を奪った相手に見取られその腕で死ぬなど、武士として最低の死だったに違いない。それにもかかわらず、幸村は笑った。さきほどまでの覇気の欠片もない、寂しそうな笑顔だった。違えた道を悔いるかのようなその目に、政宗は思わず瞑目していた。こんな未来を手にしたかったわけではなかった。こんな未来にしたいわけではなかった。
 つきりと、痛みが走った。
 かつての記憶がないから、慶次は、かつての仲間を忘れ政宗の元にいる。遠呂智に心酔している。
 かつての記憶がないから、幸村は、未だに仲間と共にいる。政宗のことを忘れ、すべて忘れ、政宗と敵対する道を選んだのだ。また。
 偏頭痛で気分がよくないせいか、思考が暗い方向に流れている。これ以上は無意味だと、政宗は小さく溜め息を吐いて布団に潜り込んだ。もう、何も考えたくない。何も考えず、ただひたすら生きていく。それが今の政宗に願える唯一の望みだった。
 政宗は慶次の厚い背に腕を回し、瞼を閉ざした。
 これがいれば、あれはいない。あれがあれば、これはなかった。両方手にすることはできなかったのだ。両方手にすることができるほど、政宗の手は大きくなかった。いつも何かを捨てて、そうして政宗は生きてきた。何より、政宗はかつての政宗ではなくなってしまった。幸村に顔向けできるような人間ではない、つまらない大人に変わってしまっていた。
 手を伸ばすことなど、政宗にはできなかった。
 慶次はすべて覚えているのではないか。ふと、政宗は直感的にそう思い、目を開けた。浅く上下する背中。いや、そんなはずはない。そんなことがあってはならないと、政宗は首を振り否定した。記憶があれば、きっと、慶次は仲間の元に集っただろう。だから、記憶があるはずがない。そんなことは、あってはならない。
 つきりと再び痛みが走った。そこで政宗は思考を放棄して、つよく、瞼を瞑った。




 握りしめられた手。恐怖を覚え、振り解いた、あの温かい手。
 寂しそうな笑顔。
 あれが二度と手に入らないものだと知っていれば、政宗はきっと、放さなかった。











初掲載 2007年5月26日